戦争

漆川梁海戦

칠천량 해전 漆川梁海戰 (Chilcheollyang haejeon) · Japanese 漆川梁海戦 (Shissenryō kaisen)

1597年

初出 2026年10月14日 · 最終更新 2026年10月14日 · 編集 テラ・スクリプタ

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ひとことで

1597年旧暦7月15日の夜から翌朝にかけて(西暦8月27日~28日)、陸上の部隊に支援された日本艦隊が、巨済島沖の狭い海峡・漆川梁に停泊していた元均率いる朝鮮水軍を奇襲し、そのほぼすべてを壊滅させた。李舜臣が指揮官の職を解かれ逮捕されてから、わずか数か月後のことであった。

漆川梁海戦
画像: Kang Byeong Kee · CC BY 3.0 · Wikimedia Commons

最初はやさしい入門です。下に進むほど詳しい説明や研究内容を読めます。

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400年以上前、日本は、そのころ朝鮮(ちょうせん)という王国だった韓国(かんこく)に、1592年と1597年の2回攻めこみました。1度目の戦争では、李舜臣(イ・スンシン)将軍が率いる朝鮮の水軍が海で次々に勝ったので、日本軍は海を自由に使うことができませんでした。

1597年のはじめ、ちょうど2度目の攻撃が始まったころ、李舜臣は王さまの命令にしたがわなかったと責められました。李舜臣は捕らえられて都へ連れて行かれ、元均(ウォン・ギュン)という別の指揮官が水軍を引きつぎました。

王さまと将軍たちは、釜山(プサン)の近くにいる日本軍を攻めに船を出せと、何度も水軍に命じました。水兵たちは長い時間船をこぎましたが、日本の船はするりとにげてしまい、兵士たちはつかれて、のどがかわき、こわくなっていきました。

1597年の夏のある夜、朝鮮の船は、巨済島(コジェド)のとなりにある漆川梁(チルチョルリャン)というせまい水路で休んでいました。日本の船が暗やみの中でこっそり近づき、何隻かに火をつけました。朝になると、日本の大艦隊が朝鮮の船を取り囲んでいました。朝鮮の船はほとんど全部が焼かれたりうばわれたりして、たくさんの水兵や指揮官が亡くなりました。元均も、陸ににげたあとで亡くなったと伝えられています。

裵楔(ペ・ソル)という指揮官は、12隻ほどの軍船を率いてにげのび、ほかにもいくらかの船や小舟が助かったかもしれません。李舜臣はもう一度水軍の指揮をまかされ、2か月もたたないうちに、裵楔の船にもう1隻を加えて、有名な鳴梁(ミョンニャン)の戦いをたたかいました。漆川梁の戦いは、強い水軍でも、つかれきって、まずい場所にいて、むりやり戦いに追いこまれると、あっという間に失われてしまうことを教えてくれます。

ひと目でわかる

日付
1597年旧暦7月15日の夜から16日にかけて(朝鮮の暦。日本側の記述も同じ日とする)=西暦(グレゴリオ暦)1597年8月27日~28日(韓国天文研究院の換算表による)。英語版ウィキペディアはホーリーに従って8月28日とする
場所
巨済島と漆川島のあいだの狭い海峡・漆川梁(現在の慶尚南道巨済市河清面)。最後の抵抗は固城側の秋原浦で行われ、多くの乗員がそこで陸へ逃れた
戦争
文禄・慶長の役(壬辰倭乱)のうち、日本の第二次侵攻(慶長の役、丁酉再乱、1597~1598年)
指揮官
朝鮮:元均(三道水軍統制使)、李億祺(全羅右水営)、崔湖(忠清水営)、裵楔(慶尚右水営)/日本:海上では藤堂高虎、脇坂安治、加藤嘉明。巨済島の陸上部隊もこれを支えた。日本側の記述は、この部隊を島津義弘・小西行長と結びつけている
兵力
朝鮮:旧暦5月に数えられた大型の板屋船約180隻(建造中のものを含む)。『韓国民族文化大百科事典』によれば「160余隻」の戦船、ホーリーの通史では「最大200隻」/日本:戦闘に加わった数は不確か。ホーリーは500~1000隻と推計する。旧暦7月8日に600隻を超える船が日本から釜山に着いたという別の報告は、戦闘に加わった船の数ではない
損害
朝鮮:艦隊のほぼすべて。日本語版ウィキペディアが引く日本の大名家の記録は160余隻を拿捕したと主張し、英語版ウィキペディアはホーリーを引いて188隻が破壊されたとする。李億祺と崔湖が死に、元均は上陸後に殺されたと伝えられる/日本:確かな典拠のある合計はない。日本語版ウィキペディアは典拠を示さずに軍船8隻の沈没を挙げ、英語版ウィキペディアは損害をごくわずかとする
結果
日本側の決定的勝利。約12隻が裵楔に率いられて逃れた。李舜臣は旧暦7月22日(西暦1597年9月3日)に再任された。日本軍は南岸を制し、全羅道と南原をめざして西へ進んだ
主な史料
『宣祖実録』(金軾と権慄の報告、朝廷での議論)、『宣祖修正実録』(1657年)、柳成龍の『懲毖録』、日本語版ウィキペディアに引かれた日本の大名家の記録、現代の百科事典

