戦争

第一次蔚山城の戦い

울산성 전투 蔚山城戰鬪 (Ulsanseong jeontu, “battle of Ulsan castle”), also 도산성 전투 島山城戰鬪 (Dosanseong jeontu) · Japanese 蔚山城の戦い

1598年

初出 2026年10月14日 · 最終更新 2026年10月14日 · 編集 テラ・スクリプタ

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ひとことで

1597年旧暦12月22~23日から1598年旧暦1月4日まで(西暦1598年1月28日または29日~2月9日)、楊鎬・麻貴・権慄の率いる明・朝鮮連合軍は、未完成の蔚山倭城に籠る加藤清正を包囲した。連合軍は外郭は奪ったものの城は落とせず、日本の援軍が到着すると撤退した。1598年秋の二度目の攻撃も失敗に終わった。

第一次蔚山城の戦い
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最初はやさしい入門です。下に進むほど詳しい説明や研究内容を読めます。

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子ども向け

1597年、日本は、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)にあった朝鮮(ちょうせん)という王国に、2回目の攻撃をしかけました。その年の終わりには日本の兵士たちは南の海岸まで引きあげ、そこで海のそばに日本式のじょうぶな城をいくつも建てました。いちばん東の城は、蔚山(ウルサン)の小さな丘の上にありました。

そのころ明(みん)という王朝が治めていた中国は、朝鮮を助けるために大軍を送っていました。真冬に、中国と朝鮮の兵士たちはいっしょに蔚山へ向かいました。日本でいちばん有名な武将の一人、加藤清正(かとうきよまさ)を、新しい城ができあがる前につかまえようとしたのです。

攻める側は城の外の陣地を焼き、外側のさくを破りましたが、丘の上の石の城壁はとてもじょうぶでした。中にいる日本兵には食べ物がほとんどなく、水もほとんどなく、寒さもきびしいものでした。攻める側も、こおりつくような雨の中で苦しみ、城壁に近づいたところで多くの兵士がうたれました。

包囲が続くうちに、城を助けるために、陸からも海からも日本の兵士がたくさん集まってきました。12日ほどたって、中国と朝鮮の軍はあきらめて引きあげ、退くとちゅうで多くの兵士が殺されました。中国の司令官の楊鎬(ようこう)は、皇帝に、もう少しで成功するところだったと報告しましたが、のちに損害をかくしたと訴えられ、役目をやめさせられました。

1598年の秋、連合軍はもう一度蔚山を攻めましたが、またしても失敗しました。それでも日本軍は12月に国へ帰りました。日本の支配者の秀吉(ひでよし)が9月に死に、あとをついだ人たちが軍を引きあげるよう命じたからです。今ではその丘は蔚山の町の公園になっていて、古い石垣の一部を今も見ることができます。

ひと目でわかる

日付
第一次包囲:城外での戦闘は1597年旧暦12月22日または23日(西暦〈グレゴリオ暦〉1598年1月28日または29日、韓国天文研究院の換算表による)。包囲が解かれたのは1598年旧暦1月4日(2月9日)。第二次包囲:1598年旧暦9月下旬から(『韓国民族文化大百科事典』は戦闘を22日、10月21日からとする)、麻貴の歩兵が退いた旧暦10月4日(11月2日)まで
場所
蔚山倭城(日本の城)。連合軍は島山(「島の山」)と呼んだ。太和江の河口近くにある高さ約50メートルの丘の上で、現在の蔚山広域市中区鶴城洞。西生浦の倭城の北にあたる
戦争
文禄・慶長の役(壬辰倭乱、1592~1598年)のうち第二次侵攻(慶長の役、朝鮮では丁酉再乱、1597~1598年)
指揮官
明:楊鎬(経理。朝鮮での戦争を統括する文官)と麻貴(提督。司令官)、李如梅、高策、李芳春ら/朝鮮:都元帥(総司令官)の権慄/日本:加藤清正、浅野幸長、太田一吉、毛利の部隊。援軍は毛利秀元、黒田長政、蜂須賀家政、鍋島直茂ら
兵力
明:『明史』によれば三つの部隊に分かれた約4万/朝鮮:初めに到着したと楊鎬と麻貴が述べた3500から、日本の参謀本部の戦史の1万2500まで幅がある。『韓国民族文化大百科事典』は権慄の兵を5万余りとする/日本:明の将校と日本側の記述『清正高麗陣覚書』によれば城内に「約1万」。捕虜は楊鎬に3000に満たないと語った
損害
明:包囲中に死者700近く、負傷者3000余り(李徳馨の報告)。撤退中にも大きな損害が出たが、数は集計されていない(「3000とも4000ともいう」)。後世の『明史』は2万近くとする/朝鮮と日本:本稿が参照した史料では信頼できる集計がない
結果
日本側の防衛の成功。連合軍は慶州へ、楊鎬は漢城へ退いた。楊鎬は1598年に損害を隠したとして弾劾され、罷免された。第二次包囲も失敗し、加藤は旧暦11月18日(1598年12月15日)に城を焼いて去った
主な史料
『宣祖実録』(李徳馨、権慄、李時言らの報告と楊鎬の上奏文)、『宣祖修正実録』、柳成龍の『懲毖録』、『明史』。日本の参考図書にまとめられた日本の諸家の記録

