最初はやさしい入門です。下に進むほど詳しい説明や研究内容を読めます。
- やさしい
- 中級
- 上級
子ども向け
400年以上前、日本は、そのころ朝鮮(ちょうせん)という王国だった韓国(かんこく)に攻めこみました。1597年、日本軍は2度目の攻撃にやって来ました。その年の夏、朝鮮の水軍は、漆川梁(チルチョルリャン)という場所で不意打ちを受け、ほとんど全部の船を失ってしまいました。
王さまは、水軍の指揮を李舜臣(イ・スンシン)将軍にもう一度まかせました。李舜臣は、その何か月か前に捕らえられ、罰を受けていた人です。李舜臣が指揮を引きついだとき、残っていた軍船はたった12隻ほどでした。水軍をやめて陸で戦うべきだと考える役人もいましたが、李舜臣は「わたしにはまだ12隻の船があります」と答えたと伝えられています。
日本の大きな艦隊が、海岸にそって西へ進んできました。李舜臣は、珍島(チンド)という島と陸地のあいだにある、とてもせまい水路の近くで待ちかまえました。そこでは海の水がとても速く、大きな音を立てて流れるので、人びとはそこを「ウルドルモク」(うなり声をあげる水路)とよんでいます。
戦いの日、130隻をこえる日本の船が、13隻の朝鮮の船に向かって水路に入ってきました。はじめは李舜臣の乗る船がほとんど一隻だけで戦い、ほかの船は後ろにさがっていました。やがてほかの船の指揮官たちも前に出てきて、日本の指揮官の一人が討たれ、およそ30隻の日本の船がこわされました。日本の船は引き返していきました。
この戦いで戦争が終わったわけではありません。李舜臣は船が少なすぎてその場にとどまれなかったので、北へ向かい、もっと多くの兵士や船を集めました。それでも、なくなりかけていた水軍は救われ、韓国の人たちは鳴梁(ミョンニャン)の戦いを、自分たちの歴史の中でもっとも有名な海の戦いの一つとして覚えています。李舜臣が水路に鉄のくさりを張ったというよく知られた話がありますが、李舜臣の日記の戦いの記録には、海峡にくさりを張ったことは何も書かれていません。
ひと目でわかる
- 日付
- 1597年旧暦9月16日(朝鮮・日本の暦とも)=西暦(グレゴリオ暦)1597年10月26日。戦闘は朝から午後遅くまで続いた
- 場所
- 珍島と本土の花源半島のあいだの鳴梁海峡(ウルドルモク)と、その北西端にある全羅右水営(右水営)の沖。現在の海南郡・珍島郡
- 戦争
- 文禄・慶長の役(壬辰倭乱、1592~1598年)のうち、日本の第二次侵攻(慶長の役、丁酉再乱、1597~1598年)
- 指揮官
- 朝鮮:三道水軍統制使の李舜臣と、全羅右水使の金億秋、安衛、金応諴、宋汝悰ら/日本:藤堂高虎、加藤嘉明、脇坂安治、来島通総(戦死)、軍目付の毛利高政
- 兵力
- 朝鮮:戦船13隻と、おそらく戦闘に加わらなかった哨探船32隻(李舜臣の報告)/日本:李舜臣の日記によれば攻撃に加わった船は133隻(朝廷への報告では「130余隻」)。近くにいた艦隊全体の推計は最大で約330隻に及ぶ
- 損害
- 日本:李舜臣の日記によれば31隻が撃破された(報告では20余隻、のちにさらに11隻。現代の著作の多くは約30隻とする)。来島通総が戦死し、藤堂高虎が負傷した/朝鮮:船の損失なし。李舜臣の旗艦で戦死2人・負傷3人、安衛の船の漕ぎ手7、8人が海に飛び込んだ(李舜臣の日記)
- 結果
- 朝鮮側の勝利で、日本艦隊は退いた。李舜臣は同じ夜に北へ退き、日本水軍はその後、全羅道の西岸を襲ってから冬に向けて南岸へ引き揚げた。戦争が終わったのは秀吉の死後、日本軍が1598年12月に釜山を去ったときである
- 主な史料
- 李舜臣の戦争日記(『乱中日記』)と、『宣祖実録』に引かれた彼の報告、柳成龍の『懲毖録』、李舜臣の甥・李芬による伝記(『行録』)、藤堂家・毛利家の日本側の家の記録、1688年の大捷碑
地図の上で
同じころ、世界の別の場所では
このライブラリの記事のうち、ほぼ同じ時期に世界の遠く離れた場所で起きたことです。
やさしい
鳴梁で何が起きたのか
鳴梁海戦は、文禄・慶長の役(壬辰倭乱)のうち、日本による二度目の朝鮮侵攻の際に戦われた海戦である。1597年旧暦9月16日、西暦では1597年10月26日のことである。日本側の記録も同じ旧暦の日付を挙げている。戦場は鳴梁海峡、すなわち珍島と朝鮮半島本土の南西端とのあいだの狭い水路で、韓国ではその潮流の音にちなんで「うなる水路」を意味するウルドルモクとも呼ばれる。
その2か月前、朝鮮水軍は漆川梁でほぼ全滅していた。残った水軍の指揮官に再任された李舜臣が戦いの日までに集められた戦船は、わずか13隻であった。全羅道の沿岸を西へ進んでいた日本艦隊が、彼を攻撃するため海峡に入ってきた。李舜臣の日記は、攻撃に加わった日本船を133隻と数えている。
長いあいだ、李舜臣の旗艦はほとんど単独で戦い、ほかの指揮官たちは後ろに控えていた。彼らがようやく前に出てくると、戦いの流れが変わった。李舜臣は日本船31隻を撃破したと記録しており、日本艦隊は退いた。日本側の記録も大きな損害を伝えている。指揮官の来島通総が戦死し、藤堂高虎が負傷したのである。
鳴梁は朝鮮水軍を救ったが、戦争を終わらせはしなかった。李舜臣は船が少なすぎて海峡を守り続けることができず、同じ夜に北へ向かった。日本の陸軍はすでに南へ引き返し始めており、戦いはそれから1年、日本軍が1598年12月に釜山を去るまで続いた。以下の節では、史料が実際に何を語っているのか、そしてこの戦いの物語がどのようにふくらんでいったのかを見ていく。
やさしい
漆川梁から「12隻の船」へ
明との和平交渉が決裂すると、日本は1597年に再び侵攻した。その年の初め、要時羅という日本の間者が、加藤清正が特定の日に海を渡るという情報を伝えたが、この情報は計略だったと伝えられる。李舜臣は朝廷の望んだとおりには出撃せず、逮捕されて取り調べを受け、都元帥・権慄のもとで官職のないまま従軍するよう送られた。水軍は元均が引き継いだ。旧暦7月15日・16日(西暦1597年8月27日・28日)、元均の艦隊は巨済島沖の漆川梁で奇襲を受けて壊滅した。元均自身も殺されたと伝えられる。