地図の上で

同じころ、世界の別の場所では

このライブラリの記事のうち、ほぼ同じ時期に世界の遠く離れた場所で起きたことです。

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漆川梁で何が起きたのか

漆川梁海戦は、文禄・慶長の役(壬辰倭乱)における朝鮮水軍の最大の敗北である。明と日本の和平交渉が決裂した後、1597年に始まった日本の第二次侵攻の初めに起きた。最初に朝廷へ報告した将校によれば、攻撃は旧暦7月15日の夜の二更(およそ午後9~11時)に始まり、朝鮮艦隊は翌朝に壊滅した。韓国天文研究院(KASI)の換算表で換算すると、この二日は1597年8月27日と28日にあたる。

このとき朝鮮艦隊を率いていたのは元均であった。彼は閑山島海戦で勝利した李舜臣に代わって指揮を執っていた。李舜臣はその年の初め、日本の指揮官・加藤清正を海上で迎え撃てという命令を実行しなかったとして逮捕されていた。朝廷と都元帥・権慄から強い圧力を受けた元均は、日本軍が援軍を上陸させていた釜山の方へ艦隊を率いて出た。釜山と加徳島の近くで何日も行動を続けて疲弊し、損害を受けた後、艦隊は退いて、巨済島と漆川島のあいだの狭い海峡・漆川梁に停泊した。

艦隊はそこで夜に日本の船の奇襲を受け、夜明けには、日本兵が陸上で待ち構えるなか、はるかに大きな日本艦隊に包囲された。朝鮮の船の大半は焼かれるか拿捕された。指揮官の李億祺と崔湖は死に、陸へ逃れた元均も殺されたと伝えられる。慶尚右水使の裵楔は約12隻を連れて逃れた。

この敗北によって南岸は日本軍に開かれ、日本軍は西へ全羅道に進んで、1か月後に南原を落とした。またこの敗北は李舜臣を呼び戻すことにもなった。朝廷は戦いの1週間後に彼を再任し、生き残ったわずかな船が、1597年10月に彼が鳴梁で率いた艦隊の中核となった。以下の節では、この惨敗がどのようにして起きたのか、損害と元均の死について史料が何を語るのか、そしてその責任がその後どのように論じられてきたのかを見ていく。

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敵陣からの知らせ:要時羅と加藤の渡海

1593年以降の長い休戦のあいだ、和平交渉に最も深く関わった日本の指揮官・小西行長は、要時羅という仲介者を通じて、慶尚右道の陸軍の指揮官・金応瑞と連絡を取り合っていた。朝鮮の記録は要時羅を小西の配下の一人とし、『韓国民族文化大百科事典』は二重間諜と呼ぶ。小西と加藤清正は対立していることで知られており、要時羅の知らせは、小西が交渉の成功を望み、その失敗を加藤のせいにしていることをほのめかしていた。

1597年旧暦1月、金応瑞は、11日に要時羅が小西からの知らせを持って来たと報告した。加藤が7000人を率いて4日に対馬に着き、風が許せばすぐに渡海するという内容であった。要時羅は、朝鮮水軍が巨済島と機張近くの沿岸に移って加藤の渡海を見張るか、少なくとも大軍の姿を見せて加藤をためらわせるよう勧めた。朝廷はこの情報を重く見たが、備辺司は「倭人の言葉は狡猾で頼りにしがたい」とも警告し、判断を都元帥に委ねた。

李舜臣は加藤を迎え撃つために艦隊を出さず、加藤は南東の沿岸に上陸した。1657年に編纂された『宣祖修正実録』によれば、李舜臣は、海路は危険であり、日本軍は必ず伏兵を置くだろうと判断した。大きな艦隊で行けば気づかれ、小さな艦隊で行けば襲われる、というのである。『宣祖修正実録』は、加藤が多大浦の沖を過ぎて西生浦へ向かったと付け加え、柳成龍の『懲毖録』は、その後要時羅が再びやって来て、朝鮮が好機を逃したことを惜しむふりをしたと述べている。

この一件全体が日本の計略だったかどうかは確かではない。『宣祖修正実録』と『懲毖録』はこれを、朝鮮艦隊をおびき出し、李舜臣を失脚させるための小西の策略として描いており、現代の韓国の記述の多くもそれを繰り返している。別の読み方も可能である。小西の知らせは、加藤との対立の中での一手でもあったかもしれない。時期も重要である。警告が届いたのは、加藤がすでに対馬で風を待っていたときであり、備辺司自身も手遅れかもしれないと案じていた。本稿が参照した記録からは、海上での迎撃が実際に可能だったかどうかは分からない。記録がはっきり示しているのは、その知らせが朝廷でどのように使われたかである。

