戦争

第一次晋州城の戦い(1592年)

진주대첩 晉州大捷 (Jinju daecheop, “great victory at Jinju”); also 제1차 진주성 전투; Japanese 第一次晋州城攻防戦

1592年

初出 2026年10月11日 · 最終更新 2026年10月11日 · 編集 テラ・スクリプタ

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ひとことで

1592年11月(旧暦10月)、朝鮮南部の晋州城は、牧使・金時敏が率いるおよそ3000~3800人の守備兵が、城外で活動する官軍と義兵の支援を受けながら、はるかに大きな日本軍に約6日間持ちこたえて撤退に追い込み、朝鮮の穀倉である全羅道への重要な陸路の入口を、当面のあいだ朝鮮の手に残した。

最初はやさしい入門です。下に進むほど詳しい説明や研究内容を読めます。

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子ども向け

400年以上前の1592年、日本の大軍が朝鮮に上陸しました。日本軍はとても速く進み、およそ3週間で都の漢陽(今のソウル)を占領しました。王は遠い北へ逃げなければなりませんでした。しばらくのあいだ、国じゅうが取られてしまうかのように見えました。

でも、町を占領することと、国じゅうを治めることは同じではありません。日本の兵士たちは毎日食べ物が必要で、その多くは道や川を通って運ばなければなりませんでした。南西には、お米がたくさんとれる全羅道という地方があり、日本軍はまだそこを取れていませんでした。そこへ入る大きな道の一つが、南江という川のそばにある、城壁に囲まれた晋州という町を通っていました。

秋の終わり、日本の大軍が晋州をとりかこみました。城の中には、金時敏(キム・シミン)という地方の役人が率いる数千人の兵士と、町の人たちしかいませんでした。金時敏は、女の人やお年寄りに男の服を着せて、城の中の軍が大きく見えるようにしました。敵が長い竹のはしごをのぼってくると、守る人たちは大砲や矢をうち、石を投げ、ぐらぐらにえた湯を上から注ぎました。

城の外でも、「義兵」とよばれる、自分から進んで戦う人たちが助けました。夜になると、その一部が近くの山にのぼってたいまつをともし、角笛をふき、大軍が来るぞとさけびました。それで城を守る人たちは勇気がわき、攻める側は心配になりました。食べ物をさがしに出た日本兵をおそった人たちもいました。

6日ほどたつと、日本軍はあきらめて引きあげていきました。悲しいことに、金時敏はおでこに銃弾を受け、その傷がもとで亡くなりました。次の年の夏、もっと大きな日本軍がもどってきて晋州を占領しました。それでも韓国の人たちは今も、最初の戦いを、あの戦争で最も大きな三つの勝利の一つとして覚えています。

ひと目でわかる

何が
日本による最初の朝鮮侵攻(文禄・慶長の役)の際に日本軍が晋州城を包囲した戦い。朝鮮側の勝利に終わった
いつ
朝鮮の暦で1592年旧暦10月5日~10日、西暦(グレゴリオ暦)では1592年11月8日~13日(日本語版・韓国語版ウィキペディアは包囲の開始を4日とする)
どこで
南江のほとりの晋州城(矗石城とも呼ばれる)。慶尚右道の主要な町で、現在の慶尚南道晋州
守備側
晋州牧使・金時敏と、成守慶、李光岳、崔徳良。城外では、金誠一の調整のもと、地元の軍勢と義兵(郭再祐が派遣した部隊や、崔慶会・任啓英が率いる全羅道の義勇兵など)
攻撃側
現代の記述に名が挙がる日本側の指揮官は、細川(当時は長岡)忠興、長谷川秀一、木村重茲、加藤光泰など
兵力
守備兵:「三千余」(『宣祖修正実録』)~約3800人(『韓国民族文化大百科事典』)。攻撃側:三手に分かれた1万余(金誠一の報告)、「数万」(『宣祖修正実録』)、2万~3万(現代の百科事典)
結果
日本軍は包囲を解いた。金時敏は額に被弾し、のちにその傷で死去した。晋州は1593年の第二次包囲まで朝鮮の手にとどまった
記憶
閑山島海戦(1592年)、幸州山城の戦い(1593年)とともに、文禄・慶長の役(壬辰倭乱)の「三大捷」の一つとされる