この惨敗から逃れた将校・金軾は王に、艦隊は焼かれ、慶尚右水使の裵楔ら数人の指揮官がかろうじて逃れたと報告した。金軾は元均とともに上陸し、日本兵が元均に襲いかかるのを見たが、元均が生き延びたかどうかは分からないと述べた。裵楔は十数隻の戦船を連れ出していた。旧暦8月に朝廷が指揮官たちの処罰を議論したとき、裵楔はまだ船を率いて海上にいたため、当面は処罰を見送られた。
敗報を受けたその日の旧暦7月22日(西暦9月3日)、朝廷は李舜臣を全羅左水使兼三道水軍統制使に再任した。李舜臣は旧暦8月の初めに晋州の近くでこの命令を受けた。全羅道を西へ進みながら、散り散りになった兵士や武器、兵糧を集め、長興の沿岸で裵楔が救い出した船を引き継いだ。最初に引き継いだ船の数については記述が分かれるが、その後さらに集めた船を加えて、戦いのときには13隻の戦船があった。
これほどわずかな船では役に立たないと考える者が朝廷にあり、李舜臣は陸上の部隊に合流するよう命じられた。甥の李芬が書いた伝記『行録』によれば、李舜臣は、この5、6年のあいだ日本軍が全羅道と忠清道に攻め込めなかったのは水軍がその道をふさいでいたからだと述べ、こう答えた。「今、臣にはなお戦船12隻があります。死力を尽くして戦えば、なおなすべきことはあります……戦船は少ないとはいえ、臣が生きている限り、敵はあえて我らを侮ることはできないでしょう。」本稿が参照した史料には上奏文そのものは含まれておらず、この有名な言葉は李芬の『行録』によって知られている。
やさしい
碧波津:海峡の入り口で待つ
陸上では、日本の諸軍が全羅道を席巻していた。9月下旬に南原を攻め落とし、全州を戦わずに奪った。海上では、日本艦隊がこれを支援するため沿岸を西へ進んだ。開けた海で迎え撃つには船が少なすぎた李舜臣は、南岸から西の海へ抜ける通り道である鳴梁海峡の方へ退いた。
旧暦8月29日、李舜臣は船団を、海峡のすぐ南東、珍島の北東端にある碧波津に移した。日記によれば、その数日前、於蘭浦沖の停泊地に近づいた日本船8隻が追い払われていた。旧暦9月2日(西暦10月12日)、裵楔が逃亡した。朝廷はのちに軍法による処罰を求め、裵楔は最終的に捕らえられて処刑された。7日(西暦10月17日)の夜には、日本の一隊が碧波津の朝鮮の船を攻撃したが、撃退された。
14日、斥候が、200隻を超える日本船が向かってきており、すでに数十隻が於蘭浦に入ったと報告した。李舜臣は、自分の小さな艦隊では海峡を背にして戦うことはできないと判断した。15日(西暦10月25日)、彼は海峡を通り抜けて、その北西端の本土側にある全羅右水営の本営・右水営に移った。
日記によれば、その夜、李舜臣は将たちを呼び集めて兵法を引き、「死を覚悟する者は生き、生きようとする者は死ぬ」、「一人が狭い道を守れば、千人をも恐れさせることができる」と述べた。そして、命令にわずかでも背く者があれば軍法で処罰すると警告した。
やさしい
旧暦9月16日:海峡での戦い
16日の早朝、斥候が、数えきれないほどの日本船が海峡を通って朝鮮の停泊地へ向かってくると報告した。李舜臣は船を率いて迎え撃ちに出た。朝廷への報告で、彼は130余隻の戦船が梨津浦の沖から押し寄せたと書き、日記では133隻と数えている。藤堂家の覚書によれば、大型の船では急流の水路を下るのが難しかったため、大型の安宅船ではなく中型の関船が攻撃のために集められたという。
日本船は朝鮮の船を取り囲み、はじめは李舜臣の旗艦がほとんど単独で大砲と矢で応戦した。ほかの船は後ろに控えており、日記によれば全羅右水使・金億秋の船は遠く離れていた。李舜臣は信号旗を揚げて指揮官たちを呼び寄せた。巨済県令の安衛が近づいてくると、李舜臣は、日記に記された言葉によれば、こう叫んだ。「安衛、軍法で死にたいのか。逃げて生き延びられると思うのか。」安衛は敵中に突入し、日本兵がその船に群がった。李舜臣は旗艦を寄せて、撃退を助けた。
朝鮮側の二つの記録は、マダシ(馬多時)という日本の指揮官を、それぞれ異なる形で描いている。李舜臣の報告によれば、赤い旗と青い幕を掲げた日本の大船が攻撃を指揮しており、朝鮮側に降っていた日本人がそれを指して「安骨浦の敵将マダシ」の船だと言った。『韓国民族文化大百科事典』は日記に従い、李舜臣の船に乗っていた投降日本人の俊沙が、水に浮かぶ模様入りの服の男をマダシだと見分け、男は鉤で引き上げられて首をはねられ、その首が掲げられると日本兵の士気が落ちたとする。李舜臣の報告によれば、朝鮮側はまず砲撃で日本船20余隻を撃破し、宋汝悰と鄭応斗が戦いに加わると、さらに11隻を打ち破った。日記は合計31隻とする。日本艦隊は退いた。李舜臣は日記に「これは実に天の幸いであった」と書いた。
李舜臣自身の記述によれば、朝鮮側は一隻の船も失わず、旗艦で2人が戦死し3人が負傷した。日記はまた、安衛の船の漕ぎ手7、8人が海に飛び込んで泳いだと記すが、彼らが助かったかどうかは書いていない。李舜臣は戦場にとどまりたかったが、潮流が危険で、風も逆らい、船も少なかったため、その夜、北にある唐笥島へ移った。日本側の記述は、戦いが辰の刻(午前7~9時ごろ)から酉の刻(午後5~7時ごろ)まで続いたとしている。
中級
ウルドルモク:海峡とその潮流
鳴梁海峡は、朝鮮半島沿岸で最も狭く、流れの速い水路の一つである。『韓国民族文化大百科事典』によれば、最も狭い所で幅293メートル、深さは約19メートルで、大潮のときには流速が11.5ノット(時速20キロメートル以上)に達する。韓国語の名前ウルドルモクは、水路が泣いているかのように聞こえる水のうなりに由来する。潮は北西へ満ち、南東へ引き、流れはおよそ1日に4回ゆるんで向きを変える。
早い時期の記述もすでに、この戦いを水の勢いと結びつけているが、その結びつけ方はさまざまである。戦後に書かれた柳成龍の『懲毖録』は、李舜臣が大砲を積んだ12隻の船で「潮に乗って」流れとともに攻撃したと述べる。1688年に建てられた大捷碑は、潮が強く、日本船がその潮に乗って朝鮮の船に押し寄せたとする。『宣祖実録』に引かれた李舜臣の朝廷への報告は、勝因を砲撃と力戦に帰しており、潮には触れていない。日記の要約が危険な潮流に触れるのは、主に彼が戦場にとどまれなかった理由を説明するところである。