地図の上で

同じころ、世界の別の場所では

このライブラリの記事のうち、ほぼ同じ時期に世界の遠く離れた場所で起きたことです。

やさしい

蔚山で何が起きたのか

蔚山城の戦いは、文禄・慶長の役の最後の段階にあたる日本の二度目の朝鮮侵攻(1597~1598年)のさなか、南岸の日本の城に対して連合軍が仕掛けた最初の大規模な攻撃である。朝鮮の記録は、城外での最初の戦闘を1597年旧暦12月22日または23日、包囲の終わりを1598年旧暦1月4日としている。韓国天文研究院(KASI)の換算表で換算すると、1598年1月28日または29日から2月9日までとなる。

攻撃目標は、加藤清正の縄張りに従って、日本軍の防衛線の東端にあたる蔚山の丘の上に日本軍が築いていた日本式の新しい城(倭城)だった。文官で経理の楊鎬と提督の麻貴の率いる明軍は、都元帥・権慄の率いる朝鮮軍とともに、城の完成前に攻めかかった。連合軍は日本兵を陣地から追い出し、外側の土塁を奪い、守備隊を山頂の石垣の城に閉じ込めた。

城は落ちなかった。守備隊は食糧も水も乏しく、双方が冬の雨と寒さに苦しんだが、高い石垣への攻撃は攻撃側に大きな犠牲を強いた。日本の援軍が陸と海から集まると、楊鎬と麻貴は包囲を解いた。その軍は撤退中に攻撃を受け、楊鎬はのちにこの作戦は成功目前だったと皇帝に報告した。彼は1598年に弾劾され、罷免された。

1598年の秋、麻貴は、連合軍が同時に仕掛けた四つの攻勢の一つとして、蔚山を再び攻めた。この攻撃も失敗し、加藤が蔚山を去ったのは、豊臣秀吉の死後に日本が朝鮮から撤退したときのことだった。本稿の後半では、城、包囲、それについての報告、そして兵力や損害の数について史料が何を語っているのかを見ていく。

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やさしい

約40日で築かれた城

1597年の秋、朝鮮での日本軍の進撃は止まり、軍は南岸へ退いた。そこで日本軍は1593年に築いた城塞を維持するとともに、その外側に新たな城の列を築き始めた。日本と韓国の参考図書は、東の蔚山から西の順天まで八つの城を挙げている。蔚山はその最も東にあり、沿岸にある加藤清正の本拠・西生浦の北に位置していた。明の指揮官たちは加藤を日本の将の中で最も手ごわいとみなしており、楊鎬は皇帝に、まず彼を討たなければならないと書き送った。

城地は蔚山湾の奥にある低い孤立した丘で、その南側には太和江の河口があった。1597年には水が丘のふもとまで来ており、船は城の真下に直接つなぐことができた。『韓国民族文化大百科事典』によれば、加藤が縄張りを行い、浅野幸長が1万6000の兵で旧暦10月12日から約40日かけて築き、太田一吉が工事を監督した。日本側の記述は築城の開始を旧暦11月中旬とし、築城にあたった兵の中に毛利秀元の部隊を挙げている。一方、楊鎬の上奏文は、城は12月に築き始められたとする。工事がいつ始まったのかについて、記録は一致していない。石材は蔚山の邑城や近くの古い兵営の城壁から運ばれた。発掘では、1585年の朝鮮の水軍指揮官の記念碑が門の石として転用されているのが見つかった。

完成した縄張りは、山頂に本丸を置き、北と北西に一段低い二つの曲輪を配したもので、12の櫓と、日本式の傾斜をつけた石垣を備えていた。陸側には柵と堀を伴う長い土の外壁がめぐらされ、南には船着き場があった。ある明の将校は朝鮮の朝廷に、城を四重の囲いと説明した。崩すことのできる低い土の外壁と、城壁の上に建物を並べた三重の石の内郭で、守備兵はそこから下にいる者を撃ち下ろすことができたという。