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李舜臣の逮捕と元均の指揮

宣祖は激怒した。旧暦1月27日の引見で、王は、李舜臣は1592年以来何もしておらず、今また「天が与えた」好機を逃したと述べ、たとえ李舜臣が加藤の首を持ってきても許すことはできないと言った。李舜臣をかばったり、戦時に指揮官を替えることを戒めたりする大臣もいれば、更迭を強く求める大臣もいた。翌日、王は、慶尚右水使に任じたばかりの元均に書を送り、李舜臣は「賊が安らかに海を渡るにまかせた」のであり、いずれ逮捕して取り調べなければならないと記した。

旧暦2月、司憲府が李舜臣の逮捕を求め、王は、元均が指揮を引き継いだうえで、ただし戦闘の最中ではないときに李舜臣を逮捕するよう命じた。李舜臣は1593年以来の本営であった閑山島で指揮を引き渡して都へ連行され、旧暦3月4日(西暦1597年4月19日)に投獄された。13日、王は彼の罪を列挙した。朝廷を欺いたこと、敵を討たずに逃したこと、他人の功を奪い、他人を虚偽の罪で告発したこと、そしてはばかるところなく振る舞ったことであり、法によれば死罪に当たると王は記した。

李舜臣は拷問を受けて取り調べられた。重臣の鄭琢は、李舜臣は国が殺すわけにはいかない名将であり、指揮官の判断を遠くから裁くことはできないと論じた。旧暦4月1日(西暦1597年5月16日)、李舜臣は釈放され、都元帥・権慄のもとで官職のないまま従軍すること(白衣従軍)を命じられた。南へ向かう途中で、彼は母の死を知った。

元均は1592年に李舜臣とともに戦ったが、その勝利の功をめぐる二人の争いは激しくなっていた。元均は李舜臣が攻撃しないとたびたび言っていた。今や彼は三道水軍統制使に任じられ、李舜臣がしなかったことをするよう期待された。朝廷の記録は、元均がまもなく、その任務が李舜臣の言っていたとおり困難であると悟ったことを示している。

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漆川梁の夜襲

旧暦7月の半ばまでに、釜山方面への出撃に失敗して疲れ果てた朝鮮艦隊は、巨済島と漆川島のあいだの海峡まで退いていた。『懲毖録』によれば、裵楔は元均に、漆川島沖の海は浅く狭いので艦隊を移すべきだと警告したが、元均は聞き入れなかった。この沿岸に沿って城を持っていた日本軍は、岸から朝鮮の船を見張ることができた。『懲毖録』は、艦隊が動くと日本軍の陣営が互いに知らせ合ったと述べる。『韓国民族文化大百科事典』によれば、水軍の将の藤堂高虎・脇坂安治・加藤嘉明は14日に巨済島の北へ移り、海と陸からの合同攻撃を計画した。

朝廷に届いた最初の報告は、艦隊に同行していた宣伝官の金軾からのものであった。金軾によれば、15日の夜の二更、日本の船5、6隻が突然襲いかかって朝鮮の戦船4隻に火を放った。朝鮮の指揮官たちは慌てて陣形を組んだ。鶏が鳴くころ、数えきれないほどの日本の船が三重四重に朝鮮艦隊を取り囲み、近くの島々のまわりの海を埋め尽くした。朝鮮側は退きながら戦ったが持ちこたえられず、固城の秋原浦へ退いた。そこで戦船はすべて焼かれ、指揮官も兵も焼け死ぬか溺れ死んだ。

柳成龍も王に同様の話を伝えた。日本軍は闇に紛れて忍び寄り、4隻を焼き、翌朝艦隊を包囲した。朝鮮側は固城の方へ追い込まれて上陸したが、日本兵が先に上陸して待ち構えていた、というのである。日本語版ウィキペディアが要約する日本側の記述は、日本艦隊は陸上の部隊の支援を受けながら16日の夜明けから攻撃したとし、朝鮮兵数千人を討ち取り、160隻を超える船を拿捕したと主張している。

金軾は元均や順天府使の禹致績とともに陸へ逃れた。金軾の報告によれば、年老いてついて行けない元均は刀だけを持って松の木の下に座り込み、金軾が走りながら振り返ると、刀を持った日本兵6、7人が元均のところに達するのが見えた。その後どうなったかは分からないと金軾は述べた。金軾の報告によれば、裵楔と玉浦・安骨浦の指揮官たちは逃れ、数えきれないほどの日本の船が閑山島へ向かった。

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遠くからの命令:朝廷、権慄、そして出撃をためらう艦隊

漆川梁に至る戦略は、漢城で決められた。朝廷は、日本の援軍が渡ってこられないよう、水軍に日本と釜山のあいだの海路を断たせたいと考えていた。旧暦6月、備辺司は、閑山島を拠点としたまま艦隊を裵楔・李億祺・崔湖・元均の率いる部隊に分け、交代で海上を巡回させることを提案し、水軍が姿を見せずに港に隠れていると不満を述べた。

元均の考えは違った。旧暦3月の報告で、彼は、安骨浦と加徳島の日本兵は少ないので、まず陸軍が陸から彼らを追い出すべきだと論じ、「30万余」の精兵をもって水陸の大がかりな合同作戦を行えば戦争に決着をつけられるとした。旧暦6月にも彼は、日本軍が安骨浦・加徳・竹島を押さえている限り、前には停泊地がなく、後ろには敵がいることになるので、艦隊は安全に釜山まで行けないと書いた。朝廷は、その判断は出撃を望む都元帥と都体察使のものであると答えた。