当日の潮の詳しい様子は、現代の再現によるものである。2010年、国立海洋調査院はウルドルモクで6か月間にわたって測った潮流の観測値を用いて、旧暦9月16日の潮を計算し直した。報道記事は、どの西暦の日付を用いたかを記していない。報道によれば、その日は大潮で、北西へ向かう上げ潮は午前6時30分ごろに始まり、10時10分ごろに毎秒4.0メートルで最も強くなった。流れは12時21分に南東へ転じ、引き潮は午後2時40分ごろに毎秒2.7メートルで最も強くなった。ピョン・ドソン、イ・ミヌン、イ・ホジョンが2011年に発表した研究は、こうした推算を用いて戦いの経過を解釈し直したが、当時一般に用いられていた換算に従って10月25日を戦いの日としている。したがって、その数値を本稿の用いる10月26日にそのまま当てはめることはできない。この見方によれば、南東から来た日本艦隊は上げ潮に乗って海峡に入り、正午ごろの潮の転流が彼らに逆らう流れとなった。
こうした再現は慎重に読む必要がある。参考文献のあいだでも細部は一致しない。『韓国民族文化大百科事典』は、日本艦隊が入ってきたときは潮がほとんど止まっており、流れが南東に転じたときに日本艦隊が李舜臣の船を包囲しようとしたと述べる。推算は、岸の形が変わった水路での現代の観測値に頼っており、日付にも左右される。潮の時刻は毎日約50分ずつ遅れるため、暦をめぐる朝鮮の記録の1日の食い違い(「史料とその問題点」を参照)は無視できない。潮流は、この海峡がその北端を押さえる小さな艦隊に有利だった理由を説明する助けにはなるが、戦いの経過を時刻ごとに語る物語は、あくまで再構成である。
中級
日本側から見た鳴梁
1597年の作戦で、日本の諸軍はまず南部の諸道、とりわけ第一次侵攻で最悪の被害を免れていた全羅道を攻めた。漆川梁の後、藤堂高虎、加藤嘉明、脇坂安治、来島通総らの指揮官に率いられた日本水軍は、陸軍を支援するため全羅道の沿岸を西へ進んだ。これらの指揮官の中には陸上でも戦った者がいた。日本語版ウィキペディアによれば、来島は600人を率いて南原の攻撃に加わった。
この戦いについての日本側の記録は、主に指揮官たちの家の記録であり、日本語版・英語版ウィキペディアの要約を通じて知られる。藤堂家の覚書(『藤堂家覚書』)は、大型の船では急流の水路を下ることがほとんどできなかったため、関船が攻撃のために集められたとし、日本語版ウィキペディアはその数を数十隻とする。これらの要約によれば、『藤堂家覚書』と藤堂高虎の記録である『高山公実録』は、来島通総が戦死したこと、藤堂家の重臣の半数以上が死傷したこと、藤堂自身も負傷したこと、そして艦隊に同行した軍目付の毛利高政が朝鮮の船と組み合ううちに海に落ち、藤堂家の家臣二人に引き上げられたことを記している。毛利家の文書は、朝鮮の戦列の後方に数百艘の小舟が集められていたと述べている。
来島通総(1561~1597年)は、瀬戸内海の海上勢力である村上氏のうち、来島村上氏の出身である。1582年に豊臣秀吉方に付き、1585年に伊予国(四国)で1万4000石の大名となり、第一次侵攻では陸と海で戦った。鳴梁では先鋒を率いて海峡に入り、数え年37歳で戦死した。家督は次男の長親が継いだ。
李舜臣の兵が水から引き上げた指揮官「マダシ」は来島自身だった、としばしば言われる。李舜臣の報告は彼を「安骨浦の敵将マダシ」と呼び、たとえば韓国語版ウィキペディアは彼を来島とみなしている。しかし、この同定は朝鮮の記録にある名前と日本の記録にある死を結びつけるもので、すでに朝鮮側に降っていた一人の日本人が戦いのさなかに見分けたことに基づいている。しかも、マダシという名は1597年のもっと早い時期の朝鮮の記録にも、釜山にいた日本人として現れる。本稿が参照した史料では、この問題に決着をつけることはできない。
中級
戦いの後:変わったことと変わらなかったこと
李舜臣は海峡にとどまらなかった。唐笥島で一夜を過ごした後、沿岸を北へ向かい、旧暦9月21日までに現在の群山沖の古群山群島に達し、その途中で漆川梁の生存者を集めた。旧暦10月に南へ戻ると、右水営の本営は日本軍に焼かれていた。彼は冬のあいだに戦力を立て直した。柳成龍の『懲毖録』によれば、1598年の初めに古今島を拠点としたころには、李舜臣のもとには8000人を超える兵がいた。彼は多くの避難民の船に米と引き換えに通行証を発行して、10日間で1万石を超える穀物を集め、大砲を鋳造し、船を建造した。
一方、日本水軍は李舜臣が去った後に海峡を通過し、冬の前に全羅道の西岸を襲った。旧暦9月23日には、学者の姜沆が海上で藤堂の艦隊に捕らえられ、日本へ連れ去られた。日本軍に捕らえられた後に逃れた朝鮮の兵士は、1598年の初めに官員に対し、捕虜として自分が置かれていた日本の指揮官の艦隊が右水営の沖で朝鮮の水軍の将と戦い、日本兵の半数が死傷したと語った。その艦隊はその後、務安の沖に停泊して数日間その一帯を焼き払い、順天へ戻ったという。冬が来る前に、日本艦隊は南岸へ引き揚げた。
陸上では、日本軍はすでに引き返していた。南原と全州を取った後、日本の諸軍は忠清道に進み、一部の部隊は京畿道の南端にまで達した。10月中旬、明軍が稷山で黒田長政の先鋒と衝突した。その後、日本軍は南へ向きを変えた。鳴梁より前の旧暦9月15日付の『宣祖実録』の記事は、宣祖と大臣たちが夜遅くまで、日本軍が突然退いたという報告に首をかしげていた様子を記録している。つまり陸軍の撤退は戦いの前に始まっており、鳴梁だけではそれを説明できない。冬のあいだ、日本軍は蔚山から順天に至る南岸に沿って城を守り、また築いた。
