美術

ネフェルティティ胸像

Nofretete-Büste (ベルリン、ÄM 23100)

紀元前1350–1340年頃 · アケトアテン/テル・エル・アマルナ(エジプト新王国時代)。現在はベルリンの新博物館

ひとことで

ネフェルティティ胸像は、約3,350年前にアマルナの彫刻家の工房で作られたエジプト王妃の彩色石灰岩の肖像で、1912年にドイツの考古学者たちが発見し、今では世界でもっとも有名で、もっとも議論を呼んでいる美術品の一つとなっている。

ネフェルティティ胸像
画像: Philip Pikart · CC BY-SA 3.0 · Wikimedia Commons

最初はやさしい入門です。下に進むほど詳しい説明や研究内容を読めます。

  • やさしい
  • 中級
  • 上級

子ども向け

約3,350年前、エジプトにはアクエンアテンという王とネフェルティティという王妃がいました。彼女の名前は「美しい人がやって来た」という意味です。王はナイル川のほとりの砂漠にまったく新しい首都を築き、芸術家たちもそこへ移り住んで、王家の人々の彫像や絵を作りました。

そのうちの一人の芸術家の工房には、石でできた頭部や石膏の顔がたくさんありました。その中に、肩から上だけを作った王妃の肖像がありました。彫刻家は石灰岩を彫り、その上に薄い石膏を塗って肌をなめらかに見せ、鮮やかな色で彩色しました。背の高い青い冠、金色の帯、花の首飾り、そして温かみのある肌の色です。

都市が空になると、工房は少しずつ廃墟となり、この胸像は3,000年以上もがれきの中に隠れていました。1912年12月、ドイツの発掘隊がこれを見つけました。隊長は日記に、言葉では言い表せない、とにかく見なければならない、と記しました。

この胸像には一つ不思議な点があります。右目には光る象嵌がはめ込まれているのに、左目は空っぽなのです。理由は誰にもわかりません。作りかけだったのかもしれませんし、教える時の見本だったのかもしれませんし、あるいは目が抜け落ちて失われたのかもしれません。

今、この胸像はドイツのベルリンにある博物館に立っており、毎年何十万人もの人々が見に訪れます。しかし、エジプトの多くの人々は、この胸像は不当に持ち出されたのだから、返還されるべきだと言っています。だからこの胸像は、美しい顔であるだけでなく、過去の宝物を誰が持つべきかという大きな問いでもあるのです。

ひと目でわかる

製作
紀元前1345年頃~1340年頃(新王国第18王朝、アクエンアテン治世)
製作地
中部エジプトのアケトアテン(テル・エル・アマルナ)にある工房遺構P 47.2。彫刻家トトメスの作とされる
主題
アクエンアテンの正妃ネフェルティティ。銘文はないが、平らな上部を持つ青い冠から特定される
材質
石灰岩の芯、彩色されたスタッコ(石膏)層、水晶と蜜蝋による目の象嵌
大きさ
高さ約47~49cm、重さ約20kg
発見
1912年12月6日、ルートヴィヒ・ボルヒャルト率いるドイツ東洋協会の発掘隊による
現在の所在
ベルリンのノイエス博物館(エジプト博物館・パピルスコレクション、収蔵番号ÄM 23100)
論争
エジプトは1924年以来返還を求めており、ベルリンの博物館側は1913年に署名された出土品分配の記録を根拠としている

やさしい

ネフェルティティ胸像とは何か

ネフェルティティ胸像は、紀元前14世紀に統治したエジプト王アクエンアテンの正妃ネフェルティティの頭部、首、肩を実物大で表した肖像である。高さはおよそ半メートルである。石灰岩の芯に、きめの細かい石膏(スタッコ)を何層にも重ね、今日でも色があせて見えないほど丁寧に彩色されている。