圧力は強まった。権慄は旧暦6月、元均はまず陸上の攻撃をと求め続けるばかりで出撃する気がないと報告した。権慄は何度も彼を叱責し、都体察使・李元翼が送った南以恭が閑山島に赴き、その場で出撃を促し続けて、ようやく艦隊が出航したという。旧暦7月10日、王は元均に、もし再び尻込みして敵を逃せば国法を適用し、彼を許すことはできないと伝えるよう命じた。

『宣祖修正実録』と『懲毖録』はどちらも、権慄が元均を杖で打たせたと伝える。『宣祖修正実録』は敵を恐れて遅延したためとし、『懲毖録』は何の成果も上げなかったためとする。時期についても両者は食い違う。『宣祖修正実録』は釜山方面への最後の出撃の前とし、『懲毖録』は艦隊が漆川島へ退いた後とし、『韓国民族文化大百科事典』は熊川近くで裵楔の攻撃が失敗した後とする。敗北の後に朝廷に届いた権慄の報告によれば、三道の水使たちは元均に、敗北は必至と分かっており、釜山と絶影島には近づけず、戦場にある将は主君の命令にすべて従う必要はないと言っていた。権慄は朝廷に彼らの処罰を求めた。

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中級

海戦前の消耗:安骨浦、釜山、加徳島

艦隊は旧暦6月18日(西暦7月31日)に約100隻で閑山島を出航した。翌日、安骨浦と加徳島の日本軍を攻撃した。李元翼の部下・南以恭の報告は、日本の船を追い払い2隻を拿捕した激戦を伝えている。しかし宝城郡守の安弘国が額を銃弾で撃ち抜かれて戦死し、艦隊は閑山島へ戻った。

旧暦7月の初め、艦隊は再び出撃した。李元翼の報告によれば、右水軍は7日の夜に海を渡って釜山近くの多大浦の沖に陣取り、8日(西暦8月20日)に日本の船十数隻を拿捕した。この日、600隻を超える日本の船が日本から釜山に着いた。絶影島(現在の釜山の影島)方面への最後の出撃は後代の記述で語られており、それが日付が確認できるこの作戦とどう関係するのかははっきりしない。『懲毖録』によれば、風が強まり夜になり、閑山島から一日じゅう漕いできた漕ぎ手たちは飢えと渇きで疲れ果てていた。『懲毖録』と『宣祖修正実録』はどちらも、日本の船が近づいては戦わずにすり抜けて朝鮮側を疲れさせたこと、夜には朝鮮の船が強風で散り散りになったことを伝えている。

元均は残った船を集めて加徳島へ向かい、のどの渇いた兵たちは水を求めて上陸した。『懲毖録』によれば、日本兵が島の奥から飛び出してきて、艦隊は将兵400人余りを失い、漆川島へ退いた。『宣祖修正実録』もこの待ち伏せを記しているが、数字は挙げず、すぐに固城の秋原浦への退却へと話を進めている。朝廷ではのちにある官員が、9日の戦闘では兵たちがおびえて矢を一本も射ることができなかったと述べた。漆川梁に停泊したときまでに、水軍は兵と船と自信を失い、しかも日本軍の押さえる沿岸の近くにいた。

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中級

元均、李億祺、崔湖、裵楔

元均(1540~1597年)は、1592年に戦争が始まったときの慶尚右水使であった。侵攻の最初の数日で彼自身の艦隊は崩壊したが、李舜臣の助けを得て1592年の勝利に加わった。二人はその勝利の功をめぐって仲たがいし、1593年に李舜臣が三道水軍統制使になると、元均は陸軍の職に移された。1597年、彼は李舜臣に代わって水軍に戻った。漆川梁で彼の身に何が起きたかについては、上級の「史料とその問題点」の節で説明するとおり、史料によって伝え方が異なる。

全羅右水使の李億祺は1592年以来、閑山島をはじめとする戦いで李舜臣とともに戦ってきた。『韓国民族文化大百科事典』によれば、李舜臣の逮捕後、彼は大臣たちに書を送って李舜臣を弁護した。忠清水使の崔湖は、1596年の李夢鶴の乱の鎮圧に加わっていた。二人とも漆川梁で死んだ。『宣祖修正実録』は二人が海に身を投げたとし、『懲毖録』は李億祺が船から身を投げたとする。

慶尚右水使の裵楔は、この戦いで最も評価の分かれる人物である。『懲毖録』によれば、彼は元均に何度も警告し、ひそかに自分の船を準備しておき、日本軍が攻撃すると逃げたので、彼の部隊だけが無傷で残った。『宣祖修正実録』はもっと厳しく、彼の逃亡によって全軍が崩れたとする。彼は閑山島に着くと、日本軍に使われないよう建物や穀物、武器を焼き、残っていた人々を立ち退かせた。『韓国民族文化大百科事典』によれば、彼は12隻を連れて去った。