地図の上で

同じころ、世界の別の場所では

このライブラリの記事のうち、ほぼ同じ時期に世界の遠く離れた場所で起きたことです。

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第一次晋州城の戦いとは何か

第一次晋州城の戦いは、1592年の終わり、文禄・慶長の役(壬辰戦争)の最初の年に、朝鮮南東部の城郭都市をめぐって行われた戦いである。この戦争は、日本の豊臣秀吉が大軍を朝鮮に送り込んだことで始まった。このころ日本軍はすでに都と平壌を占領していたが、地方に対する支配は弱かった。1592年旧暦10月、釜山・金海・昌原周辺の守備隊から集められた日本軍が、慶尚道の西半分の筆頭の町である晋州へ進軍した。朝鮮の記録はこの西半分を慶尚右道と呼ぶ。

城内では、晋州牧使に昇進したばかりの金時敏が、数千の兵と町の人々を指揮した。旧暦10月5日から10日(西暦1592年11月8日~13日)までの約6日間、攻撃側は丘の上から鉄砲を撃ち、竹の防壁、攻城用のはしご、三層の攻城櫓を築き、最後には大規模な夜襲をかけた。守備側は大砲、矢、火薬を包んだ火の束、石、熱湯で応戦した。最終日、日本軍は戦死者を焼き、包囲を解いて撤退した。

勝利には代償があった。最後の総攻撃のさなか、金時敏は額に銃弾を受け、しばらく後にその傷がもとで亡くなった。この包囲戦は戦争全体を理解するうえでも役に立つ。数か月のうちに日本軍がどこまで進んだか、そしてその進撃を土地や道路や収穫の支配に変えることがいかに難しかったか、という二つのことを同時に示しているからである。

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晋州が重要だった理由:全羅道への入口

晋州は数ある町の一つにとどまらなかった。慶尚右道の大邑(テウプ)であり、城壁を備えた行政・軍事の中心で、西の全羅道へ通じる陸路の上にあった。城は南江のほとりに立っていた。北側の堀はいくつかの池をつないだもので、戦争前夜の1591年には慶尚道観察使の金睟が城壁を東へ広げて外城を築いていた。

全羅道が重要だったのは、米が豊かなうえ、第一次侵攻の間、北東の縁にあたる熊峙と梨峙の峠では激しい戦いがあったものの、首府の全州や主要な米作地帯を含む道の大部分が日本軍の支配の外にとどまったからである。また全羅道は、李舜臣の全羅左水軍や李億祺の全羅右水軍など、海上で戦い続けていた朝鮮水軍の根拠地でもあった。『韓国民族文化大百科事典』は晋州を、軍糧を供給する地域である全羅道を守る入口と説明しており、だからこそ双方がこの町をめぐって激しく争ったのである。

晋州は拠点としても重要だった。『韓国民族文化大百科事典』によれば、日本軍は慶尚右道の主力が晋州に集まっていることを知っていた。包囲戦の1か月後、朝鮮の備辺司は「嶺南(慶尚道)の大邑のうち、ただ晋州だけが無事である」と述べ、町が再び無防備にならないよう、その指揮官を他所へ移すべきではないと主張した。

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やさしい

1592年11月の6日間

包囲に先立ち、日本軍は昌原付近で慶尚右兵使の柳崇仁を破った。日本軍が晋州に迫ると、柳崇仁は城壁の下まで馬を走らせ、入城を求めた。金時敏は、城内に指揮官が二人いれば指揮系統が割れることを恐れて門を閉ざしたまま、城外から町を支援するよう求めた。柳崇仁は引き返し、敵と遭遇して、泗川県監の鄭得悦、将校の朱大清とともに戦死した。『宣祖修正実録』によれば、郭再祐はのちに、金時敏のこの判断こそ城が守られた理由だとたたえた。

旧暦10月5日(西暦11月8日)、日本軍が晋州東方の馬峴の尾根に現れ、翌日から攻撃が始まった。道内で最高位の朝鮮の官僚であった金誠一は、敵が三手に分かれて来たと報告した。金時敏は老人や女性に男装させて守備兵を多く見せ、兵には矢を無駄にしないよう命じた。7日、攻撃側は間に木の板を挟んだ竹の盾の列の陰から、喊声を上げ発砲しながら前進し、日が暮れてからも再び攻撃した。