この胸像は1912年、アクエンアテンの首都アケトアテン(「アテンの地平線」)の遺跡の現代名であるテル・エル・アマルナで発見された。胸像は、多くの石膏製の顔や未完成の頭部とともに、ある彫刻家の工房の廃墟の中に横たわっていた。同じ建物から見つかった銘文入りの象牙製品には「彫刻家」トトメスの名が記されており、この工房と胸像は通常、彼の作とされている。

1913年以来、この胸像はドイツにある。現在はベルリンの博物館島にあるノイエス博物館の北ドーム室に単独で展示されており、エジプトコレクションの目玉である。古代エジプトから伝わったもっとも有名なイメージとして、しばしばツタンカーメンの黄金のマスクと比較される。

この胸像はまた、博物館と過去をめぐるもっとも長く続く論争の一つの中心にもある。エジプトは約100年にわたって返還を求めており、ドイツの博物館当局は、これがドイツの発掘隊に合法的に割り当てられたものだと主張している。芸術作品としての側面と、この論争の両方が胸像の物語の一部である。

[1][6][3]

やさしい

胸像の見方

まず冠に注目しよう。ネフェルティティは、上部が平らで背の高い青い冠をかぶっているが、エジプト美術でこの冠をかぶった姿で描かれるのは彼女だけであり、学者たちはこれを「ネフェルティティ帽子冠」と呼んでいる。色つきの象嵌が施された金色の帯が、リボンのようにその周りを巡っている。前面にはかつて王権の象徴である鎌首をもたげたコブラ(ウラエウス)があったが、今は欠けている。この胸像には名前が記されていないため、この冠こそが誰を表しているかを知る手がかりとなる。

次に顔を見てみよう。正面から見るとほぼ完璧な左右対称である。眉、目のライン、唇の曲線が互いに鏡のように対応している。眉は交差する細かい線で毛の一本一本が描かれている。唇は赤く、肌は温かみのある明るい茶色である。首には緑、赤、青、黄色で花びらと葉を描いた幅広の襟飾りがかけられている。

続いて横から見てみよう。長く細い首が前に傾き、重い冠の重さを支えているように見える。ある教科書は、この効果を細い茎の上に咲く重い花にたとえている。肩はまっすぐに切り落とされ、その側面は彩色されないまま残されており、これはこの胸像が何のために作られたのかをめぐる議論の手がかりの一つである。

最後に目に注目しよう。右目の虹彩と瞳孔は黒く染めた蜜蝋で作られ、その上に薄く磨かれた水晶がかぶせられ、本物の目のように光を反射する。左の眼窩は空で、なめらかである。この失われた目は、1912年以来ずっと人々を悩ませてきた。

[1][8]

やさしい

ネフェルティティとは誰だったのか

ネフェルティティは紀元前14世紀に生きた。その名前は「美しい人がやって来た」という意味である。彼女は、後にアクエンアテンと改名したアメンホテプ4世の正妃、すなわち最高位の王妃であった。彼女の両親が誰であったかは確かでない。よく知られる説の一つは、彼女の一族を、はるか後に自ら王となった高官アイと結びつけるが、その証拠は乏しい。

彼女とアクエンアテンの間には6人の娘がいた。そのうちの一人アンケセンパアテンは、後に少年王ツタンカーメンと結婚し、名をアンケセナーメンと改めた。アマルナの絵画には、王夫妻が子どもたちとともに太陽の光線の下にいる場面がよく描かれており、その光線の先端は生命の印を差し出す小さな手で終わっている。

ネフェルティティは、ほとんどのエジプトの王妃よりもはるかに頻繁に、しかもより力強い姿で美術に登場する。彼女は王と同じ大きさで描かれ、太陽神を直接崇拝し、さらには通常ファラオにのみ許される敵を打ち倒す場面にも描かれている。学者たちは長い間、彼女がアクエンアテンの治世12年ごろに姿を消したと考えてきたが、2012年に発見された碑文は、治世16年になってもなお彼女が正妃であったことを示している。