連合軍が攻めてきたとき、工事はほとんど終わっていたが、まだ完全ではなかった。城にはまだ食糧が運び込まれておらず、丘には井戸がなかった。日本側の記述によれば、毛利の部隊はすでに引き揚げ始めており、加藤自身は西生浦に出かけていた。

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やさしい

外郭は落ち、城は持ちこたえる:1598年1月

楊鎬と麻貴は旧暦12月に漢城(ソウル)から南へ進軍し、慶州で権慄の朝鮮軍と合流した。『韓国民族文化大百科事典』によれば、西にいる小西行長が救援に来ないよう、彼らは順天の方へ動くと見せかけた。明軍は三つの部隊に分けられた。朝鮮の指揮官には成允文、李時言、鄭起龍がおり、慶尚道の水使・李雲龍は海から西生浦を見張るよう命じられた。

連合軍は23日の未明、三つの縦隊に分かれて慶州を出発した。権慄と李徳馨の報告によれば、李如梅の率いる左協の先鋒が夜明けに日本軍の陣地に達し、逃げるふりをしてから向き直って追ってきた敵を討ち、500余りの首を取った。この最初の戦闘を22日とする記述もある。城外の日本軍の陣地は焼かれ、生き残った者は丘の上へ逃げた。西生浦にいた加藤は、その夜わずかな供回りとともに戻ってきた。朝鮮の報告は馬で来たとし、日本側の記述は船で来たとする。

翌日、連合軍は外側の土塁と外壁を攻めた。明軍が突入し、建物と川の船2隻を焼き、守備兵は石の城へ退いた。明兵10人が城壁の上に登ったが、戻ってこなかった。『宣祖修正実録』と『懲毖録』は、外側の柵を奪った明兵が略奪に夢中になってすぐには攻め進まず、守備側が門を閉ざしたと付け加えている。それ以後、攻撃はことごとく失敗した。城壁は急な丘の上にあり、守備兵は狭間から射撃した。ある朝鮮の官僚がのちに王に語ったところでは、城があまりに高いため、明の大砲の弾は城壁を飛び越えてしまった。

そこで連合軍は丘を包囲し、飢えと渇きで守備隊が倒れるのを待った。彼らは火攻めで突入しようともした。柴の束と盾を持たせた兵を前進させ、城壁のふもとに柴を積み上げさせたのである。朝鮮の指揮官の李時言と成允文は、27日(2月2日)に二度目の大規模な攻撃があったと報告し、火攻めのための柴を運んだ慶州と蔚山の朝鮮兵はほぼ全員が殺され、安東をはじめ6、7の郡の民は軍の兵糧を運ぶ負担で疲れ果てたと書いた。

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中級

飢え、渇き、寒さ

城は兵糧を運び込む前に包囲されていた。ある明の将校は朝鮮の朝廷に、城内には食糧が乏しく、水も尽きたと語った。29日に連合軍の陣営を訪れた柳成龍は『懲毖録』に、島山には水がなく、日本兵は毎晩城を抜け出していたと書いている。楊鎬の命で金応瑞が城外の泉のそばに伏兵を置き、数夜のうちに100人余りを捕らえたが、みな飢えでやせ衰え、かろうじて息をしている状態だった。

捕虜たちは楊鎬に、守備隊は3000に満たず、大砲や矢で殺された者や飢えと渇きで力尽きた者の死体があちこちに転がっており、200人の鉄砲兵はそれぞれ1日に生米を1合(わずかな量)ずつ受け取っているだけだと語った。『韓国民族文化大百科事典』は、守備兵が馬の血や尿を飲み、紙や壁土を煮て食べたと付け加えており、日本語版ウィキペディアは同事典を引いてこれを繰り返している。これらの話は後世の編纂物や証言に由来し、すべてを確かめることはできない。いくつもの記述が激しい飢えと渇きを描いているが、その規模や個々の細部は不確かなままである。

加藤自身についてのある話が、1598年旧暦3月に朝鮮の朝廷に届いた。西生浦で捕虜になっていた朝鮮の水夫によれば、加藤は50人とともに城に入り、そのうち20人は途中で殺された。そして事態が絶望的になると、彼は二度自害しようとして家臣たちに止められたという。これは伝聞であり、本稿が用いた日本側の記述には見られない。日本語版ウィキペディアは日本側の史料を引いて、加藤は約500人とともに城に入ったとしている。

包囲する側も苦しんだ。『宣祖修正実録』によれば、大雨の後にひどい寒さが続き、兵は疲れ果てて凍傷にかかり、多くの馬が凍え死んだ。『懲毖録』は冬の雨の中で兵の手足が寒さでひび割れたと描き、柳成龍は東風が雨をもたらすなか兵が野営していると報告した。連合軍は包囲をすぐに終えられると見込んでおり、長期戦の備えがなかった。ある朝鮮の官僚はのちに、最初の突撃で明兵が装備の多くを落としてしまい、必要なときに攻城具がなかったと語った。