鳴梁は、李舜臣個人にも犠牲を強いた。旧暦10月、李舜臣は末子の李葂が、牙山の実家を襲った日本兵に殺されたことを知った。1598年、陳璘の率いる明の水軍が古今島で李舜臣に合流した。豊臣秀吉は1598年9月に死去し、日本軍は撤退の準備を始めた。1598年12月16日の露梁海戦で、李舜臣は日本艦隊を攻撃している最中に戦死した。12月下旬には最後の日本軍が釜山を去り、戦争は終わった。
中級
同じころの世界(1597年)
日本では、第二次侵攻の年は国内での迫害とともに始まった。1597年2月5日、ヨーロッパやメキシコから来たフランシスコ会の宣教師や日本人信徒を含む26人のカトリック信者が、豊臣秀吉の命により長崎を見下ろす丘で十字架にかけられた。秀吉は、朝鮮に再び軍を送ったその人である。
ヨーロッパでは、スペインが1597年10月、イングランドに向けて3度目の無敵艦隊を送り出した。艦隊はア・コルーニャを出航したが、10月下旬、上陸する前に嵐で散り散りになり、指揮官たちは生き残った船に解散を命じた。ロンドンでは同じ年に、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』が初めて印刷された。
これらの出来事は、いずれも朝鮮での戦いとは関係がない。並べてみて分かるのは、1597年が、世界の反対側でも天候と海がもう一つの海の作戦の行方を決めた年であり、秀吉の日本が国内でキリスト教の布教への敵対を続けた年でもあった、ということだけである。
中級
鉄の鎖、おとりの舟、その他の物語
鳴梁について最もよく知られた伝説は、李舜臣が海峡に鉄の鎖を張り渡し、それを引き締めて日本船を引っかけ、転覆させたというものである。この戦いについての李舜臣の日記の記事は、海峡に張った鎖には一切触れておらず、『宣祖実録』に引かれた報告も同様である。韓国語版ウィキペディアは、この話の出どころを金億秋の家の後代の記録『顕武公実紀』にたどっている。『韓国民族文化大百科事典』はこれを「伝えられる」話の一つとして挙げるにとどまり、国史編纂委員会のオンライン通史(ウリナラ歴史ネット)は、研究はこの話を支持していないとする。後代の伝説として扱うのが妥当である。
避難民の舟の話は、より裏づけがある。『懲毖録』は、自分の舟で海へ逃れていた人々が李舜臣の到来を聞いて集まり、彼がそれらを艦隊の後方に置いて「艦隊の見かけの威勢を増した」と述べる。1688年の大捷碑は、100隻を超える避難民の舟がおとりとして海上に並べられ、遠くからは戦船のように見えたとし、毛利家の日本側の文書も朝鮮の戦列の後方に数百艘の小舟がいたと述べている。数や目的は記述によって異なるが、艦隊の後方に民間の舟がいたことは、いくつもの早い時期の記述に見られる。
一般向けの語り直しの中には、史料が裏づけないことを付け加えるものもある。鳴梁では亀甲船は一隻も戦っていない。有名な「12隻」と、戦いの「13隻」は、どちらも正しい。前者は朝廷が水軍を廃止しようとしたときに李舜臣が書いた数であり、後者は実際に戦った数である。
伝説は数字の上でもふくらんだ。李舜臣自身の数字は日本船133隻、あるいは「130余隻」だが、後代の著作は330隻以上とし、さらにはるかに多い数を挙げる記述もある(「船と損害を数える」を参照)。戦いから遠い記述ほど、日本艦隊は大きくなる傾向がある。
中級
鳴梁を記憶する
戦後の1604年、李舜臣は宣武功臣一等に録された。1688年には全羅右水使の朴新冑が、海峡のほとりの右水営に大捷碑を建てた。碑文は礼曹判書の李敏敍が撰し、書は李正英が書き、篆書の題字は文人の金万重が書いた。碑は、この勝利を李舜臣の勝利の中で最も目覚ましいものとたたえ、強い潮とおとりの舟について述べ、鳴梁の狭い入り口をうたう詞で結ばれている。植民地時代にはソウルの景福宮へ移され、解放後の1947年に海南の海岸に再び建てられ、2011年に元の場所へ戻された。1969年に韓国の宝物(第503号)に指定された。
今日、この戦いは海峡の両岸で記憶されている。全南光州統合特別市と海南郡・珍島郡が主催する鳴梁大捷祭では、毎年この戦いが再現され、主会場は二つの郡に交互に設けられる。2026年には9月11日~13日に開かれた。
大衆文化では、この戦いはキム・ハンミン監督の映画『バトル・オーシャン 海上決戦』(原題『鳴梁』)で最もよく知られている。2014年7月30日に公開され、チェ・ミンシクが李舜臣を、リュ・スンリョンが来島通総を演じた。観客動員1760万人を記録し、韓国の映画史上最も多くの観客を集めた作品となった。来島の個人的な復讐心のように、史実と創作を混ぜ合わせている。キム・ハンミンはその後、『ハンサン ―龍の出現―』(2022年)と『ノリャン ―死の海―』(2023年)を撮った。
鳴梁は韓国だけの記憶ではない。日本語版ウィキペディアは、朝鮮総督府や大日本帝国海軍のもとで刊行された書物がすでにこの戦いを朝鮮側の勝利として記述しており、現代の日本の歴史家の多くもこれに同意していると記している。
上級
船と損害を数える:史料は何を語るか
朝鮮側は比較的数えやすい。李舜臣の報告は戦船13隻と哨探船32隻を挙げる。哨探船はおそらく戦わなかった小舟である。『懲毖録』は有名な上奏の数である12隻とする。戦いに加わった兵の数は、本稿が参照した史料からは分からない。『懲毖録』は、李舜臣が古今島に移ったころには8000人を超えていたと述べるだけである。
日本艦隊ははるかに難しい。李舜臣の日記は攻撃に加わった船を133隻と数え、朝廷への報告では「130余隻」とする。『懲毖録』は、マダシが200隻余りを率いたとする。国史編纂委員会のオンライン通史は艦隊を200~300隻と推計し、そのうち海峡に入ったのは関船約133隻にすぎなかったとする。日本語版ウィキペディアは、日本の参謀本部の戦史と編成表を引いて、先鋒数十隻、本隊133隻、後方に200隻余り、兵約7200人とする。さらに大きな数字は後代の著作に現れる。韓国語版ウィキペディアは、日記の刊本にある330隻(同記事は誤読と説明する)、李舜臣の全集にある333隻、『乱中雑録』の「数百隻」、『燃藜室記述』の500~600隻を挙げ、サミュエル・ホーリーは133~330隻とする。最もよく裏づけられているのは、実際に海峡に入った133隻ほどの船という数字であり、近くにいた艦隊全体の規模は不確かである。