『宣祖修正実録』は、日本軍が幅の広い竹のはしごを数千も作り、城内を見下ろすための三層の木造の櫓を築き、竹や松で作って土を詰めた防壁を積み上げた様子を描いている。金時敏はこれに備えていた。守備兵は大型の砲・玄字銃筒を櫓に撃ち込み、わらで包んだ火薬の束で防壁を焼き、はしごを打ち壊し、よじ登る敵に熱湯を浴びせ大石を落とした。

決定的な夜は10日(西暦11月13日)に訪れた。日本軍は東側と北側を攻め、金誠一の報告によれば西門も攻めた。城壁の下を掘ろうとし、火を放って、その煙が空を覆った。防戦を指揮していた金時敏は額を撃たれた。近隣の昆陽の郡守・李光岳が指揮を引き継ぎ、華やかに装った騎馬の指揮官を射落とした。別の危うい箇所では、将校の崔徳良が逃げかけた兵を立て直した。午後までに日本軍は戦死者と城外の家約1000軒を焼き、包囲を解いて去っていった。

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城外からの援軍:官軍と義兵

晋州は守備兵だけで守られたのではない。抵抗を組織するため道に派遣されていた金誠一は、四方から町に近づく部隊を送った。東からは三嘉の義兵将・尹鐸、宜寧の郭再祐、草渓の鄭彦忠、北からは陜川の金俊民、西からは崔慶会の全羅道の義兵、南からは固城の趙凝道と伏兵将・鄭惟敬である。『宣祖修正実録』はさらに、金誠一が全羅道に救援を求め、崔慶会と任啓英が駆けつけたと記す。

その成果はまちまちであり、記録もそれを隠していない。尹鐸と鄭彦忠は約300人を率いていたが、馬峴で敵とぶつかって潰走した。報告は郭再祐本人が晋州にいたとはしていない。彼は先鋒将の沈大昇を町の北の丘に送り、その兵がたいまつをともし、角笛を吹き、銃を撃って、全羅道の1万余の兵と「紅衣将軍」(郭再祐のあだ名)が明朝到着すると守備側に叫び、城内の人々も叫び返したという。金俊民は約80人で丹渓県の役所を焼いていた日本の一団を追い払い、趙凝道の兵は南江から約10里(数キロメートル)の地点に陣を取って、遠くから存在を示し、散らばった略奪者を討ち取った。

『宣祖修正実録』は救援軍の役割を慎重にまとめている。彼らは要害に陣を構え、夜には近くの峰に登って城内の人々とともに火をともし太鼓を打ったが、「正面から攻撃する勇気はなかった」。日本軍が分かれて近隣の郡を略奪すると、救援軍はこれを待ち伏せした。言い換えれば、その価値は劇的な救出よりも、守備側の士気を保ち、包囲軍の背後を脅かし、食糧の徴発を危険なものにしたことにあった。

郭再祐は数か月にわたってこうした戦いを続けていた。彼は旧暦4月22日(西暦1592年6月1日)に宜寧で最初期の義兵の一つを挙げた。旧暦5月後半(西暦7月初め)には、鼎巌津で南江を渡ろうとする日本軍を待ち伏せして全羅道への経路の一つを塞ぐ助けとなり、川で日本軍の物資を運ぶ船を襲った。こうした義勇兵と政府の協力は当然のものではなかった。開戦当初、慶尚道観察使の金睟は郭再祐の部隊を反乱者と決めつけた。それに対し晋州では、城内の官軍と城外の義兵が一つの計画の一部として戦ったのである。

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金時敏:判官から晋州の守将へ

金時敏は1554年に生まれ、1578年に武科に合格した。1583年には、北方辺境で起きた女真の首領・尼湯介の反乱に対し、鄭彦信の配下として従軍した。訓練院の下級将校だったときには武器と訓練について提案したが採用されず、職を辞した。1591年、晋州の判官(副長官)となった。