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中級

陸と海からの救援、そして大きな犠牲を伴った撤退

城が持ちこたえているあいだに、日本のほかの指揮官たちは西生浦に集まった。日本側の記述によれば、山口宗永(小早川秀秋の代理)、黒田長政、毛利秀元、蜂須賀家政、鍋島直茂父子、加藤嘉明が次々に到着し、長宗我部元親を含む船団が海から来た。朝鮮の報告はすでに、40隻を超える日本の船が太和江の下流に停泊していることを伝えており、楊鎬は上陸を阻むため、浙江の歩兵2000と騎兵1000を岸に配置した。

交渉も行われた。楊鎬の上奏文と朝鮮の報告によれば、加藤は通訳を通じて降伏を申し出た、あるいは、かつての小西のように退去を許されるなら撤退すると申し出たが、楊鎬はこれを拒んだ。日本側の記述では、連合軍が使者を送って降伏を求め、加藤は交渉を時間稼ぎに使ったとされる。史料が一致しているのは、書状が行き交ったこと、そして合意には至らなかったことだけである。

旧暦1月2日(2月7日)、日本軍が多くの旗を掲げて城と向かい合う遠くの丘に現れ、3日には下りてきて小競り合いをした。その夜、連合軍は四方から松明の明かりで最後の総攻撃をかけ、真夜中から夜明けまで続けた。李時言と成允文によれば、日本軍の射撃は雨のように降り注ぎ、損害はきわめて大きく、城壁にたどり着いた者は一人もいなかった。

4日(2月9日)、楊鎬と麻貴は撤退を決めた。歩兵を先に出発させて騎兵が後衛を務め、残していく物資と火薬は焼かれた。箭灘の浅瀬を守っていた浙江兵には知らされず、丘から下りてきた日本軍に捕捉された。逃れられた歩兵はわずかで、多くは鎧を捨てて逃げた。李如梅付きの朝鮮の接伴使は、日本軍が30里にわたって追撃したこと、明の死者は「3000ともいい、4000ともいう」こと、そして退却する兵が北へ向かう途中で村々を略奪し、村の女性を犯し、人を殺しさえしたことを報告した。楊鎬は漢城へ退き、麻貴と権慄が慶州を守ることになった。

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中級

紙の上の勝利:楊鎬の報告と弾劾

漢城に最初に届いたのは、華々しい勝利を伝える知らせだった。使者たちは数百の首を取ったことや、加藤が「土窟」に閉じ込められていることを語り、宣祖は明の指揮官たちに勝利の礼を述べた。しかし、楊鎬付きの朝鮮の官僚・李徳馨は、楊鎬が城が落ちるまで首を数えることを許さず、連合軍自身の損害を報告しないよう彼に命じたと報告した。

撤退の後、楊鎬は皇帝に上奏文を送り、この作戦を成功目前の戦いとして描いた。彼の書くところでは、自軍は40里にわたって日本軍の陣地を攻め落とし、焼死・溺死させた者は数えきれず、斬首あるいは捕虜にした者は1300余りに上った。加藤は捕らえられる寸前だったが、数万の援軍が到着したため、疲れた兵を守るために退いたのだという。皇帝の返答は彼の勇気と、多くの首を挙げた戦果を称えたが、なぜ戦争を終わらせる計画を立てるのではなく辞職を申し出るのかと問うた。朝鮮自身の報告はそれほど好意的ではなかった。李徳馨は包囲中の明の死者を700近く、負傷者を3000余りと数えており、これには撤退の際に箭灘で失われた兵は含まれていなかった。

1598年、朝鮮で幕僚を務めていた明の兵部の官僚・丁応泰が楊鎬を弾劾した。清の下で編纂された『明史』は、軍の名簿では2万近くが死んでいたのに楊鎬はそれを隠して100人ほどと報告し、丁応泰は28の罪状を挙げたとする。宣祖は29の死罪に当たる罪状と述べている。ソウルに伝わったほかの罪状は、楊鎬が加藤と和議を結んだこと、そして朝鮮に城塞の建設を勧めたことだった。楊鎬は罷免されて万世徳と交代させられ、罷免の知らせは旧暦6月23日(1598年7月25日)までにはソウルに届いていた。

朝鮮の朝廷は彼を擁護した。官僚たちは、戦いの功をめぐる明の北兵と南兵の争いのせいだとし、王は使節の崔天健、次いで李元翼を北京に送って楊鎬のために弁明させた。『懲毖録』によれば、楊鎬が去るとき、王は涙を流して彼を見送った。すると丁応泰は朝鮮の王自身を日本と通じていると告発し、朝鮮の朝廷は今度はその嫌疑に答えなければならなくなった。楊鎬はのちに官界に復帰し、1619年にサルフでヌルハチの率いる女真に敗れた明軍を指揮した。彼は1629年に処刑された。

