最初はやさしい入門です。下に進むほど詳しい説明や研究内容を読めます。
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子ども向け
400年以上前の1592年から1598年まで、日本は、そのころ朝鮮(ちょうせん)という王国だった韓国(かんこく)で長い戦争をしました。そのころ明(みん)とよばれていた中国も、朝鮮を助けるために軍隊や船を送りました。1598年、日本の支配者の豊臣秀吉(とよとみひでよし)が亡くなり、日本の指導者たちは兵士を国へ帰すことに決めました。
ところが、小西行長(こにしゆきなが)という日本の将軍は、南の海岸の順天(スンチョン)にある城から出られなくなっていました。朝鮮の李舜臣(イ・スンシン)将軍と明の陳璘(ちんりん)将軍が率いる朝鮮と明の軍船が、城の前の海をふさいでいたので、小西の軍は船で帰ることができなかったのです。
島津義弘(しまづよしひろ)を中心とするほかの日本の将軍たちは、何百隻もの船を集め、小西を助けるために西へ向かいました。その通り道は、南海島(ナメド)という島と陸地のあいだにある、露梁(ノリャン)というせまい水路でした。李舜臣と陳璘は、夜どおし船を進めて、そこで日本の船を待ちうけました。
戦いは暗やみの中で始まり、日がのぼってからも続きました。大砲がとどろき、火のついた矢が飛び、船どうしがぶつかり合いました。たくさんの日本の船が焼かれたりうばわれたりして、残りの船は引き返しました。李舜臣は、にげる船を追いかけているときに、鉄砲の弾に当たりました。古い記録によると、李舜臣はそばにいた人たちに「戦いはいま、まっさかりだ。わたしが死んだことをだれにも言うな」と言ったそうです。
李舜臣は亡くなり、明の年をとった将軍、鄧子龍(とうしりゅう)も亡くなりました。みんなが戦っているあいだに、小西の軍は別の道を通ってにげ出しました。数日後、最後の日本の兵士たちが釜山(プサン)から船で国へ帰り、長い戦争は終わりました。韓国の人たちは今も、李舜臣をいちばんの英雄として大切に思っています。
ひと目でわかる
- 日付
- 1598年旧暦11月18日の夜から19日にかけて(朝鮮の暦)=西暦(グレゴリオ暦)1598年12月15日~16日(韓国天文研究院の換算表による)。戦闘は12月16日の夜明け前に始まり、夜明けを過ぎて午前中まで続いた。日本側の記述は日本の暦で11月18日とするが、これは朝鮮の暦の19日と同じ西暦の日にあたる
- 場所
- 南海島と本土のあいだの露梁海峡(現在の慶尚南道南海郡・河東郡)。最後の戦闘は南海島の観音浦の湾の近くで行われた
- 戦争
- 文禄・慶長の役(壬辰倭乱)のうち、日本の第二次侵攻(慶長の役、丁酉再乱、1597~1598年)。豊臣秀吉の死後の日本軍撤退のさなか
- 指揮官
- 朝鮮:三道水軍統制使の李舜臣(戦死)/明:陳璘と、鄧子龍(戦死)ら諸将/日本:島津義弘と、立花宗茂、宗義智、寺沢正成ら
- 兵力
- 朝鮮:サミュエル・ホーリーに従う英語版ウィキペディアによれば、板屋船82隻、約8000人/明:同じ典拠によれば、李舜臣が貸した板屋船2隻のほかに63隻、広東水軍5000人と、朝鮮の船に乗り込んだ海兵2600人。連合艦隊は約150隻(英語版ウィキペディア)、または200隻余り(『韓国民族文化大百科事典』)とされる/日本:李徳馨の朝廷への報告によれば300隻余り、『韓国民族文化大百科事典』と英語版ウィキペディアによれば約500隻
- 損害
- 日本:李徳馨の報告によれば撃破200隻余り、死傷者数千人。陳璘の使者は、焼いた船200隻、拿捕100隻、首級500、捕虜180人余りと報告した。日本側の記述は信頼できる合計ではなく、まちまちの主張を伝えるにとどまる/朝鮮:李舜臣を含む約10人の指揮官が銃弾で戦死したと報告された/明:鄧子龍らが戦死
- 結果
- 朝鮮・明側の海上での勝利。日本の救援艦隊は大きな損害を受けて東へ退いた。しかし小西行長の軍は戦いのあいだに別の経路で順天を離れ、日本軍は1598年12月下旬に釜山からの撤退を終えた
- 主な史料
- 『宣祖実録』(旧暦11月21日~29日の報告。李徳馨の報告と史官の論評を含む)、『宣祖修正実録』、柳成龍の『懲毖録』、『明史』、現代の著作が要約する日本の大名家の記録
地図の上で
同じころ、世界の別の場所では
このライブラリの記事のうち、ほぼ同じ時期に世界の遠く離れた場所で起きたことです。
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露梁で何が起きたのか