1592年に戦争が始まると、金時敏は晋州牧使の李璥とともに智異山へ退いた。李璥が病死すると、金時敏は金誠一の命によってその職務を代行した。彼は民心を落ち着かせ、避難民を呼び戻し、城壁を修理し、兵を組織した。夏の間、昆陽郡守の李光岳や義兵将の李達、郭再祐とともに戦って固城や昌原の奪回に貢献し、居昌近くの沙郎巌で日本軍を破った。旧暦8月には牧使に昇進した。『韓国民族文化大百科事典』によれば、彼はその後、日本の方法をまねて硝石約500斤と銃筒約70挺を作り、選り抜きの兵にその扱いを訓練した。

朝廷は彼を慶尚右道の兵使(兵馬節度使)に任じたが、『宣祖修正実録』の言葉によれば、彼は「まもなく死んだ」。任命がいつ行われ、いつ届いたかについては史料が異なる。『韓国民族文化大百科事典』は旧暦9月の鎮海での勝利の後にこれに触れる一方、彼をその職に任じる命令が彼の葬列に届いたとも述べている。死去の日付にも異説があり、『韓国民族文化大百科事典』は戦いの数日後とするが、ほかの記述はもっと後の日付を挙げる。1604年、彼は死後に宣武功臣二等に録され、のちに忠武の諡号を贈られた。これは李舜臣に贈られたのと同じ諡号であるため、二人が混同されることがある。

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中級

速い進撃、弱い掌握

晋州の意味は、日本軍が1592年に直面したより大きな問題を背景にすると最もよく理解できる。都を取った後、日本軍は各道を軍団ごとに割り振った。たとえば第六軍は全羅道を征服し、第七軍は慶尚道を固める、といった具合である。主要な街道に沿って進むことと、その周囲の土地を保持することは別のことだった。どの守備隊にも食糧が必要で、伝令も補給隊も敵対的な土地を通らねばならず、夏からは朝鮮水軍のために西海岸沿いの海上補給は現実的でなくなった。

『宣祖修正実録』のある記事は、日本軍が慶尚道をどう保持しようとしたかを伝える。彼らは守備隊の連鎖を設けた。東萊から玄風までの左路に沿って10の町、熊川から聞慶までの右路に沿って12の町である。数千人ずつを置いた沿岸のいくつかの拠点を除けば、一つの守備隊が約1000人を超えることはなく、慶尚道に残された兵力全体は4万~5万人にすぎないとされた。数を多く見せるため、彼らは昼夜を問わず部隊を行き来させた。これは道路と拠点の網であって、すべての村の支配ではなかった。

このような網は、義兵が戦っていたまさにその種の戦争、すなわち渡し場での待ち伏せ、食糧徴発隊や補給船への襲撃、小さな町の奪回に弱かった。晋州を攻めるために、日本軍は釜山などの拠点周辺の守備隊から兵を集めなければならず、包囲が失敗すると再び撤退した。『韓国民族文化大百科事典』によれば、郭再祐が慶尚右道を守ったことで、その地の農民は平時のように田畑を耕し続けることができた。

晋州だけが戦争を決めたと言うのは誤りだろう。全羅道は水軍や、1592年夏の鼎巌津の戦い、梨峙の防衛といった戦いによっても守られ、1593年初めには明の主力軍が到着した。1593年旧暦4月に日本軍が都を去ったことについて、『韓国民族文化大百科事典』は各地の義兵の蜂起、明軍の到着、補給の困難、疫病の流行という複数の理由をあわせて挙げている。晋州はその連鎖の一つの環、すなわち1592年に日本軍が陸路で南西部へ突破しようとして失敗した場所であった。

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中級

同じころの世界(1592年)

1592年に中国北西部で起きた出来事は、朝鮮の戦争に直接影響を与えた。1592年3月、モンゴルに面した明の辺境地域・寧夏の守備軍が、将校の劉東暘とモンゴル出身の指揮官・哱拝のもとで反乱を起こした。明は5月から城を包囲し、周囲に堤を築いて水攻めにし、1592年10月20日に城を落とした。最終段階を指揮した将軍・李如松は、その後朝鮮遠征軍の指揮を任され、寧夏の兵の多くが彼に従った。ここでのつながりは偶然ではなく記録に裏づけられている。寧夏が持ちこたえている間、明は朝鮮に小部隊しか割けず、その部隊は8月下旬に平壌付近で敗れた。