裵楔は李舜臣の再任後しばらく彼の下で務めたが、鳴梁海戦の前に、病気の治療のために離れる許可を得て艦隊を離れ、戻らなかった。1599年に善山で捕らえられ、ソウルで処刑された。彼が救い出した12隻ほどの船は艦隊に残り、李舜臣が立て直した水軍の中核となった。

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中級

敗北の後:李舜臣の復帰、南岸、そして南原

金軾の報告は旧暦7月22日(西暦1597年9月3日)に朝廷に届いた。『宣祖実録』は、王に答えられる大臣が一人もおらず長い沈黙が続いた様子を記している。宣祖は、この敗北は天の意思だと言い、なぜ艦隊は斥候を置かなかったのか、なぜ閑山島へ退かなかったのかと問い、秀吉は常々、朝鮮の陸軍を打ち破るにはまず朝鮮水軍を撃破しなければならないと言っていたと述べた。王はまた、元均ははじめ行きたがらなかったのであり、都元帥の圧力がこの惨事を招いたとも述べた。

同じ日、李舜臣は三道水軍統制使に再任された。『宣祖修正実録』と『懲毖録』によれば、大臣の金命元と李恒福が、水軍を立て直せるのは李舜臣しかいないと強く勧めた。権慄はすでに李舜臣を沿岸に送り、散り散りになった船を集めさせていた。李舜臣はごくわずかな人数で慶尚道から全羅道へ移動し、残ったものを集めた。裵楔が救った船が彼の艦隊となった。

朝鮮水軍がいなくなると、日本軍は南岸を制した。『懲毖録』は勝利の後の日本軍の西進を記している。南海と順天が次々に落ち、日本の船は豆恥津に兵を上陸させ、軍は明の将軍・楊元が3000人で守る南原を包囲した。宣祖は敗報が届いたその日に、この危険を予見していた。南原は旧暦8月の半ば(西暦1597年9月下旬)に陥落し、その陥落の後には虐殺が起きた。

漢城では、王は日本の船が今にも西の海に入り、数日のうちに忠清道と京畿道に達するのではないかと恐れた。旧暦9月16日(西暦1597年10月26日)の鳴梁で、李舜臣は13隻ではるかに大きな日本艦隊を退け、その西への進出を食い止めた。陸上では日本軍は漢城を攻撃せず、まもなく南岸の城へ退いた。戦争は、最後の日本軍が1598年12月に釜山から撤退したときに終わった。

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中級

同じころの世界(1597年)

日本国内では、1597年2月5日、日本人信徒と外国人宣教師からなる26人のカトリック信者が、朝鮮侵攻を始めた支配者・豊臣秀吉の命により長崎で十字架にかけられた。この処刑は、キリスト教に対する秀吉の政策が厳しさを増したことを示していた。

ユーラシアの反対側では、海洋国家も艦隊にすべてを賭けていた。1597年10月、スペインは約140隻からなる3度目の無敵艦隊をイングランドに向けて送ったが、嵐によってイギリス海峡で散り散りになった。同じ年、オランダの最初の東インド遠征隊が帰国し、オランダの香辛料貿易と、のちのオランダ東インド会社への道を開いた。

これらの出来事は、いずれも漆川梁とは関係がない。並べてみて分かるのは、同じ年に世界の多くの場所で、艦隊の運命と海路の支配が重要だったということだけである。

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漆川梁を記憶する

韓国では漆川梁は長く、李舜臣の勝利の陰にある敗北として記憶されてきた。『韓国民族文化大百科事典』は、この戦争で朝鮮水軍が敗れた唯一の海戦とする。一般向けの歴史書や、KBSの『不滅の李舜臣』(2004~2005年)のようなテレビドラマでは、この敗北は、李舜臣の復帰、彼に残された12隻の軍船という有名な話、そして13隻での鳴梁の勝利へと続く物語の導入として描かれている。

七川島(かつての漆川島)には現在、巨済海洋観光開発公社が運営する漆川梁海戦公園があり、その展示館では両国の水軍の戦力と戦いの経過が紹介されている。この地で死んだ朝鮮の水兵を追悼する慰霊祭が巨済で開かれており、2026年9月には地元の放送局がその一つを報じた。

指揮官たちは、それぞれ異なる形で記憶されている。毅愍の諡号を贈られた李億祺は、安弘国とともに、1601年に建てられた麗水の忠愍祠に、李舜臣の傍らに祀られた。京畿道平沢にある元均の墓は1980年に京畿道記念物に指定され、子孫がそこで祭祀を行っている。本稿が参照した記録は彼の遺体が収容されたとは述べておらず、韓国語版ウィキペディアは、墓には遺品だけが納められているという伝承に触れている。