その後の彼女に何が起こったのかは定かでない。今日、多くのエジプト学者は、アクエンアテンの死後、ツタンカーメンが即位する前に、彼女がネフェルネフェルウアテンという名の女性ファラオとして短期間統治したと考えているが、これは今なお議論の的である。彼女のミイラは確実に特定されたことがない。

[2][9]

中級

アクエンアテンの革命とアマルナという都市

この胸像は、エジプト史上もっとも異例な時代の一つに属している。治世の初め(紀元前1351年頃~1334年頃)、アメンホテプ4世は国家宗教を、崇拝に値する唯一の神である太陽の円盤アテンへと転換させた。これが真の一神教であったのか、それとも他の神々の存在を否定せずに一柱の神のみを崇拝する「単一神礼拝」であったのかは、今も議論されている。彼はアクエンアテンと改名し、他の神々、とりわけテーベのアメン信仰を閉ざす、あるいは放置した。

治世4年目か5年目に、王は中部エジプトのナイル川東岸にある何もない砂漠地帯を選び、そこに新しい首都アケトアテンを建設した。宮殿、屋根のない太陽神殿、官庁、そして住居の街区一帯が急速に建てられた。芸術家、役人、労働者たちがテーベやメンフィスから移り住んだ。

この革命は長くは続かなかった。アクエンアテンが治世17年目に没した後、宮廷は数年のうちに伝統的な神々のもとへ戻った。トゥトアンクアテンはツタンカーメンと改名し、首都は放棄され、後の王たちはアクエンアテンの治世の記憶を消し去ろうとした。考古学者にとってこれは幸運であった。アマルナは短期間しか使われずに放棄されたため、その家屋や工房が後代の建築の下に何世紀にもわたって埋もれることがなかったからである。

トトメスの工房もこの都市の一部であった。宮廷が去ったとき、彫刻家たちは見本、石膏の習作、未完成の作品を棚や床に残していった。胸像もその一つであった。やがて屋根が雨漏りし、崩れ落ち、胸像は貯蔵室のがれきの中に埋もれ、1912年までそこにあり続けた。

[4][5][7]

中級

アマルナ美術とこの胸像の位置づけ

伝統的なエジプト美術は、何千年もかけてゆっくりと変化した。ところがアクエンアテンの治世下では、それが急激に変化した。いわゆるアマルナ様式は、王家の人々をキスをしたり、子どもと遊んだり、食事をしたりする親密で日常的な場面で描き、身体の表現も新しくなった。長い顔と首、狭い肩、豊かな腰と腹部、細い腕と脚である。とりわけアクエンアテン初期の肖像は、際立って誇張されて見える。

ネフェルティティ胸像が有名である理由の一つは、それが極端に見えないことである。長い首と前傾姿勢にはアマルナ様式の影響が見て取れるが、顔立ちは均整がとれ、落ち着いている。一部の学者は、これを治世後半に見られる、より古典的で理想化された様式への回帰と見なす一方、アマルナ美術そのものが時とともに発展し、和らげられたと強調する学者もいる。いずれにせよ、この胸像は、個々の顔立ちへの新しい感受性と、完璧さという伝統的な理想とを、優れた彫刻家がどれほど巧みに結びつけられたかを示している。

同じ工房から出土した他の作品を見ると、この点はより明確になる。約20点の石膏製の顔の中には、王家の人々や名の知られない人々の肖像があり、その一部にはしわや目の下のたるみまで表現されている。女性は常に若々しく描かれることの多かったエジプト美術では珍しいことである。腹の丸みを帯びた年配のネフェルティティの小さな像も、そこから出土している。これらの作品と並べて見ると、あの有名な胸像は、意図的に選び取られた理想像のように見えてくる。

胸像という形式そのものが、エジプトでは珍しいものであった。エジプト人は完全な姿の像を重んじたため、胸から切り取られた形は不完全に見えかねなかった。それでも胸像は、主に家庭内の祖先崇拝に関連して作られ、アマルナ時代以降はより一般的になっていく。同じ部屋から見つかった、対をなすアクエンアテンの胸像は、古代にすでに破壊されていた。