つまり、1592年11月に晋州が包囲されたとき、助けに来る明軍はそこにいなかった。李如松の軍が朝鮮に入ったのは1592年から1593年に年が変わるころである。晋州の防衛は、朝鮮の官軍、義勇兵、町の人々だけで戦われた。

他の地域の同じ年の出来事は朝鮮と何の関係もなく、時代の背景を示すために挙げるにすぎない。日本軍が晋州の前に現れた翌日の1592年11月9日、教皇クレメンス8世は大勅書『クム・サクロールム(Cum sacrorum)』とともに改訂ラテン語聖書、クレメンス版ウルガタを公布した。これは1979年までカトリック教会の公式ラテン語本文であり続けた。同じ年、若い数学者ガリレオ・ガリレイはパドヴァ大学に移り、1610年までそこで教えた。

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その後:1593年の第二次包囲

晋州の勝利は長続きしなかった。金時敏の容態が悪化すると、金誠一は後任に金海府使の徐礼元を任じた。徐礼元は自分の町を捨てて金誠一に従っていた人物である。数十年後に編纂された『宣祖修正実録』は徐礼元を厳しく評し、それ以後晋州の守りは以前ほどではなくなったと述べるが、この評価は同史料の他の称賛や非難と同様に慎重に読むべきである。

1593年、明と日本の使節が交渉を進めている間に、秀吉は晋州の攻略を命じた。『韓国民族文化大百科事典』はこの攻撃を報復的なものと呼ぶ。旧暦6月21日から29日(西暦1593年7月19日~27日)まで、はるかに大きな日本軍が町を包囲した。この作戦の日本軍は一般に9万~10万とされる(英語版ウィキペディアは9万、『韓国民族文化大百科事典』の「金千鎰」項目は10万近くとする)が、推計によって数える範囲が異なる。同事典の「晋州城」項目は約4万が攻撃したとし、日本語版ウィキペディアは島津家の文書を引いて、城を取り巻いた部隊を約4万2500と数え、築城・輸送・拠点の守備に当たった部隊を別に挙げている。城は陥落した。『韓国民族文化大百科事典』によれば、黄進は陥落前日の28日に銃弾に当たって戦死し、城壁が破られると金千鎰と崔慶会は南江に身を投げた。ほかにも多くの指揮官が命を落とし、朝鮮側の記録は数万の兵と住民の死を伝えるが、数字は大きく異なる。

この勝利によっても全羅道は開かれなかった。日本語版ウィキペディアの記述によれば、日本軍は求礼と谷城まで進んだが、南原の守りが堅いのを見て引き返した。第二次包囲は、独自の英雄たちと後の論介の物語を含め、別に扱うべき主題である。第一次包囲にとってそれは、1592年に晋州を守ったことが恒久的な安全ではなく、時間を稼いだものだったことを思い起こさせる。

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この包囲戦はどう記憶されているか

1619年、晋州の人々の願いにより、金時敏の功績を記した碑が城内に建てられた。碑文は成汝信の撰である。現在は慶尚南道の有形文化遺産となっている。碑文は千人に満たない兵が10万の軍を撃退したと記すが、他の記録は約3800人の守備兵と2万の攻撃側について語る。この隔たりは、一世代のうちに記憶が勝利をどれほど大きくしうるかを示している。

1604年に金時敏を功臣に録するために発給された王の教書は、日本の植民地支配期に朝鮮を離れた。2006年、市民の募金で買い戻され、宝物に指定されて、文禄・慶長の役(壬辰倭乱)の歴史を専門とする国立晋州博物館に収められた。『韓国民族文化大百科事典』はこれを、市民の募金運動によって日本から戻った最初の文化財と説明している。

この包囲戦は日本にも痕跡を残した。金時敏の肩書きである牧使(モクサ)は日本人には「もくそ」と聞こえ、江戸時代には、彼にゆるやかに着想を得た「もくそ判官(木曽判官)」という人物が歌舞伎に登場した。韓国ではこの戦いは閑山島、幸州とともに文禄・慶長の役(壬辰倭乱)の「三大捷」に数えられ、1970年代に復元された晋州城は今日、二度の包囲戦の死者をまつる祠堂を擁する史跡となっている。