日本側の損害も不確かである。『宣祖実録』に引かれた李舜臣の報告は、砲撃で20余隻を撃破し、その後さらに11隻を撃破し、首級8を取ったと述べるが、合計は示していない。日記は31隻とし、現代の著作の多くは約30隻とする。用いられている語は体当たりや砲撃で「撃破した」「穴をあけた」という意味であり、これらの船がすべて沈んだとは限らない。オンライン通史は出典を示さずに、損傷した船90余隻を加えている。のちに逃れてきた朝鮮人の捕虜は、捕虜として自分が置かれていた日本の指揮官の兵の半数が死傷したと報告し、『藤堂家覚書』は藤堂家自身の将の大きな損害を記録している。日本側の戦死者の信頼できる総数は得られない。
朝鮮側の損害は、李舜臣自身の記述による。船の損失はなく、旗艦で戦死2人、負傷3人である。日記はまた、安衛の船の漕ぎ手7、8人が海に飛び込んで泳いだと記すが、彼らが溺れたかどうかは述べていない。ほかの朝鮮の船の損害は本稿が参照した史料には示されておらず、また指揮官自身の報告は、自軍の損害について最も中立的な証言とはいえない。
上級
史料とその問題点
主な証人は李舜臣自身である。1597年の彼の戦争日記は複数の版が伝わっており、日本船の数などの細部が異なる。しかもそれは、指揮官が自分自身の戦いについて書いたものである。彼の朝廷への報告は『宣祖実録』によって知られるが、そこでは、朝鮮政府が旧暦11月に明の指揮官に送った書簡の中に引用されている。この書簡には目的があった。明の水軍の支援を求め、「これによって賊船は西海に入ることができなかった」と強調していたのである。この主張は、その後の全羅道沿岸への襲撃を考えれば、慎重に読まなければならない。
そのほかの朝鮮側の記述は、後代のものか伝聞である。柳成龍の『懲毖録』は、李舜臣を推薦した大臣が戦後に書いたものである。有名な「12隻」の上奏は、李舜臣を敬愛した甥の李芬が書き、1795年に李舜臣の全集に収められた伝記によって知られる。1688年の碑、『顕武公実紀』のような家の記録、後代の編纂物は、おとりの舟や鉄の鎖、より大きな艦隊といった細部を付け加えており、それらは出来事から遠ざかるほどふくらんでいく。
日本側の史料は藤堂家や毛利家などの家の記録であり、当然ながら自家の主君の役割に焦点を当てている。本稿では、これらを主に日本語版・英語版ウィキペディアの要約を通じて参照している。『宣祖実録』に記録された、捕らえられたり逃れてきたりした朝鮮人の証言は、外からの視点を加える。本稿の日記からの引用は、旧暦9月15日・16日の李舜臣の記事を本稿が独自に訳したものである。どれか一つに頼るのではなく、こうした異なる種類の史料を突き合わせることで、戦いの輪郭を信頼できるものにすることができる。
日付にさえ注意が要る。旧暦9月16日という日付は確かだが、朝鮮の記録はその月の暦について1日食い違っている。『宣祖修正実録』は9月1日を己丑の日としており、これは1597年10月11日にあたり、戦いの日を甲辰とする李舜臣の日記とも一致する。この数え方では、戦いは10月26日にあたる。もとの『宣祖実録』のその月の干支は1日ずれており、それに基づく換算では10月25日となる。日本の暦の日付、慶長2年9月16日も10月26日にあたるとされる。
上級
鳴梁はどれほど重要だったのか
韓国の伝統は、鳴梁を自国の歴史で最も偉大な勝利の一つとみなしている。『韓国民族文化大百科事典』は、この戦いが第二次侵攻の流れを朝鮮に有利な方向へ変えたとする。国史編纂委員会のオンライン通史は、この戦いが日本水軍の西岸沿いの進出を止め、水陸並進という日本の計画をくじき、朝鮮水軍が漆川梁から立ち直ることを可能にしたとする。英語圏では、サミュエル・ホーリーが、日本水軍はその後黄海に達しようとする試みを断念したとみなし、海軍史家の李敏雄(イ・ミヌン)は、ジェームズ・ルイス編の論集で、この戦いが日本の西への進出を止め、朝鮮に水軍を立て直す時間を与えたと論じている。
この評価には留保をつけるべき十分な理由がある。日本の陸軍は、稷山で明軍とぶつかり、中国からの援軍が到着するなかで、戦いの前にすでに忠清道から引き返していた。『宣祖実録』は、鳴梁の知らせが届くはずのない時点で、朝鮮の朝廷がその撤退について議論していたことを示している。戦いの後、海峡を去ったのは李舜臣の方であり、日本水軍は海峡を通過して数週間にわたって全羅道沿岸を襲った。より広く見れば、明側を研究したケネス・スウォープは、この戦争における明の軍事的役割を再評価し、それが過小評価されてきたと論じている。英語版ウィキペディアは、朝鮮艦隊が海峡を放棄したことを理由に、鳴梁を日本側の戦略的成功とさえ呼ぶ日本の著述家も少数いると記しているが、日本語版ウィキペディアは、現代の日本の歴史家の多くはこれを朝鮮側の決定的勝利とみていると伝えている。
では、この戦いは何を決したのか。すでに転換していた陸上の作戦を止めたわけではなく、日本軍を海から追い払ったわけでもない。だが、朝鮮水軍を存続させたことは確かである。13隻の艦隊がはるかに大きな攻撃を退け、大名を一人討ち取り、一隻の船も失わなかった。そして続く数か月のうちに、李舜臣は避難民を集め、穀物を確保し、新しい船を造って、数千人規模の水軍を立て直した。ホーリーは日本水軍が黄海に達する考えを捨てたと判断するが、戦いの直後の全羅道沿岸への襲撃が示すように、日本水軍はすぐにその海域を離れたわけではなかった。1598年には、明の水軍が合流した李舜臣の水軍が、日本軍の城と本国への海路を脅かすことができた。
したがって鳴梁は、戦争に勝った戦いというよりも、朝鮮が海の戦争からほとんど脱落しかけていたまさにそのときに、朝鮮を海の戦争にとどまらせた戦いとみるのが最もふさわしい。戦争が1年後に終わったのは別の理由、すなわち秀吉の死と日本の撤退の決定によるものであり、日本軍は1598年12月に釜山を去った。
重要なポイント