露梁海戦は、1592年に始まり1597年に再開された日本の朝鮮侵攻、すなわち文禄・慶長の役(壬辰倭乱)の最後の大規模な戦いである。1598年旧暦11月18日の夜から19日にかけて、海上で戦われた。韓国天文研究院(KASI)の換算表で換算すると、戦闘は1598年12月16日の夜明け前に始まった。『韓国民族文化大百科事典』は、この戦いを旧暦11月18日・19日のこととしている。
背景には日本軍の撤退があった。侵攻を始めた豊臣秀吉は1598年9月に死去し、日本の指導部は軍を帰国させることを決めた。最も西にいた小西行長の順天の軍は、朝鮮・明の連合艦隊が城の前の海を封鎖していたため、撤退できなかった。島津義弘を中心とするほかの日本の指揮官たちは、東の沿岸で艦隊を集め、小西を救援するため西へ向かった。その経路は、南海島と本土のあいだの狭い水路、露梁海峡を通っていた。
朝鮮の水軍の将・李舜臣と明の水軍の将・陳璘は、夜を徹して東へ進み、これを迎え撃った。戦いは暗闇の中で始まり、夜明けを過ぎても続いた。連合軍は大砲と火矢を用い、乗員は燃える物を敵の甲板に投げ込み、ところによっては船どうしが接近戦となった。朝までに日本艦隊は多くの船を失い、東へ退いていた。追撃のさなか、李舜臣は銃弾を受けて死んだ。柳成龍の『懲毖録』と『宣祖修正実録』によれば、彼はそばにいた者たちに、戦いが続いているあいだは自分の死を知らせないよう告げた。明の将・鄧子龍も戦死した。
勝利は完全なものではなかった。露梁で艦隊どうしが戦っているあいだに、小西の軍は別の経路で順天を離れ、1598年12月下旬には最後の日本軍が釜山から船で帰国した。したがって露梁はこの戦争の最後の大規模な戦いではあったが、戦争を正式に終わらせたものではなかった。講和条約はなく、朝鮮と日本の関係が回復したのは1607~1609年になってからである。以下の節では、この戦いがどのようにして起きたのか、史料が何を語り、どこで食い違うのかを見ていく。
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水軍の再建:古今島と陳璘との同盟
露梁の1年前、朝鮮水軍はほとんど消滅しかけていた。1597年8月、元均の率いる艦隊が漆川梁で壊滅し、その年の初めに罷免・投獄されていた李舜臣が再任されたが、残っていた船はわずかだった。1597年10月、彼は狭い鳴梁海峡ではるかに大きな日本艦隊を破った。『韓国民族文化大百科事典』によれば、彼はその後、宝花島(高下島、木浦の近く)を拠点とし、1598年旧暦2月(西暦3月)に、現在の莞島郡にある古今島へ本営を移した。
古今島は水軍を再建する拠点となった。『懲毖録』によれば、李舜臣のもとには8000人を超える兵がおり、彼らを養うために彼は海の通行証を発行した。沿岸を行き来する避難民の船は、大船は3石、中船は2石、小船は1石の米を納めて通行証を得なければならなかった。10日間で彼は1万石を超える穀物を集めた。また人々に銅や鉄を持ってこさせて大砲を鋳造し、木を伐って船を造らせ、拠点のまわりには避難民が住みついた。『韓国民族文化大百科事典』は、古今島で彼が屯田を耕させ、魚や塩を売ったことを付け加えており、『宣祖実録』の史官の論評も、再任後の彼に同じ施策の功を認めている。
1598年、明の水軍が彼に合流した。その指揮官の陳璘は広東の出身で、中国南部で反乱軍や海賊と戦って出世した人物であった。『明史』は彼を、有能な指揮官であると同時に、行く先々で貪欲で、たびたび弾劾された人物として描いている。彼は広東の兵5000を率いて朝鮮に送られ、1598年には明の水軍の指揮を任された。その年、彼の艦隊は南下して古今島で李舜臣に合流した。
『懲毖録』は、この同盟の話を二つの場面で語る。宣祖がソウルで陳璘を見送ったとき、柳成龍は陳璘の部下が地方の役人を殴るのを見て、陳璘が李舜臣の指揮に口を出すのではないかと案じた。しかし李舜臣は盛大な宴で陳璘を迎え、朝鮮の船が小競り合いで首級40を取ると、それをすべて陳璘の手柄として譲った。『懲毖録』によれば、陳璘はやがて何事も李舜臣に相談するようになり、李舜臣には「経天緯地の才、補天浴日の功」(天地を治める才と、天を繕い日を洗い清めるほどの功)があると王に書き送った。すべての記述がこれほど和やかなわけではない。韓国語版ウィキペディアの陳璘の記事は、露梁の前に、功や作戦をめぐって二人のあいだに争いがあったと述べている。どちらの記述も、1598年の終わりまでに二つの艦隊がともに作戦にあたっていた点では一致している。
やさしい
秀吉の死と四路並進作戦
1598年、日本軍は東の蔚山から西の順天まで、朝鮮の南岸に沿って連なる城(倭城)を守っていた。蔚山は加藤清正、中央の泗川は島津義弘、順天は小西行長が守った。城は日本から船で補給を受けられるよう海辺に築かれていた。1598年1月から2月にかけての連合軍による最初の蔚山城包囲は失敗に終わっていた。