[5][3][8]

中級

制作方法:石、石膏、彩色、水晶

彫刻家はまず石灰岩で基本の形を彫り出した。その芯の上に、石膏(ジプサム)から作ったスタッコを厚さを変えながら何層にも塗り重ね、この柔らかい素材で最後の繊細な造形を行った。1992年、そしてとりわけ2006年に行われたCTスキャンにより、この過程が初めて内部から明らかになった。

ベルリンの画像科学研究所で実施され、2009年に学術誌『ラジオロジー』に発表された2006年のスキャンは、内部に彫られた石灰岩の顔が、表面の彩色された顔とわずかに異なることを示した。内側の顔には口角と頬にしわがあり、鼻には小さな隆起があるが、外側の石膏層はこれらを滑らかに消し去っている。研究者たちは、これが当時の美の理想を反映していると示唆した。つまり彫刻家は、自然を完璧に近づくように修正したのである。

彩色には、おなじみのエジプトの顔料が使われている。ボルヒャルトが依頼して1923年に発表された分析、そして2009年に博物館のラートゲン研究所が行った非破壊調査により、銅を基にした青と緑のフリット(人工顔料「エジプシャンブルー」を含む)、赤鉄鉱を含む鉄系の赤、ヒ素鉱物である黄色の雄黄、炭素の黒、そして白亜が確認された。

仕上げ作業の精粗の差は、示唆に富むほど著しい。顔にはもっとも大きな注意が払われた一方、襟飾りはより手早く塗られ、肩の側面は彩色されないまま残された。この完璧さと未完成さの共存こそが、この胸像が完成した作品であったのか、それとも見本であったのかをめぐる長年の論争の核心である。

[1][8]

中級

1912年の発見と出土品の分配

1900年頃、アマルナ出土品が美術市場に現れるようになり、ドイツの関心が高まった。1907年の試掘の後、エジプト学者で建築史家でもあったルートヴィヒ・ボルヒャルトが、ドイツ東洋協会のための長期発掘を開始した。唯一の資金提供者は、ベルリンの実業家で美術後援者のジェームズ・ジーモンであった。当時の慣例どおり、フランス人学者が運営していたエジプト古物局が発掘許可を与えていた。

1912年12月6日、発掘隊はP 47.2号住居を発掘していた。ボルヒャルトが、ザクセンのヨハン・ゲオルク公一行を出迎えに行っていたとき、同僚のヘルマン・ランケが「何か良いものが出てきている」との知らせを送った。胸像はその日の午後に掘り出された。公自身が撮影した写真には、エジプト人現場監督ムハンマド・エス・セヌーシがそれを腕に抱えている様子が写っている。その晩、ボルヒャルトはあの有名な日記の一文を記した。「説明は無意味だ、見なければならない」。

各発掘シーズンの終わりには、出土品が発掘隊とエジプトの間で「パルタージュ(分配)」として分けられた。1913年1月20日、監督官ギュスターヴ・ルフェーヴルは、アマルナの出土品を名目上等しい二つに分けた。アクエンアテン、ネフェルティティ、そして娘たちを描いた彩色祭壇がエジプト側のリストの先頭に、この胸像がドイツ側のリストの先頭に置かれた。ルフェーヴルとボルヒャルトの署名が入った公式記録は、ベルリンに残っている。

その日、胸像がどのように示されたかが、この論争の核心である。博物館側の説明によれば、ルフェーヴルは写真を見て、実物も検分した。批判する側は、ボルヒャルトが見栄えの悪い写真を見せたこと、この作品を石灰岩ではなく石膏だと記したこと、そしてそれがすでに薄暗い部屋の箱に梱包されていたことを示す証拠を指摘する。1924年付けの協会の記録保管所にある覚書には、ボルヒャルトが「この胸像を私たちのために確保したかった」と記されている。

[7][1]