- 存在し続ける艦隊
- 漆川梁の後、問題は朝鮮にそもそも水軍が残るかどうかであった。鳴梁は小さな艦隊を存続させ、それを核として李舜臣は朝鮮の海上戦力を立て直した。
- 狭い水路の活用
- 幅300メートルに満たない海峡では、大艦隊はすべての船を同時に戦いに投入することができず、守る側は海峡に入ってきた少数の船を一群ずつ迎え撃つことができた。
- 潮とタイミング
- ウルドルモクの潮流は、朝鮮半島沿岸で最も強いものの一つである。早い時期の記述は潮が重要だったとするが、当日に潮流が向きを変えた正確な時刻は現代の再構成である。
- 重圧の下での指揮
- 長いあいだ李舜臣の旗艦は単独で戦い、ほかの指揮官たちは後ろに控えていた。日記は、彼が軍法をちらつかせて彼らを呼び寄せた様子を伝えている。
- 一つの戦いが決めるもの
- 鳴梁は水軍を救ったが、戦争を終わらせたわけでも、それだけで日本の陸軍を押し返したわけでもない。陸軍はすでに撤退を始めていた。
- 伝説と記録
- 鉄の鎖のような話は後になってふくらんだ。李舜臣自身の日記や報告を後代の碑や家の記録と比べると、どの細部が記録で裏づけられるかが分かる。
記録
- 1597年 — 年初:日本が戦争を再開する。李舜臣は逮捕され、その後官職のないまま従軍させられる。元均が水軍を引き継ぐ。
- 1597年 — 8月27日~28日(旧暦7月15日~16日):朝鮮艦隊が漆川梁で壊滅する。十数隻が裵楔に率いられて逃れる。
- 1597年 — 9月3日(旧暦7月22日):朝廷が李舜臣を三道水軍統制使に再任する。
- 1597年 — 9月下旬:日本軍が南原を攻め落とし、全州を占領する。
- 1597年 — 旧暦8月29日:李舜臣が珍島の碧波津に移る。
- 1597年 — 10月12日(旧暦9月2日):裵楔が逃亡する。
- 1597年 — 10月中旬:明軍が稷山で日本軍と衝突する。日本の陸軍は南へ引き返す。
- 1597年 — 10月25日(旧暦9月15日):李舜臣が右水営に移り、将たちに「死を覚悟する者は生きる」と告げる。
- 1597年 — 10月26日(旧暦9月16日):鳴梁海戦。来島通総が戦死する。
- 1597年 — 10月31日(旧暦9月21日):李舜臣が古群山群島に達する。
- 1598年 — 年初:李舜臣が古今島を艦隊の拠点とする。のちに陳璘の率いる明の水軍が合流する。
- 1598年 — 12月16日:露梁海戦で李舜臣が戦死する。12月下旬、最後の日本軍が釜山を去る。
- 1688年 — 右水営に鳴梁大捷碑が建てられる。
- 2010年 — 国立海洋調査院が戦いの日の潮を再現する。
- 2014年 — 映画『バトル・オーシャン 海上決戦』(原題『鳴梁』)が公開され、韓国で最も多くの観客を集めた映画となる。
用語集
- ウルドルモク
- 鳴梁海峡の韓国語の名前。潮流の音にちなんで「うなる水路」を意味する。
- 板屋船(パノクソン)
- 当時の朝鮮水軍の主力軍船。漕ぎ手を守る高い甲板を備え、大砲を積んだ頑丈な櫂船。
- 関船と安宅船
- 日本の軍船。関船は速い中型船、安宅船は大型で頑丈に造られた船。日本側の記録によれば、海峡に送り込まれたのは関船だけであった。
- 三道水軍統制使
- 南方三道(慶尚・全羅・忠清)の水軍を統べる官職。李舜臣は1597年にこの職に再任された。
- 右水営
- 全羅右水営の本営。鳴梁海峡の北西端、現在の海南にあった。
- 白衣従軍
- 「白い衣で軍に従う」の意。罰として官職のないまま従軍すること。李舜臣は1597年、再任の前にこれを命じられた。
- 行録
- ある人物の生涯と事績を記した伝記で、しばしば親族が書いた。李芬が叔父について書いた『行録』に「12隻」の言葉が残されている。
- 大潮と憩流
- 大潮は、月のうちで潮の干満の差と潮流が最も大きくなる時期。憩流は、潮流の向きが変わるときの短い停止のこと。
- 推算(ハインドキャスト)
- 現代の観測値やモデルから、数百年前のある日の潮など、過去の状況を計算すること。
- 太陰太陽暦
- 朝鮮と日本で用いられた暦。月の満ち欠けに従って月を定め、太陽年とずれないように閏月を加える。その日付は西暦に換算する必要がある。
よくある質問
12隻だったのですか、13隻だったのですか。
どちらも正しいのです。朝廷が水軍をやめようとしたとき、李舜臣は12隻と書きました。その後さらに1隻が加わり、鳴梁では13隻の戦船が戦いました。
日本の船は何隻いたのですか。
李舜臣の日記は攻撃に加わった船を133隻と数え、報告は「130余隻」とします。海峡の外にはさらに多くの船が控えていた可能性があり、後代の記述は330隻以上とする場合もありますが、こうした数字はあまり信頼できません。
李舜臣は海峡に鉄の鎖を張ったのですか。
それを示す確かな証拠はありません。鳴梁の戦いについての彼の日記の記事や報告は海峡の鎖に触れておらず、この話は後代の家の記録に現れます。伝説として扱われています。
潮の流れが勝利をもたらしたのですか。
強い潮流は重要で、早い時期の記述もそれに触れていますが、潮の転流の正確な時刻は現代の再構成によるものです。李舜臣自身の報告は、勝因を砲撃と力戦に帰しています。
鳴梁は日本軍がソウルに達するのを防いだのですか。
鳴梁だけによるものではありません。日本の陸軍は稷山で明軍とぶつかった後、すでに南へ引き返しており、朝廷は戦いの前からその撤退について議論していました。鳴梁は朝鮮の水軍を救い、日本水軍の西岸沿いの進出を妨げました。
来島通総とはどのような人物ですか。
瀬戸内海の海上勢力の家に生まれた日本の大名です。日本の先鋒を率いて海峡に入り、戦死しました。李舜臣の兵が水から引き上げた「マダシ」が彼だったかどうかは不確かです。
10月25日ですか、26日ですか。
旧暦の日付、9月16日は確かです。『宣祖修正実録』と李舜臣の日記の暦によれば1597年10月26日となり、もとの『宣祖実録』に基づく一部の換算では10月25日となります。
映画『バトル・オーシャン 海上決戦』は史実に忠実ですか。