豊臣秀吉は1598年9月18日(慶長3年8月18日)、伏見城で死去した。跡継ぎの秀頼は5歳であった。英語版ウィキペディアによれば、秀頼の名のもとで政務を執ることになった五大老は、士気を保つためにその死を秘し、朝鮮にいる軍に帰国を命じた。秀吉の死の知らせは、遅れて、しかも食い違った形で朝鮮の朝廷に届いた。旧暦11月(西暦12月)に記録されたある報告で、朝鮮の指揮官は、戻ってきた捕虜たちの「秀吉は7月に死んだ」という誤った話を伝えた。捕虜たちは、徳川家康が政務を取り仕切っているとも語った。加藤清正が蔚山を放棄したときに残した掲示は、秀吉が8月に死んだと正しく述べていた。
一方、明・朝鮮の連合軍は、第二次侵攻で最大の攻勢を始めた。『懲毖録』と『韓国民族文化大百科事典』は「四路並進」(サロ・ピョンジン)の計画を記している。明の総督・邢玠は、東では麻貴に蔚山を、中央では董一元に泗川を、西では劉綎に順天を攻めさせ、陳璘には海から攻撃させた。朝鮮軍もそれぞれの軍とともに戦った。『懲毖録』はその結果を短い言葉でまとめている。攻撃はすべて失敗し、董一元の軍は最も大きな損害を出して敗れた、と。10月の泗川では、明軍の陣中で火災が起き、島津の守備隊が城から打って出たため、攻撃は総崩れとなった。
順天では、劉綎の軍が10月19日ごろから陸上で攻撃し、李舜臣と陳璘が海から攻撃した。日本語版ウィキペディアは、日本と朝鮮の記録を要約して次のように述べる。劉綎はまず小西を和議の会見におびき出して捕らえようとしたが、伏兵が早く動きすぎて失敗した。陸と海からの総攻撃は明軍に大きな損害を出して失敗した。明の水軍の夜襲は、引き潮で多くの明の船が座礁して焼かれる結果に終わった。11月、劉綎は軍を引き、連合艦隊も一時古今島へ退いたが、その後戻って海から順天を封鎖した。
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追い詰められた小西:取引、贈り物、そして一隻の船
朝鮮の記録が倭橋と呼ぶ順天の小西の城には、日本語版ウィキペディアによれば、小西自身と松浦鎮信、有馬晴信、五島玄雅、大村喜前の五家の軍勢から成る約1万3700人がいた。撤退の命令が伝わるにつれ、ほかの守備隊は引き揚げ始めた。明の将軍・董一元に付けられた朝鮮の官員・李忠元は、董一元が担当する戦線の東陽倉にいた日本軍が旧暦11月17日に撤退を始め、翌日には70隻ほどの船が海を渡ったと報告した。加藤清正は蔚山を放棄した。しかし小西は、連合艦隊が城の前の海を押さえているあいだは、船で出ることができなかった。
小西は交渉によって抜け出そうとした。朝鮮の官員たちは、劉綎が小西とひそかに取引をしたと非難した。承旨たちは王に、劉綎は人質を日本側に送り、わざと日本軍を逃がし、陳璘が海路を断つのを止めたと申し上げた。加藤は蔚山を去るとき、明の将軍たちに宛てた掲示を残し、朝鮮の慶尚道観察使がそれを書き写して朝廷に送った。その中で加藤は、小西が明の将軍たちと三国の和平を結ぶことで合意し、彼のもとに人質が送られることになっていたと主張し、明が小西を包囲したことでその合意を破ったと非難していた。
海上では、小西は陳璘に頼った。『韓国民族文化大百科事典』によれば、小西は陳璘に賄賂を贈って退路を開くよう求め、陳璘は日本の連絡船1隻を通し、そのことを後で李舜臣に告げた。同事典によれば、小西はこの船を使って泗川の島津義弘と連絡を取り、救援艦隊に連合艦隊を背後から攻撃させようとした。『宣祖実録』の史官の論評は、これと関連する話を伝えている。ある夕方、4人の日本人が船で出て行き、李舜臣は陳璘に、彼らは援軍を求めに行ったに違いなく、まもなく大軍が来るだろうと言った。陳璘ははじめ迎え撃ちに出ることを拒んだが、李舜臣が涙ながらに頼むと承知した。
救援の軍勢は大きかった。左議政の李徳馨は南方から、泗川・南海・固城から来た300隻を超える日本の船が旧暦11月19日に露梁に着いたと報告した。『懲毖録』と『宣祖修正実録』は、小西が、朝鮮の記録が沈安頓吾(シム・アンドノ)と呼ぶ泗川の指揮官、すなわち島津に救援を求めたとする。日本語版ウィキペディアは、小西の救援に向かった指揮官として、島津義弘、立花宗茂、宗義智、高橋統増、小早川秀包、筑紫広門、寺沢正成を挙げている。
やさしい
海峡での夜戦:1598年12月15日~16日
露梁海峡は、河東の近くで南海島と本土を隔てる狭い水路である。泗川や固城から順天へ西に向かう艦隊は、ここを通るか、南海島の南を回らなければならなかった。『宣祖実録』の史官の論評によれば、連合艦隊は夜どおし漕いで夜明け前に露梁に着き、そこで到着しつつある日本艦隊を見つけた。『韓国民族文化大百科事典』は、後代の記述に記された、李舜臣がその夜に捧げたという祈りを引いている。「この敵を討ち滅ぼすことができるなら、死んでも悔いはありません。」