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中級

第二次包囲:1598年10月~11月

1598年の秋、明の総督・邢玠は、より大きな計画で再び攻勢をかけた。四つの同時攻撃である。麻貴が東の蔚山を、董一元が中央の泗川を、劉綎が西の順天を攻め、水軍の提督・陳璘が李舜臣の朝鮮艦隊とともに海から攻めることになっていた。実は豊臣秀吉は1598年9月18日に死んでいたが、その死は秘密にされていた。

『韓国民族文化大百科事典』によれば、麻貴は明軍約2万4000を、金応瑞は朝鮮軍5500を率いて旧暦9月21日(10月20日)に慶州を出発し、22日(10月21日)に城への攻撃を始めた。日本語版ウィキペディアがまとめた朝鮮の報告では、城での戦闘は20日に始まっている。金応瑞はまず東萊付近の日本軍を討って蔚山と釜山の間の道を断ち、明軍は温井(温泉)の日本軍の拠点を掃討して、1000人を超える朝鮮人の捕虜を連れ出した。明のある使者は、麻貴が川向こうの日本軍の大きな穀物倉を焼き、おそらくこれらの捕虜を含む1100余りの朝鮮人が彼の陣に来たと報告した。

今度は加藤の備えはできていた。同じ使者は、日本軍が堀を掘って海水を引き入れたため誰も渡れず、城は落とせそうにないと語った。日本側の記述によれば、加藤は兵を城内にとどめ、誘い出されることを拒んだ。22日の夜には日本軍の夜襲で明兵5人が殺された。まもなく麻貴付きの接伴使は、内城から退いた後、司令官は戦意を失い、慶州へ引き揚げたがっていると報告した。

旧暦10月1日(10月30日)に泗川で董一元が大敗したという知らせが、決定打となった。4日(11月2日)、麻貴の歩兵は荷駄と武器をすべて携えて撤退し、慶州には騎兵だけが残った。『韓国民族文化大百科事典』は蔚山での戦闘を旧暦9月22~25日とするが、朝鮮の報告は、軍が旧暦10月初めまで城の近くにとどまっていたことを示している。加藤は、日本軍が朝鮮から撤退するなかで、旧暦11月18日(1598年12月15日)に城を焼いて去り、その後麻貴の軍が城に入った。

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中級

同じころの世界(1598年)

包囲が始まる2週間足らず前の1598年1月17日、ロシアのツァーリ、フョードル1世が跡継ぎのないまま死んだ。これにより、イヴァン雷帝につながるリューリク朝のツァーリの系統は途絶えた。義兄のボリス・ゴドゥノフがツァーリとなり、ロシアは動乱時代と呼ばれる危機へと向かっていった。

フランスでは、国王アンリ4世が1598年4月にナントの勅令に署名し、プロテスタントのユグノーに大幅な権利を認めて、フランスの宗教戦争の終結に貢献した。5月にはフランスとスペインがヴェルヴァンで和平を結び、9月にはスペイン国王フェリペ2世が71歳で死去した。

これらの出来事はどれも蔚山とは関係がない。並べてみてわかるのは、朝鮮での戦争の最後の年である1598年が、ほかの場所でも終わりと和解の年だったということだけである。

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中級

今日の蔚山倭城:鶴城公園

戦後、焼けた城はすぐに放棄されたわけではなかった。韓国語版ウィキペディアによれば、朝鮮水軍がしばらく城跡を使い、1624年からは軍船を造る造船所が置かれた。『韓国民族文化大百科事典』によれば、この造船所は1654年に開雲浦へ移された。朝鮮王朝の後期には丘は鶴城(「鶴の城」)と呼ばれるようになり、その名がのちに城そのものの名ともなった。

1913年、地元の名士キム・ホンジョがこの丘を買い取り、クロマツや桜、梅を植えて公園にし始めた。公園はのちに蔚山の地方自治体の手に移った。現在は鶴城公園として、市内で最もよく知られた公園の一つである。韓国語版ウィキペディアによれば、公園のために造られた園路や花壇などの施設によって、北西部の石垣と下段の曲輪の多くが失われた。

城の文化財としての指定は何度か変わっている。日本の統治下で史跡に指定され、1963年に蔚山鶴城の名で大韓民国の史跡第9号となり、1997年にほかの倭城とともに国の指定を解除され、1997年10月30日に蔚山倭城の名で蔚山広域市文化財資料第7号に指定された。1986年、2011年、2015年の発掘によって、曲輪、平地部の石垣の一部、東門の位置が確かめられている。