戦いの大筋には沿っていますが、来島の個人的な復讐心のような創作の場面や動機を加えています。ドキュメンタリーではなく、ドラマです。
出典・参考文献
- 조성도 (Jo Seong-do), 명량대첩 (鳴梁大捷). Encyclopedia of Korean Culture (Academy of Korean Studies)
- 명량 (鳴梁). Encyclopedia of Korean Culture (Academy of Korean Studies)
- 이순신 (李舜臣). Encyclopedia of Korean Culture (Academy of Korean Studies)
- 난중일기 (亂中日記). Encyclopedia of Korean Culture (Academy of Korean Studies)
- Yi Sun-sin (李舜臣), 亂中日記 · 丁酉日記 (Nanjung ilgi, diary of 1597), entries for the 14th–16th days of the 9th lunar month, 1597
- 이장희, 임진왜란 (壬辰倭亂). Encyclopedia of Korean Culture (Academy of Korean Studies)
- 명량해전 (The Battle of Myeongnyang), in 한국사 연대기 (Chronicle of Korean history). Urinara yeoksanet (우리역사넷), National Institute of Korean History
- Veritable Records of King Seonjo (선조실록), vol. 90, 22nd day of the 7th month of the 30th year of Seonjo (1597), entry 2: Kim Sik reports the defeat at Hansan (Chilcheollyang). Annals of the Joseon Dynasty database, National Institute of Korean History
- Veritable Records of King Seonjo (선조실록), vol. 90, 22nd day of the 7th month of 1597, entry 5: appointments of Jo Jeup, Yi Sun-sin and Gwon Jun. Annals of the Joseon Dynasty database, National Institute of Korean History
- Veritable Records of King Seonjo (선조실록), 5th day of the 8th month of 1597, entry 4: Yi Won-ik reports on the fate of the naval commanders; Bae Seol left unpunished for the time being. Annals of the Joseon Dynasty database, National Institute of Korean History
- Veritable Records of King Seonjo (선조실록), 15th day of the 9th month of 1597, entry 4: night audience on the sudden Japanese withdrawal. Annals of the Joseon Dynasty database, National Institute of Korean History
- Veritable Records of King Seonjo (선조실록), 11th day of the 10th month of 1597, entry 5: the Border Defence Council asks for Bae Seol to be punished for desertion. Annals of the Joseon Dynasty database, National Institute of Korean History
- Veritable Records of King Seonjo (선조실록), 10th day of the 11th month of 1597, entry 5: letter to the Ming commander-in-chief quoting Yi Sun-sin’s report of the battle off Byeokpajeong, Jindo. Annals of the Joseon Dynasty database, National Institute of Korean History
- Veritable Records of King Seonjo (선조실록), 11th day of the 2nd month of the 31st year of Seonjo (1598), entry 4: testimony of Jeon Pung-sang, a soldier of Jinhae who escaped from the Japanese. Annals of the Joseon Dynasty database, National Institute of Korean History
- Revised Annals of King Seonjo (선조수정실록), 1st day of the 9th month of the 30th year of Seonjo (1597), entry 1. Annals of the Joseon Dynasty database, National Institute of Korean History