戦闘は未明に始まった。英語版ウィキペディアは開始を午前2時ごろとしている。連合軍は大砲と火矢を用い、船どうしが非常に近づいたので、朝鮮の乗員は燃える薪を日本の船の甲板に投げ込むことができた。日本側は激しい鉄砲の射撃で応じ、乗り移ろうとした。狭い海で両艦隊は入り乱れ、ある時点では陳璘の旗艦が包囲された。『懲毖録』と『宣祖修正実録』では、この船を救ったのは、そのときには李舜臣の甥・李莞が指揮していた李舜臣の船であった。
『明史』は、70歳を超えていたという明の老将・鄧子龍の死を記している。陳璘は彼を李舜臣とともに送り、大船3隻・兵1000人で先鋒を率いさせた。一番手柄を立てようとはやった鄧子龍は、兵200人とともに朝鮮の船に飛び移って敵に突撃したが、味方の別の船が誤って彼の船に火攻めの兵器を投げ込み、船が燃え上がると、日本兵が群がって彼を殺した。
日本側も大きな損害を受けた。日本語版ウィキペディアは日本の大名家の記録を要約して、島津義弘自身の船が遅れて乗り込まれそうになり、家臣たちの鉄砲の射撃と救援に来たほかの船によってようやく救われたこと、樺山久高の率いる一隊が取り残されて観音浦の湾で座礁し、徒歩で南海島を横断しなければならなかったことを伝えている。朝までに、日本艦隊は南海島の南側に沿って東へ退いていた。李徳馨は、死体、壊れた板、武器、衣服が海を埋め尽くし、水が流れないほどで、海は赤く染まっていたと報告した。
中級
李舜臣と鄧子龍の死
李舜臣は朝、追撃のさなかに戦死した。『宣祖修正実録』によれば、彼は南海の境まで敵を追い、矢や石にさらされながら自ら戦い、飛んできた銃弾に胸を撃たれた。そばにいた者たちが彼を支えて幕の中(帳中)に運び入れると、彼は「戦いはまさにたけなわである。くれぐれも私が死んだと言ってはならない」(戰方急,愼勿言我死)と言い、この言葉とともに息を引き取った。『懲毖録』も同じ言葉を伝え、弾は胸を貫いて背中に抜けたと付け加えている。53歳であった。
同じ二つの記述では、甥の李莞が死を隠し、兵たちに知られないよう、李舜臣の名で艦隊を督励し続けた。陳璘の船が包囲されたとき、救援を率いたのも李莞であった。陳璘は礼を述べるために李舜臣のもとへ人を送り、そこで初めて彼が死んだことを知った。『懲毖録』によれば、陳璘は椅子から床に身を投げ出し、「老爺(李舜臣)が生きていて私を救いに来てくれたと思っていたのに、なぜ死んでしまったのか」と叫び、胸を打って泣いた。朝鮮と明の兵士たちは、どの陣営でも泣いた。
『宣祖実録』で李徳馨の報告に付けられた史官の論評は、この場面を別の形で伝えている。そこには最期の言葉は何も記されていない。論評によれば、李舜臣は敵に矢を射ているときに撃たれ、息子が声をあげて泣こうとし、兵たちが動揺したが、そばにいた李文彧という人物が息子の泣き声を制し、衣服で遺体を覆い、太鼓を打って前進させた。兵たちは李舜臣が生きていると思って戦い続け、人々は「死んだ舜臣が生きた敵を破った」と言った。韓国語版ウィキペディアは、李文彧を、日本側に仕えていたことのある元捕虜の孫文彧と同一人物としている。現代の一般向けの話の中には、太鼓を打てとか、自分の鎧を着よといった言葉をさらに付け加えるものもあるが、それらは本稿が用いた朝廷の記録や『懲毖録』にはない。
死んだ朝鮮の指揮官は李舜臣だけではなかった。李徳馨は、李舜臣、加里浦僉使の李英男、楽安郡守の方徳龍、興陽県監の高得蒋ら、合わせて10人ほどが銃弾で死んだと報告した。明側については、『明史』は話を短くまとめ、鄧子龍が戦死し、彼を救いに向かった李舜臣も死んだとしている。
中級
小西の脱出と釜山からの最後の船
この戦いは小西を止めることはできなかった。李徳馨の報告によれば、小西は日本艦隊が敗れたのを見て外洋へ逃れ、陣営にとどまっていた日本兵は陣を捨て、南海の岸に積み上げていた穀物を残していった。『懲毖録』は、連合艦隊が敵を追って彼の陣の前を通り過ぎているあいだに、小西はその背後をすり抜けて逃れたとする。英語版ウィキペディアは、彼の経路を、露梁海峡と戦場を避けて南海島の南端を通るものとしている。日本語版ウィキペディアは、小西らの指揮官がその後、南海島に取り残された島津の兵約500人の救出を助けたと付け加えている。
日本の指揮官たちは釜山に集まった。英語版ウィキペディアによれば、小西、島津、加藤らの将は12月21日に日本へ向けて出航し、最後の船は12月24日に出た。知らせが届くのはもっと遅かった。旧暦11月28日、朝鮮のある指揮官は釜山に残る日本兵は50~60人にすぎないと報告し、29日(西暦12月26日)には備辺司が王に、釜山の日本軍は去ったと申し上げて、その知らせを宗廟に告げることを提案した。