今日でも山頂の本丸の石垣を見ることができるが、かつて船がつながれた川岸は住宅の下にあり、河口ははるか東へ移っている。加藤清正がのちに城を築いた熊本には、蔚山町という路面電車の停留所があり、その名は蔚山、あるいはそこから連れて来られた人々に由来するといわれる。

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上級

兵と死者を数える:史料は何を語るか

連合軍はふつう4万~6万とされる。『明史』は三つの部隊に分かれた明軍4万を挙げ、日本語版ウィキペディアが従う日本の参謀本部の戦史は、朝鮮軍1万2500を含む約5万6900を挙げる。韓国語版ウィキペディアは明軍4万と朝鮮軍1万1500、英語版ウィキペディアは5万とする。『韓国民族文化大百科事典』は明軍4万4000と権慄の兵5万余りとしており、これはほかよりはるかに大きな数字である。包囲の初めに楊鎬と麻貴は、実際に到着した朝鮮兵は3500にすぎないと述べていた。

守備隊の推定はさらにばらつく。ある明の将校は朝鮮の朝廷に城内の日本兵は1万ほどだと語り、日本語版ウィキペディアが引く日本側の記述『清正高麗陣覚書』も1万とする。李徳馨と権慄は2000人ほどいるようだと推測し、捕虜は楊鎬に3000に満たないと語った。後世の日本の著作は2万あるいは2万3000とするが、日本語版ウィキペディアはこれを多すぎると見ている。落伍した兵や人夫が城内に追い込まれるにつれて、城内の人数が変わった可能性もある。

最もよく記録されているのは、包囲中の連合軍の損害である。旧暦1月6日付の報告にある李徳馨の集計は、明の死者700近く、負傷者3000余りとし、撤退中の損害はまだ数えられていないとしている。ある接伴使は、撤退中の明の死者が3000とも4000ともいう噂を報告した。英語版ウィキペディアは、明の史料によるとして死者1621、負傷者2908とする。これに対して、はるかに大きな数字もある。『明史』の「2万近く」と、浅野家の文書が城の周りで数えたとする遺体1万386である。朝鮮の指揮官たちは慶州と蔚山の兵に非常に大きな損害が出たと述べているが、朝鮮側の損害の総数は、本稿が用いた史料には記されていない。

日本側の損害は不確かである。連合軍の報告は、初日に500余り、翌日に800の首を取ったと主張し、楊鎬によれば斬首または捕虜1300余り、李如梅の部隊では約690とされた。『韓国民族文化大百科事典』は首の数を661とする。これらは功を競うなかでなされた主張であり、確かめることはできない。城内で飢え、渇き、寒さのために死んだ日本兵の数はわかっていない。

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上級

史料とその問題点

わかっていることの大半は、『宣祖実録』に収められた朝鮮の報告による。権慄からの急報、明の指揮官に付けられた官僚たち(楊鎬付きの李徳馨、麻貴付きの張雲翼、李如梅付きの李徳悦)や道の指揮官たちからの急報、そして朝廷で問いただされた明の使者たちの話である。これらは数日から数週間のうちに書かれたが、書き手はそれぞれ戦場の一部しか見ておらず、記事の冒頭の日付は記録した日か朝廷で協議した日であって、記された出来事の日付とは限らない。楊鎬自身の皇帝への上奏文も同じ記録に収められている。包囲の陣を訪れた柳成龍は、『懲毖録』に短い記述を残している。

清朝の下で編纂された『明史』は、楊鎬にきわめて批判的な記述をしており、同時代の朝鮮の報告と照らし合わせるべきである。楊鎬が、友人の李如梅に功を帰すために、戦果を挙げていた陳寅の攻撃を中止させたという話や、2万の死者という数字は、それらの報告には見られない。楊鎬を敬っていた朝鮮の官僚たちは、明の派閥間の争いを責め、誰が最もよく戦ったかについても異なる説明をした。李徳馨は王に、兵たちは初日の勝利の後に楊鎬が退却の合図を出したことを責めていると語った。

日本側の史料には、日本の参考図書にまとめられた諸家の記録や後世の軍記がある。中にはきわめて信頼性の低いものもある。ある後世の年代記は連合軍を80万とし、蔚山にいなかった小早川秀秋をそこにいたことにしている。城内の指揮官の一人・太田一吉に仕えた医師の僧・慶念は、1597~1598年の作戦の日記(『朝鮮日々記』)をつけた。日本語版ウィキペディアはこれに軽く触れているが、本稿はその蔚山に関する部分を確認しておらず、これには依拠していない。