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兵の数を数える:史料が語ることと語らないこと

目撃者の報告に最も近いのは、金誠一が朝廷に送った報告で、『宣祖実録』の1592年旧暦12月5日の条に収められている。日ごとの詳細を記し、城の内外の指揮官の名を挙げ、敵が「兵万余、分かれて三起となる」(兵萬餘, 分爲三起)、すなわち1万余の兵が三手に分かれて来たと述べる。1593年旧暦1月の条に収められた第二の報告は、将校たちを褒賞に推薦している。これらは救援を組織した当人による公式報告であり、正確で早いが、功績を確定させるために書かれたものである。

『宣祖修正実録』は、物語をより詳しく、より文学的に語る。元の実録が偏っていると考えられたため1640年代に着手され1657年に完成したこの史料は、「数万」の日本軍が「三千余」の守備兵を攻撃し、町は十数日包囲されて四、五回の大きな戦闘があったと述べ、さらに最後の夜襲を「9月10日」としているが、これは他の記録と合わない。現代の参考文献は、約3800人の守備兵(英語版ウィキペディアはサミュエル・ホーリーを引いて2200人余りの非正規兵を加える)に対し、攻撃側を2万(『韓国民族文化大百科事典』の「金時敏」の項)または約3万(同事典の「晋州市」の項、英語版・日本語版ウィキペディア)とし、1619年の碑は千人未満対10万を主張する。英語版ウィキペディアの日本側戦死者1万300人超という数字は、朝鮮側の報告に明確な根拠がない。朝鮮側の報告は、死者は数えきれず、日本軍が遺体を運び去るか焼いたと述べるのみである。

武器と銃手についての報告も異なるが、それぞれ別のものを計っているので直接比較することはできない。英語版ウィキペディアの包囲戦の記事と壬辰戦争の記事は、金時敏が最近約170挺の火縄銃を入手したとする。『韓国民族文化大百科事典』は現地で作られた約70挺の銃について述べ、包囲の1か月後の備辺司の上奏は、伝え聞いたこととして、彼がそのとき約80人の銃手を擁していたと報告している。郭再祐が数千のゲリラを率いて自ら到着したという、一部の英語文献に見られるイメージは、郭再祐が沈大昇に率いさせた分遣隊を送ったとだけ記す金誠一の報告と合わない。

この敗北についての日本側の史料は朝鮮側より乏しい。英語版ウィキペディアは1626年に刊行された秀吉の伝記『太閤記』を引き、一番乗りを競って殺到する兵の重みではしごが折れそうになった場面を紹介しているが、これは後世の文学的な作品である。日付そのものも換算が必要である。朝鮮と日本はともに太陰太陽暦を用いており、ここで用いた西暦の日付(1592年11月8日~13日)は韓国天文研究院の換算表で変換したものだが、日本側の記述は包囲を10月4日から数えている。

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論争:晋州はどれほど決定的で、誰の勝利だったのか

この包囲戦はどれほど決定的だったのか。韓国側の記述は一般に、この勝利によって日本軍は全羅地方を占領できず、全体の計画が狂ったとし、英語版ウィキペディアの主要記事も、これが第一次侵攻の間、全羅道を荒廃からおおむね救ったと述べる。しかし他の証拠は慎重さを求める。全羅道は1592年夏の時点ですでに、水軍、鼎巌津の郭再祐、梨峙の防衛によって守られており、秋の日本軍の動機も入り混じっていたようである。西への道を開くことだけでなく、慶尚右道の抵抗の主要な拠点を潰すことも目的だった。第二次包囲は、晋州を取ること自体が全羅道を開くわけではなかったことを示している。公平な結論は、晋州はいくつかの障壁の中の重要な一つだった、というものである。

誰の勝利だったのか。王による顕彰と1619年の碑は金時敏を中心に置く。同時代の報告は、金時敏の負傷後に指揮を引き継いだ李光岳、5日間東門を守った成守慶、突破口を塞いだ崔徳良と李訥にも光を当てる。金誠一の第二の報告には、8日に金時敏が老弱者を逃がすためにひそかに水門を開けることを提案し、李光岳がそれでは兵の決意がくじけると反対したことまで記されている。守備側も勝利を確信していたわけではなかったことを思い出させる記述である。金誠一自身が救援を組織し、義兵や町の人々、兵士の格好をした女性たちも欠かせない参加者だった。