朝廷の反応は複雑だった。重臣たちは、三路の日本軍が一斉に逃げ去ったことを王に祝賀しに来たが、同時に、7年のあいだ朝鮮は敵の陣を一つも破れず、敵の首魁たちが海を渡るのを許したことも認めた。宣祖は明の指揮官・邢玠に勝利の礼を述べた。朝廷の史官はさらに踏み込んで、侵略者が去るときに敵の将を一人も討ち取れなかったのに王を祝賀した大臣たちは非難に値する、と書いた。明の総督・邢玠は、劉綎・董一元・陳璘に釜山へ向かうよう命じ、朝鮮の朝廷に、ただちに李舜臣の後任を任命するよう求めた。
露梁はこの戦争の最後の大規模な戦いであったが、戦争は条約によって終わったわけではない。明軍はしばらく朝鮮にとどまり、徳川家康が率いるようになった日本は、対馬の宗氏を通じて和平を求めた。朝鮮は1607年に公式の使節団を日本に送り、1609年の己酉約条が対馬を通じた交易の条件を定めた。
中級
同じころの世界(1598年)
ヨーロッパでは、1598年は和解と代替わりの年であった。フランスでは、国王アンリ4世が1598年4月にナントの勅令を発してプロテスタントのユグノーに権利を認め、5月2日にはヴェルヴァン条約でスペインとの戦争を終えた。スペインのフェリペ2世は、秀吉の5日前の1598年9月13日にエル・エスコリアルで死去した。
ロシアでは、ツァーリのフョードル1世が1598年1月17日(当時ロシアで用いられていたユリウス暦では1月7日)に子のないまま死去し、摂政のボリス・ゴドゥノフがその年のうちにツァーリとなった。アイルランドでは九年戦争のさなか、ヒュー・オニールの率いるアイルランド軍が、イングランド側が用いていたユリウス暦で1598年8月14日(グレゴリオ暦では8月24日)、イエロー・フォードの戦いでイングランド軍を打ち破った。
これらの出来事は、いずれも露梁での戦いとは関係がない。並べてみて分かるのは、文禄・慶長の役が終わった年は、ほかの場所でもさまざまなものが終わった年だったということだけである。フランスの宗教戦争は終わりに向かい、スペインとロシアでは新しい君主が位を継いだ。
中級
露梁を記憶する
哀悼はすぐに始まった。『宣祖修正実録』と『懲毖録』によれば、李舜臣の棺が通る所ではどこでも、人々が供え物を並べ、泣きながら輿にすがりついたので、棺はなかなか進めなかった。朝廷は彼に右議政を追贈し、沿岸の人々は自分たちの手で彼の祠を建てた(『宣祖修正実録』では忠愍祠、『懲毖録』では愍忠祠と呼ばれる)。彼は牙山に葬られた。『韓国民族文化大百科事典』によれば、彼は1604年に宣武功臣一等に録され、1793年に領議政を追贈された。英語版ウィキペディアによれば、彼が最もよく知られる諡号・忠武(「忠義と武勇」)は1643年に贈られた。
南海島の二つの場所が、この戦いを記念している。海峡に近い雪川の忠烈祠は、李舜臣の遺体が牙山へ運ばれる前に安置されたと伝えられる場所で、1632年に地元の儒者たちが小さな祠を建て、1663年に王から扁額を賜った。彼が倒れたと伝えられる観音浦には、1832年に王命によって祭壇と碑が建てられ、碑文は洪奭周が撰した。そこの祠は「李舜臣が倒れた祠」を意味する李落祠と呼ばれる。両所は1973年に史跡に指定され、400周年にあたる1998年12月16日には、観音浦で彼の最期の言葉を刻んだ石が除幕された。
連合軍の将たちも記憶された。『明史』は、鄧子龍が死後に官位を贈られ、朝鮮でも祭祀が捧げられたと記している。韓国語版・英語版ウィキペディアによれば、陳璘の孫は明の滅亡後に朝鮮に移り住み、その子孫は広東陳氏となった。日本では、島津義弘は何よりも泗川での勝利と1600年の関ヶ原での敵中突破で記憶されている。日本語版ウィキペディアは、泗川の勝利が彼と島津家に伝説的な武名をもたらしたとする。日本側の記述によれば、朝鮮と明は彼を「鬼石曼子」(鬼島津)と呼んだという。
現代の韓国では、露梁は国民的英雄・李舜臣の物語の一部となっている。キム・ハンミン監督の2023年の映画『ノリャン ―死の海―』は、『バトル・オーシャン 海上決戦』(原題『鳴梁』、2014年)、『ハンサン ―龍の出現―』(2022年)に続く三部作の完結編となった。韓国語ではこの戦いはふつう、「大捷」(大勝利)ではなく「露梁海戦」と呼ばれ、日本語版ウィキペディアは、それは国を救った英雄がこの戦いで死んだからではないかとしている。
上級
船と死者を数える:史料は何を語るか
連合艦隊の規模は不確かである。英語版ウィキペディアはサミュエル・ホーリーに従い、朝鮮の板屋船82隻と水兵・海兵8000人、そして大型の戦闘用ジャンク6隻、より軽い軍船57隻、李舜臣が貸した板屋船2隻からなる明の艦隊と、広東水軍5000人、朝鮮の船に乗り込んで戦った明の海兵2600人を挙げ、全体で約150隻、1万6000人とする。『韓国民族文化大百科事典』は、連合艦隊を200隻余りとする。『明史』は陳璘に1万3000人余りと軍船数百隻があったとするが、これは露梁の艦隊ではなく、彼の水軍全体を指している。『懲毖録』の8000人余りという数字は、数か月前の古今島の李舜臣の拠点についてのものである。