日付にさえ注意が要る。朝鮮、明、日本はいずれも太陰太陽暦を用いていたが、常に同じ暦ではなかった。朝鮮の記録は最初の戦闘を旧暦12月22日または23日とし、日本側の記述は22日とする。日本語版ウィキペディアはこれを1598年1月29日と換算しており、これは朝鮮の23日と同じ日である。本稿は、朝鮮の日付を韓国天文研究院の換算表で換算したものを用いている。英語版ウィキペディアの終了日2月19日は、朝鮮の記録にある旧暦1月4日、すなわち2月9日と一致しない。

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上級

包囲戦から見る倭城での戦いと海の役割

蔚山は、日本の沿岸の城を力攻めで落とすことがいかに難しかったかを示している。急な丘の上に築かれ、幾重もの曲輪、傾斜した石垣、鉄砲兵が撃ち下ろせる建物を備えたこれらの城は、日本軍が多数擁していた鉄砲兵による防御に適していた。朝鮮の観察者たちは、連合軍の大砲は高所にある城に当たらなかったこと、柴を運ぶ兵は城壁にたどり着く前に撃ち倒されたこと、最初に城壁の上に登った兵士たちは戻ってこなかったことを報告している。未完成であっても、城は持ちこたえたのである。

それはまた、こうした城の弱点も示している。蔚山には井戸がなく、兵糧も運び込まれていなかったため、数日のうちに守備隊は飢え、必死に水を求めた。韓国語版ウィキペディアの城の記事は、加藤がこのことを忘れず、のちに多くの井戸を備えた熊本城を築いたとしているが、本稿が用いた史料はこの関連を直接には裏づけていない。1598年の秋には、城が完成し、海水を引いた堀が掘られ、守備隊も備えを整えていたため、連合軍はまったく攻めあぐねた。

何よりも、蔚山は海に頼っていた。船は城の真下につなぐことができた。包囲中、西生浦からの日本の船は毎日水路でやって来て、明の報告はそれを追い返したとしているが、日本の船はなおも川に集まり、援軍は陸と海から同時にやって来た。連合軍は陸上で丘を包囲できても、日本軍が船を城に寄せるのを止めることはできなかった。朝鮮水軍は1597年に漆川梁でほぼ壊滅していたのである。結局、日本が撤退を決めたとき、蔚山、泗川、順天の城はいずれもなお日本軍の手にあり、この戦争最後の大きな戦いは海上の露梁で戦われた。

包囲戦は日本にも影響を及ぼした。日本側の記述によれば、蔚山に危機感を抱いた13人の指揮官が、蔚山、順天、梁山を放棄するよう秀吉に提案したが、秀吉はこれを退けた。秀吉の目付たちは、蜂須賀家政と黒田長政が救援の際の前哨戦で戦わなかったと報告し、二人は叱責されて領国での謹慎を命じられた。この処分は秀吉の死後、1599年に取り消された。日本語版ウィキペディアが引くある解釈は、これによって加藤ら指揮官たちが、目付の一人の縁者である石田三成に抱いた恨みを、1600年の関ヶ原の戦いにつながる分裂と結びつけている。

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重要なポイント

倭城
1593年と1597年に朝鮮の沿岸に築かれた日本式の城で、石垣、幾重もの曲輪、港を備えていた。蔚山は1597年の新しい城の中で最も東にあった。
外郭を奪っても城は落ちない
最初の2日間で連合軍は陣地を焼き、外側の防御を突破したが、山頂の石の城はあらゆる攻撃に耐えた。
武器としての飢えと渇き
未完成の城には井戸がなく食糧も乏しかったため、連合軍は兵糧攻めを試みた。救援が来たとき、守備隊は崩壊寸前だった。
命綱としての海
城のふもとの船と西生浦の拠点が、蔚山と日本軍のほかの部隊を結んでいた。連合軍は陸上で城を包囲したが、日本の船を寄せつけないことはできなかった。
冬の戦い
雨、霜、風は、包囲される側だけでなく包囲する側も消耗させ、長い包囲の負担と犠牲を非常に大きくした。
報告と政治
楊鎬はこの作戦を勝利目前の戦いとして示した。対立する明の官僚たちは彼が損害を隠したと告発し、朝鮮の朝廷は彼を擁護した。
暦
記録の日付は太陰太陽暦に基づいている。韓国天文研究院の換算表で換算すると、第一次包囲は1598年1月28日または29日から2月9日までとなる。