この包囲戦はより広い論争の中にも位置づけられる。韓国の戦争叙述は長く義兵と民衆の抵抗に中心的な位置を与えてきており、晋州での義勇兵の役割はその物語によく合う。ケネス・スウォープは、陸戦全体では明の介入が決定的だったと論じてきた。1592年の晋州の戦いは李如松の明の主力遠征軍が到着する前に戦われ(それ以前の小規模な明軍は平壌で敗れていた)、明軍は参加していないので、よく準備された城で朝鮮軍が独力で何を成し遂げられたかの証拠ではあるが、明の重要性を否定するものではない。ジャヒョン・キム・ハブッシュは、義兵とその著作が原初的な朝鮮の国民意識の形成を助けたと論じた。晋州における慶尚道と全羅道の義勇兵の協力は、彼女の議論と並べて読むことができるが、この結びつけは彼女のものではなく本稿の解釈である。

最後に、晋州は戦争全体の中心的な問い、すなわち3週間で都を取った軍がなぜ国を征服できなかったのか、を照らし出す。どの戦い一つもこの問いに単独では答えられない。しかし晋州についての史料は、その仕組みをはっきり示している。薄く分散した日本軍の守備隊、新たな攻勢のたびに兵力を集中させる必要、襲撃と攪乱ができる現地の勢力、強襲しても落ちない要塞化された町、そして手の届かないままだった穀物の豊かな道である。

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重要なポイント

全羅道への入口
晋州は慶尚道から全羅道へ向かう重要な陸路を押さえていた。全羅道は米が豊かな道で李舜臣の艦隊の根拠地でもあり、北東の縁で戦闘があったものの、全州を含むその大部分は第一次侵攻の間、日本軍の支配の外にとどまった。
城の内と外
守備兵が城を守る間、城外の官軍と義兵は包囲軍の背後を脅かし、夜に守備側へ合図を送り、食糧徴発隊を攻撃した。
進撃と支配の違い
日本軍は主要な街道に沿って速く進めたが、守備隊は小さく分散していたため、晋州攻撃のような新たな攻勢のたびに多くの拠点から兵を集める必要があった。
指揮の一元化
金時敏は、命令が一人から出るよう、敗れた道の兵使を城に入れなかった。同時代の人々は、これを町が守られた理由の一つとみた。
備え
修理した城壁、現地で作った火薬と銃、蓄えた石と熱湯、規律ある守備兵によって、小さな兵力が繰り返される攻撃を退けることができた。
いくつかの障壁の一つ
晋州は、水軍、鼎巌津、梨峙とともに、1592年に日本軍を全羅道に入れなかったいくつかの障害の一つであった。重要ではあったが、単独で決定的だったわけではない。
膨らむ数字
攻撃側の兵数は史料によって1万余から10万まで幅がある。この戦争のあらゆる数字は、それを記録した者と結びついた推定値として扱うべきだという警告である。

記録

  1. 1591年 — 金時敏が晋州の判官となる。観察使の金睟が晋州の城壁を東へ広げる。
  2. 1592年 — 旧暦4月13日(西暦5月23日):日本軍が釜山に上陸。22日(西暦6月1日)、郭再祐が宜寧で義兵を挙げる。
  3. 1592年 — 旧暦5月下旬(西暦7月初め):郭再祐が鼎巌津で南江を渡る日本軍を待ち伏せする。
  4. 1592年 — 旧暦7月8日(西暦8月14日):李舜臣の閑山島での勝利と梨峙の防衛が全羅道を守る。
  5. 1592年 — 旧暦8月:金時敏が晋州牧使に昇進する。
  6. 1592年 — 旧暦10月5日~10日(西暦11月8日~13日):第一次晋州城の戦い。金時敏が負傷し、のちに死去する。
  7. 1593年 — 旧暦4月:日本軍が漢城を去る。旧暦6月21日~29日(西暦7月19日~27日):第二次包囲で晋州が陥落する。
  8. 1604年 — 金時敏が死後、宣武功臣二等に録される。
  9. 1619年 — 金時敏の勝利を記念する碑が晋州城内に建てられる。
  10. 2006年 — 植民地期に日本へ渡った金時敏の1604年の功臣教書が、市民の募金によって戻り、国立晋州博物館に収められる。