日本側の数字はさらにばらつく。李徳馨は泗川・南海・固城からの300隻余りと報告した。『韓国民族文化大百科事典』と英語版ウィキペディアは約500隻とし、英語版ウィキペディアは兵を約2万人とする。日本語版ウィキペディアは、300隻も500隻も日本側の記録に由来する数字ではないと指摘し、関わった五家に割り当てられた動員数を合計すると約1万7000人になるとしている。韓国語版ウィキペディアの6万人という数字は、同じ記事の中で疑問視されている。
ここで引く損害の絶対数は、連合軍側の報告によるものである。李徳馨は、日本船200隻余りを撃破し、死傷者は数千人で、約100隻が南海の方へ逃れたと報告した。陳璘の使者は朝廷に、拿捕100隻、焼いた船200隻、首級500、捕虜180人余りと伝え、溺死者はまだ数えきれないと付け加えた。『宣祖修正実録』と『懲毖録』は、200隻余りを焼いたとする。『明史』は最後の作戦全体についての記述の中で、焼死・溺死した者は万単位で数えられたと主張しているが、この数字は露梁に限ったものとははっきりしない。日本語版ウィキペディアは、島津家の家史『征韓録』は失った船の数を挙げず、26人の死者の名を挙げて、ほかにも多くが死んだと付け加えるだけだと指摘する。つまり『征韓録』は全体の合計を示していない。日本語版ウィキペディアはまた、日本兵の半数が死んだとか、軍船60隻が帰還したとかいうほかの日本側の記述も引いているが、いずれも信頼できる全体の数字を確定するものではない。
連合軍の損害については、主に戦死した指揮官の名前が伝わっている。朝鮮側では李舜臣を含む約10人の指揮官が銃弾で戦死したと報告され、明側では鄧子龍らが戦死した。日本語版ウィキペディアは、朝鮮の船4隻、明の船2隻が沈んだという数字を引いているが、本稿が参照した史料は、どちらの側についても、戦死した一般の兵士や水夫の数を記録していない。
上級
史料とその問題点
知らせは段階的にソウルに届き、最初の報告は誤っていた。旧暦11月21日、明の西路軍の伝令は、連合軍が19日に倭橋の城を攻撃し、逃げようとする敵の船50隻余りを焼き、救援に来た「沈安道」、すなわち島津を討ち取ったと報告した。24日には陳璘の使者が戦果の数字を報告し、李舜臣の死を確認した。27日には李徳馨の報告が届いた。これは初期の朝鮮側の記述として最も詳しいもので、朝廷の史官はこれに、李舜臣の人柄と死についての長い論評を付けた。実際には島津は戦いを生き延び、1619年に日本で死去している。
李舜臣の最期の言葉として最もよく知られている形は、戦後に書かれたか編纂された二つの文献に由来する。柳成龍の『懲毖録』と、1657年に完成した『宣祖修正実録』であり、後者の露梁の記述はほぼ一字一句まで『懲毖録』に忠実に従っている。もとの『宣祖実録』の史官の論評は最期の言葉を伝えておらず、死を隠したのは李莞ではなく李文彧だとしている。『韓国民族文化大百科事典』は両方の要素を示しており、『懲毖録』と同じ最期の言葉を引いた後で、李文彧が遺体を覆ったことを記している。いずれの伝承も、李舜臣が戦闘中に撃たれ、その死が隠されたことでは一致しているが、彼が何を言い、だれが動いたかについては異なる。
明の史料は、明の報告の仕組みによって形づくられている。『明史』の陳璘伝は、島津の中国での呼び名である石曼子を迎え撃って討ち取ったことを彼の功としているが、これは事実ではない。日本語版ウィキペディアは、1599年に日本人捕虜が身分を誇張されて北京で献上された経緯を述べ、日本の主要な指揮官を一人も捕らえられなかったため、明の指揮官たちが戦果を水増ししたのではないかとしている。
日本側の史料は、戦いそのものについては手薄である。日本語版ウィキペディアは、島津家の家臣の日記や覚書、そして後代の島津家の史書『征韓録』(1671年)を挙げているが、これらは個々の家臣の働きや死を記すものの、合計はほとんど示していない。日本の記録は戦いと小西の出発を日本の暦の11月18日とし、朝鮮の記録は19日とする。二つの暦は1日ずれており、西暦に換算すると、どちらも12月15日から16日にかけての夜を指している。
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論争:だれが勝ったのか、なぜ戦ったのか、李舜臣はどのように死んだのか