記録

  1. 1597年 — 夏~秋:日本の第二次侵攻で、日本軍は南原を落として全羅道を蹂躙するが、10月に稷山で阻まれ、南岸へ退く。
  2. 1597年 — 1597年末:加藤清正の縄張りに従って、日本軍が蔚山に新しい城を築く。
  3. 1598年 — 1月28日または29日(1597年旧暦12月22日または23日):明・朝鮮軍が蔚山の城外の陣地を攻め、守備隊は城内へ退く。
  4. 1598年 — 1月30日~2月8日:城への攻撃が繰り返し失敗し、包囲は雨と寒さの中で長引く。
  5. 1598年 — 2月9日(旧暦1月4日):日本の援軍が到着し、連合軍は大きな損害を出しながら撤退する。
  6. 1598年 — 3月22日(旧暦2月16日):楊鎬の皇帝への上奏文が『宣祖実録』に記録される。
  7. 1598年 — 7月25日(旧暦6月23日)までに:丁応泰の弾劾によって楊鎬が罷免されたという知らせがソウルに届く。
  8. 1598年 — 9月18日:豊臣秀吉が死去する。
  9. 1598年 — 10月21日ごろ~11月2日:麻貴による第二次蔚山城の包囲が失敗する。
  10. 1598年 — 12月15日(旧暦11月18日):加藤清正が城を焼いて蔚山を去る。
  11. 1913年 — キム・ホンジョが丘を買い取り、のちの鶴城公園を整備する。
  12. 1963年 — 城が蔚山鶴城の名で史跡第9号に指定される。
  13. 1997年 — 国の指定を解除され、蔚山倭城の名で蔚山広域市文化財資料第7号に指定される。

用語集

倭城(わじょう、ウェソン)
文禄・慶長の役のあいだに朝鮮に築かれた日本式の城。韓国ではウェソン(倭城)と呼ばれる。
島山(トサン)
「島の山」。連合軍が蔚山の城の丘につけた名で、丘は数方向を水に囲まれていた。
本丸
日本の城で最も高い位置にある中心の曲輪で、大将がいた場所。
経理(けいり)
朝鮮での戦争遂行を統括した明の文官(經理)。楊鎬がこの職にあった。
提督(ていとく)
明の野戦軍の司令官(提督)。1597~1598年には麻貴がこの職にあった。
都元帥(トウォンス)
戦時の朝鮮軍の総司令官。蔚山では権慄がこの職にあった。
接伴使(チョッパンサ)
明の指揮官に付けられて世話をし、朝廷に報告した朝鮮の官僚。楊鎬に付けられた李徳馨がその例。
四路並進
1598年秋の連合軍の計画。陸から蔚山、泗川、順天を、海から順天を同時に攻めるもの。
里(り)
伝統的な距離の単位。明と朝鮮の用法では約0.5キロメートル。
太陰太陽暦
朝鮮、明、日本の暦。月は月の満ち欠けに従い、ときどき閏月が加えられる。その日付は西暦(グレゴリオ暦)に換算しなければならない。

よくある質問

連合軍は蔚山城を落としたのですか。

いいえ。最初の数日で陣地と外側の土塁は奪いましたが、第一次・第二次のどちらの包囲でも、山頂の石の城を落とすことはできませんでした。加藤がそこを去ったのは、1598年12月に日本が朝鮮から撤退したときでした。

守備兵が飢えていたのに、なぜ包囲は失敗したのですか。

城壁は力攻めで落とすには高すぎ、守りも固く、冬の天候が包囲する側を消耗させ、飢えが守備隊にとどめを刺す前に、陸と海から日本の援軍が到着したからです。

楊鎬は戦いについてうそをついたのですか。

彼はこの戦いを勝利目前のものとして報告し、朝鮮の記録によれば、包囲中に損害を報告させませんでした。彼は損害を隠したとして弾劾され、罷免されました。朝鮮の朝廷は彼を擁護しましたが、残された報告は損害について一致しておらず、損害の総数を確実に定めることはできません。

2月19日ですか、2月9日ですか。

朝鮮の記録は、連合軍が1598年旧暦1月4日に撤退したとしており、これは西暦では2月9日にあたります。一部の英語の資料にある2月19日は、この日付と一致しません。

城が島山や鶴城と呼ばれることがあるのはなぜですか。

島山(「島の山」)は、1598年に連合軍がこの丘につけた名です。鶴城(「鶴の城」)は後の時代の名で、今日の正式な名称は蔚山倭城です。

城を訪れることはできますか。

はい。蔚山市中区の鶴城公園の中にあります。本丸の石垣の一部が残っていますが、ほかの部分の多くは公園が造られたときに損なわれました。

出典・参考文献

  1. 김석희, 울산전투 (蔚山戰鬪). Encyclopedia of Korean Culture (Academy of Korean Studies)
  2. 나동욱, 울산왜성 (蔚山倭城). Encyclopedia of Korean Culture (Academy of Korean Studies)
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上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。

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