- 朝鮮王朝實錄 / 宣祖實錄 / 三十年 (Veritable Records of King Seonjo, 30th year, classical Chinese text). Wikisource
- 朝鮮王朝實錄 / 宣祖實錄 / 三十一年 (Veritable Records of King Seonjo, 31st year, classical Chinese text). Wikisource
- Yu Seong-ryong (柳成龍), 懲毖錄 (Jingbirok), vol. 2 (classical Chinese text). Wikisource
- Yi Min-seo (이민서), text; transcription by the National Research Institute of Cultural Heritage, 해남 명량대첩비 (Haenam Myeongnyang victory stele), transcribed text. Wikisource (Korean)
- Translated by Yi U-tae and the National Research Institute of Cultural Heritage, 해남 명량대첩비/해석 (Haenam Myeongnyang victory stele, Korean translation). Wikisource (Korean)
- 이동훈, 명량해전 울돌목 조류 재현된다 (Uldolmok tidal currents of the Battle of Myeongnyang reconstructed). Newspim, 2010
- Byun Do-seong, Lee Min-woong, Lee Ho-jung, 명량해전 당일 울돌목 조류·조석 재현을 통한 해전 전개 재해석 (A Revisit to the Myungryang Naval Battle through Hindcasting Tidal Currents and Tides), Journal of the Korea Institute of Military Science and Technology 14(2): 189–197. Korea Institute of Military Science and Technology, 2011
- Battle of Myeongnyang. Wikipedia
- 명량 해전. Wikipedia (Korean)
- 鳴梁海戦. Wikipedia (Japanese)
- 来島通総. Wikipedia (Japanese)
- The Admiral: Roaring Currents. Wikipedia
- 울돌목에 되살아난 430년 전 명량의 함성…호국의 바다를 깨우다 (2026 Myeongnyang Victory Festival). MTN (Money Today Network), 2026
- Samuel Hawley, The Imjin War: Japan’s Sixteenth-Century Invasion of Korea and Attempt to Conquer China. Royal Asiatic Society, Korea Branch; Institute of East Asian Studies, University of California, Berkeley, 2005
- James B. Lewis (ed.), The East Asian War, 1592–1598: International Relations, Violence and Memory (incl. Yi Min’ung, “The role of the Chosŏn navy and major naval battles during the Imjin Waeran”, pp. 120–140). Routledge, 2015
- Kenneth M. Swope, A Dragon’s Head and a Serpent’s Tail: Ming China and the First Great East Asian War, 1592–1598. University of Oklahoma Press, 2009
- 음양력 변환 계산 (Lunar–solar calendar conversion). Korea Astronomy and Space Science Institute
- 26 Martyrs of Japan. Wikipedia
- 3rd Spanish Armada. Wikipedia
- Romeo and Juliet. Wikipedia
- Yi Bun (李芬), Yi Sun-sin’s nephew, 行錄 (Haengnok, biographical record of Yi Sun-sin), in 李忠武公全書 (Complete Works of Yi Sun-sin), vol. 9. Printed by royal order, 1795
- 해남 명량대첩비 (Haenam Myeongnyang victory stele). National Heritage Digital Service, Korea Heritage Service
- 2026 프로그램 소개 (2026 programme). Myeongnyang Victory Festival (명량대첩축제), 2026
関連記事
上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。