だれが勝ったのか。朝鮮側の記述と、ここで引いた英語版・日本語版ウィキペディアの要約は、露梁を連合軍の海上での勝利としている。日本の救援艦隊は船の多くを失って引き返したのであり、日本語版ウィキペディアはこれを一般的な見方だとする。もう一つの点も強調されている。日本側の作戦の目的は小西を順天から脱出させることであり、その目的は達成された。日本語版ウィキペディアの島津義弘の記事はそのように明言しており、英語版ウィキペディアの戦争全体の記事も、戦略的には日本側が目的を果たしたとしている。二つの見方は同じ事実に基づいている。連合軍は海上の戦いに勝ったが、日本軍は逃れたのである。
なぜ、すでに去ろうとしている敵と戦ったのか。李舜臣と朝鮮の朝廷の多くの人々にとって、7年の戦争の後に日本軍を罰することなく去らせることは受け入れられなかった。旧暦11月24日の史官の論評はこの怒りを示しており、劉綎に対する非難もまた同じである。『韓国民族文化大百科事典』と『宣祖実録』によれば、陳璘ははじめ戦うことに気が進まず、劉綎は朝鮮の官員の目には交渉を好むように見えた。戦いが起きたのは、李舜臣が封鎖を解くことを拒み、日本軍が力ずくでそれを破ろうとしたからである。
李舜臣はみずから死を求めたのか。この説は、一般向けの歴史の中で長く生き続けている。この説は、1597年の彼の逮捕と拷問、そして戦後に彼が直面したであろう朝廷の政争を根拠とする。露梁海戦が起きたのと同じ時期に、彼の後ろ盾であった柳成龍は弾劾され、罷免されていた。韓国語版ウィキペディアは、この説を主張したチェ・ソンナムの1992年の伝記を挙げ、英語版ウィキペディアは、キム・フン(金薫)の2001年の小説『刀の詩(うた)』(邦訳『孤将』)が、李舜臣がわざと身をさらしたように描いているとする。『韓国民族文化大百科事典』は、李舜臣の死は後世の人々に多くの疑問を抱かせてきたが、それらは確かな証拠のない推測にとどまると記している。初期の記録は、彼が追撃の戦闘中に撃たれたと記している。
露梁は戦争の終わりだったのか。それは最後の大規模な戦いであり、朝鮮側の記述は、露梁をもって戦争が終わったとしばしば言う。しかし日本軍はすでに撤退中であり、最後の船は1週間後に釜山を出た。講和条約はなく、正常な関係が回復したのは1607~1609年になってからである。露梁は、すでに決まっていた撤退の激しい最終幕であり、連合軍にとって最も名高い指揮官を失う代償を伴った戦いとみるのが最もふさわしい。
重要なポイント
- 戦いながらの撤退
- 秀吉の死後、日本はすでに朝鮮から撤退することを決めていた。最後の戦いは、征服のためではなく、閉じ込められた軍を脱出させるため、そしてその脱出を阻むために戦われた。
- 封鎖
- 連合艦隊は順天の前の海を押さえることで、小西の軍が船で去るのを阻んだ。この封鎖を破ることが、日本の救援艦隊が露梁に来た理由であった。
- 狭い海
- 露梁海峡では艦隊どうしが近づかざるをえず、大砲、火攻めの兵器、敵船に乗り移っての白兵戦のすべてが用いられて、戦いは混乱し、双方に大きな犠牲を出した。
- 不安定な同盟
- 朝鮮と明の指揮官は、いつも同じことを望んでいたわけではない。陳璘と劉綎は交渉に応じる用意があったが、李舜臣は戦うべきだという姿勢を崩さなかった。
- 勝利と脱出
- 連合軍は海上の戦いに勝ったが、小西の軍は逃れた。露梁を勝利とみなすかどうかは、どの目標の達成を基準にするかによる。
- 最期の言葉と記録
- 李舜臣の有名な最期の言葉は『懲毖録』と『宣祖修正実録』に由来する。もとの朝廷の記録は場面を別の形で伝えている。両者を比べると、物語がどのように形づくられるかが分かる。
- 和平ではなく最後の戦い
- 露梁で戦闘は終わったが、和平が訪れたのは、1607年の使節と1609年の通商の取り決めという、その後の交渉を通じてであった。
記録
- 1597年 — 8月:朝鮮艦隊が漆川梁で壊滅する。李舜臣が水軍の指揮官に再任される。
- 1597年 — 10月26日:李舜臣が鳴梁ではるかに大きな日本艦隊を破る。
- 1598年 — 1月~2月:連合軍による最初の蔚山城包囲が失敗する。
- 1598年 — 旧暦2月(西暦3月):李舜臣が本営を古今島に移す。
- 1598年 — 陳璘の率いる明の水軍が古今島で李舜臣に合流する。
- 1598年 — 9月18日:豊臣秀吉が伏見で死去する。日本の指導部は朝鮮からの撤退を決める。
- 1598年 — 10月~11月:連合軍の四路並進作戦が蔚山・泗川・順天で失敗する。
- 1598年 — 12月15日~16日(旧暦11月18日~19日):露梁海戦。李舜臣と鄧子龍が戦死し、小西が順天を離れる。
- 1598年 — 12月21日~24日:最後の日本軍が釜山から船で帰国する。
- 1604年 — 李舜臣が宣武功臣一等に録される。
- 1607年 — 朝鮮が公式の使節団、回答兼刷還使(「国書への回答と捕虜の帰還のための使節」)を日本に送る。
- 1832年 — 李舜臣が倒れた観音浦に、王命によって祭壇と碑が建てられる。