用語集

義兵(ウィビョン)
地方の学者、元官僚、僧侶、平民が侵略者と戦うために正規軍の外で組織した義勇の部隊。
牧使(モクサ)
晋州のような大きな行政区画(牧)の長官で、民政と軍事を担った。
判官(パングァン)
副長官。金時敏が昇進前に晋州で務めた職。
慶尚右道(キョンサンウド)
都から見た慶尚道の西半分。晋州はその主要な行政・軍事の中心だった。
全羅道(湖南)
朝鮮の南西部の道。米が豊かで、1592年には李舜臣の艦隊の根拠地だった。
銃筒(チョントン)
朝鮮の火薬兵器と大砲の総称。玄字銃筒は晋州で攻城櫓に対して用いられた大型の砲である。
招諭使(チョユサ)
兵と民を呼び集めるために王が派遣した使臣。金誠一が観察使となる前の1592年に慶尚右道で務めた役割。
宣武功臣
文禄・慶長の役(壬辰倭乱)での軍功により1604年に顕彰された18人に与えられた称号で、一等から三等まである。
宣祖実録
『朝鮮王朝実録』のうち宣祖の治世の公式年代記。その改訂版が1657年に完成した。
太陰太陽暦
朝鮮と日本で用いられた暦で、月の満ち欠けに従って月を定める。その日付はグレゴリオ暦に換算しなければならない。
三大捷
閑山島、晋州(1592年)、幸州の戦い。韓国では文禄・慶長の役(壬辰倭乱)最大の勝利としてまとめて挙げられる。

よくある質問

晋州では何人が戦ったのですか。

正確にはだれにもわかりません。朝鮮側の史料は守備兵を三千余人、または約3800人としています。攻撃側については、金誠一の報告が1万余、『宣祖修正実録』が数万、現代の百科事典が2万~3万とし、1619年の記念碑は10万と主張しています。

郭再祐は自ら晋州に来たのですか。

同時代の金誠一の報告にはそう書かれていません。郭再祐は先鋒将の沈大昇を送り、その兵が町の北の丘でたいまつをともし、角笛を吹き、叫んだとあります。一部の英語の記述は、郭再祐が自ら到着したと描いています。

日本軍はなぜそれほど晋州を欲しがったのですか。

晋州は慶尚道西部の主要な町で軍事拠点であり、全羅道へ向かう陸路の上にありました。全羅道は米が豊かで、李舜臣の艦隊の拠点でもありました。

この勝利が全羅道を救ったのですか。

助けにはなりましたが、唯一の理由ではありません。水軍や、鼎巌津や梨峙などそれ以前の戦いも道をふさいでいました。また、1593年に日本軍が晋州を取ったときも、全羅道を占領するには至りませんでした。

金時敏はいつ亡くなったのですか。

旧暦10月10日(西暦1592年11月13日)の最後の総攻撃のときに額を撃たれ、その傷がもとで後に亡くなりました。日付については史料によって異なり、『韓国民族文化大百科事典』は数日後としていますが、もっと後の日付を挙げる記述もあります。

論介の物語と同じ晋州の戦いですか。

ちがいます。論介の物語は、晋州が陥落した1593年の第二次包囲にまつわるものです。1592年の第一次包囲は朝鮮側の勝利でした。

1592年の晋州に明の軍はいたのですか。

いいえ。李如松の率いる明の主力軍が朝鮮に入ったのは、寧夏の反乱を鎮圧した後、1592年から1593年に年が変わるころでした。第一次晋州城の戦いは朝鮮の軍勢だけで戦われました。

出典・参考文献

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  9. Annals of King Seonjo, vol. 33, Seonjo 25 (1592), 12th month, 5th day, entry 5: Border Defence Council on rewards for Kim Si-min, Yi Gwang-ak and Seong Su-gyeong. National Institute of Korean History, Veritable Records of the Joseon Dynasty
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上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。

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