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船、兵、損害:史料は何を語るか

朝鮮艦隊の規模は不確かである。旧暦5月、備辺司は権慄の報告をまとめて、閑山島に大型の板屋船134隻、向かっている途中のものが5、6隻、特別に建造中で20日以内に完成する予定のものが48隻、合わせて約180隻を数えた。これとは別に小型の船もあった。『韓国民族文化大百科事典』は、元均が三道の「160余隻」を率いて閑山島を出たとし、英語版ウィキペディアが引くホーリーの通史は最大200隻とする。旧暦6月には兵曹が明の将軍に、元均の率いる水軍は4500人であると伝えたが、この数字は乗員の一部しか数えていない可能性がある。史料間の差は、兵力の数字より船の数のほうが小さいが、本稿が参照した史料からは確かな合計を出すことはできない。

日本側については、李元翼が旧暦7月8日に600隻を超える船が日本から釜山に着いたと報告し、『韓国民族文化大百科事典』の裵楔の項目も釜山の600余隻に触れている。英語版ウィキペディアが引くホーリーは500~1000隻と推計する。いずれの数字も、漆川梁そのものでの攻撃に何隻が加わったかを示すものではない。金軾によれば、最初の攻撃はわずか5、6隻によるものであった。

朝鮮側の損害は大きかったが、正確には分からない。金軾は、戦船はすべて焼かれ、指揮官も兵も焼け死ぬか溺れ死んだと述べた。日本語版ウィキペディアが引く日本の大名家の記録は、160隻を超える船を拿捕し、朝鮮兵数千人を討ち取ったと主張し、英語版ウィキペディアはホーリーを引いて188隻が破壊されたとする。しかし21日付の権慄の報告は、部下の崔永吉が聞いた話として、大型の船18隻が蛇梁に着き、全羅道の船20隻余りが沿岸に散らばっていること、逃げた乗員が船を浜に乗り上げたので、死んだ漕ぎ手は多くないことを伝えている。よく言われる「約12隻」という数字は、裵楔がまとめて率いた部隊を指しており、ほかの場所でもっと多くの兵や舟が生き残っていた可能性がある。

日本側の損害については、本稿では確かな典拠のある合計を確認できない。日本語版ウィキペディアは典拠を示さずに軍船8隻の沈没を挙げ、英語版ウィキペディアは損害をごくわずかとする。朝鮮側の死者の総数も分からない。『懲毖録』は戦いの前に加徳島で将兵400人余りを失ったと伝えるが、そのうち何人が死んだかは述べていない。旧暦8月、李元翼は、どの指揮官が死にどの指揮官が生き残ったかについての報告が二転三転していると報告し、生死を問わず、ほとんど全員が戦わずに逃げたと判断した。

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史料とその問題点

最も早い記述は、『宣祖実録』の旧暦7月22日条に記録された宣伝官・金軾の報告である。簡潔で、事件から間もない時期の報告だが、一人の生存者の見方を伝えるものである。そこでは「すべての」船が焼かれ、兵はみな死んだとされているが、この点は後の報告で修正された。同じ日の大臣たちとの引見の記録には、柳成龍による戦いの要約と王の反応が残されている。その後数週間の権慄、李元翼、地方官たちの報告が、細部と矛盾を付け加えている。

元均の死は、史料の食い違いを最もはっきり示す例である。金軾は日本兵が元均のところに達するのを見たが、彼が死ぬところは見ていない。21日付の権慄の報告は、元均が逃れて晋州へ向かっているといううわさを伝えた。1週間後の別の報告は、生存者の話に基づき、元均は見乃梁の近くに上陸し、きっと殺されただろうと述べた。旧暦8月5日、朝廷は、元均が再び現れるのを待ってから処罰を決めることにした。『懲毖録』は、殺されたと言う者もいれば逃れたと言う者もいて、真相はついに分からなかったと述べる。1657年に編纂された『宣祖修正実録』は、上陸後の彼の死を確定した事実として語っている。彼が再び現れることはなく、1604年に死後の栄誉を受けた。

元均の振る舞いについての生々しい細部の多くは、後代の、しかも一方に偏った著作に由来する。李舜臣の後ろ盾であった柳成龍が戦後に書いた『懲毖録』は、元均が李舜臣の定めた体制を覆し、李舜臣の部下を退け、李舜臣が軍議を開いていた運籌堂に、二重の垣根で囲って愛妾と住み、大酒を飲み、度を越した処罰を行ったと述べる。『宣祖修正実録』もまた、彼が李舜臣の定めた規則を覆し、度を越した処罰によって人心を失ったとする。1609年から光海君のもとで編纂されたもとの『宣祖実録』は、本稿で用いた記事の中にそのような人物像を含んでいないが、元均自身の報告や彼に送られた命令を伝えている。日付さえ食い違う。『懲毖録』は敗北を旧暦8月7日のこととしており、朝廷の記録と合わない。また『韓国民族文化大百科事典』は釜山近くへの出撃を旧暦7月14日としており、李元翼の報告より遅い。

本稿が参照した史料の中では、日本側の史料は少ない。日本語版ウィキペディアは、160余隻の拿捕と沿岸での朝鮮の船の焼き払いについては島津家の文書を、それ以前の加徳島での戦闘については日本の参謀本部の戦史を引いている。こうした大名家の記録は自家の功績を誇張しがちであり、本稿が参照した史料ではそれを詳しく検証することはできない。