- 1973年 — 観音浦と南海の忠烈祠が史跡に指定される。
- 2023年 — 映画『ノリャン ―死の海―』が公開される。
用語集
- 露梁(ノリャン)
- 朝鮮半島南岸の河東の近くにある、南海島と本土のあいだの狭い海峡。
- 板屋船(パノクソン)
- 朝鮮水軍の主力軍船。漕ぎ手を守る高い上甲板を備え、大砲を積んだ大型の櫂船。
- 倭城
- 戦争中に朝鮮の南岸に築かれた日本式の城。蔚山、泗川、順天のものなどがある。
- 倭橋
- 朝鮮の記録が順天の小西行長の城に与えた名前(曳橋とも書く)。
- 四路並進
- 1598年秋の連合軍の作戦計画。陸から蔚山・泗川・順天を同時に攻め、四つ目の軍が海から攻撃した。
- 三道水軍統制使
- 南方三道の水軍の指揮官。露梁で李舜臣が就いていた職。
- 海路通行帖
- 李舜臣が古今島で発行した許可証。船は航行の権利と引き換えに米を納め、それが彼の軍を養った。
- 火縄銃(鉄砲)
- 初期の火縄式の銃。日本軍はこれを大量に用い、李舜臣も鉄砲の弾で戦死した。
- 五大老
- 秀吉が幼い息子に代わって政務を執らせるために任じた五人の大大名。朝鮮からの撤退を命じた。
- 太陰太陽暦
- 朝鮮と日本で用いられた、月の満ち欠けに従って月を定める暦。その日付は西暦(グレゴリオ暦)に換算する必要があり、朝鮮の暦と日本の暦では1日ずれることがあった。
よくある質問
李舜臣の最期の言葉は何だったのですか。
『懲毖録』と『宣祖修正実録』によれば、「戦いはまさにたけなわである。くれぐれも私が死んだと言ってはならない」です。もとの『宣祖実録』は最期の言葉を何も記録しておらず、一般向けの話の中にはさらに言葉を付け加えるものもあります。
日本がすでに撤退しようとしていたのに、なぜ戦ったのですか。
小西の軍は連合軍の封鎖によって順天に閉じ込められており、ほかの日本の指揮官たちがその封鎖を破りに来たのです。李舜臣は侵略者を罰することなく去らせることを拒みましたが、同盟軍の将たちはもっと交渉に前向きでした。
陳璘は小西から賄賂を受け取ったのですか。
『韓国民族文化大百科事典』を含む朝鮮側の記述は、小西が陳璘に賄賂を贈り、陳璘が日本の船1隻を通したとしています。それでも陳璘は露梁で戦い、そこで彼自身の船が包囲され、救い出されました。
李舜臣はわざと死んだのですか。
後世の著述家の中には、彼が直面していた朝廷の政争を挙げて、そう示唆する人もいます。『韓国民族文化大百科事典』はこれを確かな証拠のない推測としており、初期の記録は、彼が戦闘中に撃たれたと記しています。
どちらが戦いに勝ったのですか。
連合軍は海上の戦いに勝ち、大きな損害を与えました。しかし日本側は主な目的を果たしました。小西の軍は脱出し、船で帰国したのです。
露梁で戦争は終わったのですか。
露梁は最後の大規模な戦いでした。最後の日本軍は約1週間後に釜山を去りましたが、講和条約はなく、日本との関係が回復したのは1607~1609年になってからでした。
日付は11月19日ですか、12月16日ですか。
どちらも同じ日を指しています。朝鮮の暦の旧暦11月19日は、西暦では1598年12月16日です。「11月19日」を西暦の日付として扱うと、旧暦の月と西暦を混同することになります。
出典・参考文献
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- Veritable Records of King Seonjo (선조실록), vol. 106, 24th day of the 11th month of 1598, entry 2: Yun Du-su and others on Liu Ting’s release of the enemy. Annals of the Joseon Dynasty database, National Institute of Korean History
- Veritable Records of King Seonjo (선조실록), vol. 106, 24th day of the 11th month of 1598, entry 4: Chen Lin’s messenger reports the results of the naval battle and Yi Sun-sin’s death. Annals of the Joseon Dynasty database, National Institute of Korean History
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上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。