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上級

責任はだれにあったのか:元均と歴史家たち

何世紀にもわたり、一般には元均に責任があるとされてきた。『懲毖録』は彼を、李舜臣を中傷してその地位を奪い、その後、酒と苛酷さと誤った判断によって艦隊を失った嫉妬深い競争相手として描いており、『宣祖修正実録』も、李舜臣の規則を覆し、度を越した処罰によって人心を失ったと彼を批判している。この人物像はその後の韓国の記憶を形づくった。とりわけ、正祖の時代以降、そして20世紀に再び、李舜臣が国民的英雄となるにつれてそうであった。『韓国民族文化大百科事典』は、元均がしばしば臆病な指揮官の典型として記録されてきたことに触れている。

同時代の記録は、もっと入り組んでいる。敗報が届いたその日、宣祖自身が、艦隊は閑山島を守るべきだったのに「出撃を迫られた」のであり、都元帥の元均への圧力が敗北を招いたと述べた。1か月後、司憲府はさらに踏み込んで、水軍の敗北は「まことに朝廷の計画の誤りから出た」と述べた。李元翼が、軍を失った罰を元均に負わせるよう提案したとき、備辺司は、罪を元均一人に帰することはできないと答えた。1604年、元均は李舜臣・権慄とともに宣武功臣一等に録された。

1980年代以降、一部の著述家が、元均の子孫や平沢の地元団体とともに、彼の再評価を主張してきた。彼らは、1592年の彼の戦績、日本軍が安骨浦と加徳島を押さえている限り艦隊は安全に釜山を攻撃できないという彼の警告、そして彼を出撃に追い込んだ命令を挙げる。批判する側は、そうした取り組みは家や地域への忠誠に左右されており、元均自身もかつて李舜臣が攻撃しないと批判していたと応じる。ここで取り上げた記録によって、彼の判断を、朝廷の圧力、艦隊の疲弊、日本軍による沿岸の支配と併せて検討することができる。

本稿が参照した史料は、いくつもの原因が重なったことを示している。艦隊の指揮官たちが不可能と考えた攻勢を求めた朝廷と都元帥。沿岸を押さえ、陸と海からの攻撃を組み合わせることのできた日本軍。疲れ果て士気を失い、十分な警戒もないまま狭い海峡に停泊した艦隊。そして最後の数日の元均の判断であり、そこには『懲毖録』が伝えるように、裵楔の警告にもかかわらず狭い停泊地を離れることを拒んだことも含まれる。それぞれにどれほどの重みを置くかは今も判断の問題であり、日本側から見た経緯は、ここで用いることのできる史料では今なおはるかに記録が乏しい。

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重要なポイント

情報と欺瞞
加藤清正の渡海について要時羅を通じて伝えられた知らせが、李舜臣の逮捕につながった。後代の記述はこれを日本の意図的な計略とするが、記録が示すのは、それが報告され、それに基づいて行動がとられたということだけで、小西の意図までは分からない。
遠くからの命令
朝廷と都元帥は、日本軍が沿岸を押さえている限り成功しないと艦隊の指揮官たちが考えていた釜山近くでの攻勢を強く求めた。
戦いの前の消耗
長時間の櫂漕ぎ、強風による艦隊の分散、そして後代の記述が伝える加徳島での将兵400人余りの損失が、日本軍の攻撃の前に水軍を消耗させていた。
狭い海峡という罠
日本軍の支配する沿岸の近くの浅く狭い海に停泊した艦隊は、夜に攻撃され、陸上でも退路を断たれうる状態にあった。
海と陸の連携
日本軍は艦隊による攻撃を巨済島と本土の部隊と組み合わせた。岸へ逃れた多くの乗員は、すでに待ち構えていた日本兵に出くわした。
生き残った艦隊
裵楔が救った約12隻の船が、李舜臣が立て直した水軍と、鳴梁海戦に臨んだ艦隊の中核となった。
責任と記憶
敗北をどう説明するかは、どの史料を信じるかによって変わる。後代の著作は元均の欠点を強調するが、朝廷の記録は彼にかけられた圧力も示している。

記録

  1. 1592年 — 李舜臣・元均・李億祺が閑山島をはじめとする一連の海戦に勝利する。李舜臣と元均が功をめぐって争う。
  2. 1593年 — 李舜臣が三道水軍統制使となり、閑山島に本営を置く。
  3. 1597年 — 旧暦1月(西暦2月~3月):要時羅が金応瑞に、加藤清正がまもなく渡海すると伝える。李舜臣は迎撃せず、加藤が上陸する。
  4. 1597年 — 旧暦2月~3月:元均が水軍を引き継ぐ。李舜臣は都へ連行され、4月19日に投獄される。
  5. 1597年 — 5月16日(旧暦4月1日):李舜臣が釈放され、権慄のもとで白衣従軍を命じられる。
  6. 1597年 — 7月31日~8月1日:艦隊が安骨浦と加徳島を攻撃し、安弘国が戦死する。
  7. 1597年 — 8月19日~20日:右水軍が釜山近くの多大浦に進んで日本の船十数隻を拿捕する。600隻を超える日本の船が着いたと報告される。後代の記述は絶影島方面への出撃と加徳島での損失を伝えるが、それとこの作戦との正確な関係ははっきりしない。
  8. 1597年 — 8月27日~28日(旧暦7月15日~16日):漆川梁海戦。
  9. 1597年 — 9月3日(旧暦7月22日):敗北が朝廷に報告され、李舜臣が再任される。
  10. 1597年 — 9月下旬:南原が日本軍の手に落ちる。
  11. 1597年 — 10月26日:李舜臣が鳴梁で日本艦隊を退ける。
  12. 1598年 — 12月:最後の日本軍が釜山から撤退し、戦争が終わる。
  13. 1599年 — 1597年に艦隊を離れていた裵楔が、善山で捕らえられて処刑される。
  14. 1604年 — 元均が李舜臣・権慄とともに宣武功臣一等に録される。李億祺は二等に録される。
  15. 1980年 — 平沢の元均の墓が京畿道記念物に指定される。その後の数十年、子孫や一部の著述家による元均の再評価が続く。

用語集

漆川梁
「漆川の海峡」の意。慶尚南道巨済市の、巨済島と漆川島(現在の七川島〈チルチョンド〉)のあいだの狭い水路。
三道水軍統制使
慶尚・全羅・忠清の水軍を統べるために1593年に設けられた官職。李舜臣、ついで元均、そして再び李舜臣が就いた。
水使
道ごとの水軍の指揮官。李億祺(全羅右道)、崔湖(忠清道)、裵楔(慶尚右道)など。
都元帥
戦時における朝鮮軍の総司令官。1597年には権慄がこの職にあった。
都体察使
ある地域の軍事と民政を統括するために派遣された高位の大臣。1597年には李元翼が南方でこの職にあった。
備辺司
軍事を議論し調整した朝廷の機関。
板屋船(パノクソン)
朝鮮水軍の主力軍船。高い上甲板を備え、大砲を積んだ大型の櫂船。
白衣従軍
「白い衣で軍に従う」の意。罰として官職のないまま従軍すること。李舜臣は1597年にこれを命じられた。
宣武功臣
日本との戦いでの軍功により1604年に定められた功臣。李舜臣・権慄・元均の三人が一等であった。
倭城
戦争中に朝鮮の南岸に沿って築かれた日本式の城。安骨浦や加徳島のものなどがあり、日本軍に海路に近い拠点を与えた。
太陰太陽暦
朝鮮で用いられた暦。月の満ち欠けに従って月を定め、ときおり閏月を加える。その日付は西暦(グレゴリオ暦)に換算する必要がある。

よくある質問

なぜ漆川梁では李舜臣が指揮を執っていなかったのですか。

1597年の初め、朝廷は、日本側の仲介者から情報が寄せられていた加藤清正を迎え撃たなかったことなどを理由に、李舜臣を責めました。李舜臣は逮捕・投獄され、釈放されたものの官職のないまま従軍することになりました。代わりに元均が指揮を執りました。

加藤についての情報は日本の計略だったのですか。

『宣祖修正実録』や『懲毖録』のような朝鮮の後代の著作は小西行長の策略だったとし、現代の記述の多くもそれに同意しています。1597年の朝廷の記録は、その知らせとそれがどう使われたかを示していますが、小西の本当の意図までは示していません。そのため、「計略だったと伝えられる」と表すのが最も適切です。

そもそもなぜ朝鮮艦隊は出撃したのですか。

朝廷と都元帥・権慄は、日本の援軍が釜山へ渡るのを水軍に阻ませたいと考えていました。元均と各道の水使たちは、日本軍が沿岸を押さえている限りそれは不可能だと主張しましたが、処罰をちらつかされて出撃を命じられました。

元均は戦いで死んだのですか。

一般には上陸した後に殺されたとされていますが、そのときの状況ははっきりしません。宣伝官の金軾が最後に見たのは、松の木の下にいた元均に日本兵が迫るところで、彼が死ぬところは見ていません。何週間ものあいだ、彼が生き残ったかどうかについて報告は食い違いました。彼が再び現れることはなく、後の記録は彼を戦死したものとして扱っています。

何隻の船が生き残ったのですか。

裵楔が率いて逃れた部隊の約12隻で、これが李舜臣の艦隊の中核となりました。ほかの船や小舟が沿岸に散らばっていたと伝える報告もあるので、生き残った船の総数はいくらか多かったかもしれません。

日付は7月15日ですか、それとも8月27日ですか。

どちらも同じ夜を指しています。記録は旧暦の7月15日としており、西暦に換算すると1597年8月27日で、艦隊が壊滅したのは翌朝の8月28日です。「7月15日」を西暦の日付として扱うと、旧暦の月日を西暦と取り違えることになります。

敗北の後には何が起きたのですか。

李舜臣は1週間以内に再任され、日本軍は南岸を制して南原まで進みました。10月、李舜臣は生き残った船を使って鳴梁海戦に勝利しました。

出典・参考文献

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上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。

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