中級

ドイツでの一世紀:秘匿、戦争、そして博物館島への帰還

胸像は1913年にベルリンに到着し、ジェームズ・ジーモンの所有物となり、彼の邸宅で展示され、皇帝ヴィルヘルム2世もそこでこれを見た。1913年末、他のアマルナ出土品がノイエス博物館で公開された際、この胸像はボルヒャルトの要請により非公開のままとされた。ジーモンは1920年7月11日、この胸像を含むアマルナ出土品を博物館に寄贈した。ボルヒャルトは1923年にこれを出版し、1924年には新たに屋根を架けられたノイエス博物館の「アマルナ中庭」で一般公開され、大きな話題を呼んだ。

1939年、博物館は閉鎖され、所蔵品は梱包された。胸像はまず銀行の金庫に、次に動物園の高射砲塔に保管され、1945年3月にはテューリンゲン州メルカースの岩塩坑に移されたが、そこで米軍によって発見された。胸像はヴィースバーデンのアメリカ中央収集所に運ばれ、1946年からそこで一般公開された。

戦後の政治情勢が、その落ち着き先を決めた。東ドイツは、戦前この胸像があった東ベルリンの博物館島への返還を望んだが、1956年、胸像は代わりに西ベルリンへ渡り、まずダーレムの博物館複合施設に、そして1967年からはシャルロッテンブルク宮殿の向かいにあるエジプト博物館に展示された。1970年代までに、この胸像は東西両ドイツにとって国民的アイデンティティの象徴となっていた。

統一後、胸像は2005年に博物館島のアルテス博物館へ移り、2009年10月には再建されたノイエス博物館へ戻り、北ドーム室に展示されている。保存修復士たちはこれを「輸送不可能」と分類している。CTスキャンにより、石の芯と石膏の間に空隙があることが判明しており、彩色された表面と水晶の象嵌は壊れやすいためである。

[10][1][8]

中級

肖像からアイコンへ

1924年から数年のうちに、この胸像は古代世界からのイメージの中で、もっとも多く複製されるものの一つとなった。その長い首、弧を描く眉、そして落ち着いたかすかな微笑みをたたえた口は、女性美の理想の象徴となり、絵はがきやポスター、1989年のドイツの郵便切手にも描かれた。有名なハリウッドの例としては、映画『フランケンシュタインの花嫁』(1935年)の女優のために作られたヘアスタイルがあり、これはこの胸像に着想を得たものと言われている。

この胸像はまた、国家政治とも絡み合うようになった。1930年、ドイツの新聞は、君主制を失った国のための新しい女王であるかのように、この胸像について語った。ナチスの指導部もこれを宝物として扱った。1933年、ヘルマン・ゲーリングは外交的な身振りとしてエジプト国王フアード1世に返還することを検討したが、ヒトラーはこれを拒否し、この胸像を中心とした博物館を建てると語った。一部の歴史家は、この胸像が、1922年にイギリス主導の発掘隊が発見したツタンカーメンの財宝に対抗するドイツの誇りとして、部分的に評価されていたと指摘している。

エジプトでもまた、ネフェルティティは古代エジプト文明の輝きを象徴する国家的シンボルとなった。ドイツの博物館のアイコンであると同時にエジプトの国宝でもあるというこの二重の役割こそが、この胸像をめぐる論争がきわめて感情的かつ政治的になりやすい理由を説明している。

現代美術と技術も、この物語を紡ぎ続けている。2003年、二人のハンガリー人芸術家が、ヴェネツィア・ビエンナーレのプロジェクトのために、この胸像の複製を一時的にブロンズの身体の上に載せ、エジプト当局の怒りを買った。2016年には、情報公開請求をきっかけに博物館の3Dスキャンデータが公開され、現在博物館はこのスキャンデータを無料でダウンロードできるようにしている。

[1][6]

上級

返還論争:法、倫理、対立する主張

エジプト側の要求は、この胸像が1924年に公開されるとほぼ同時に始まった。1925年、エジプトはドイツの発掘活動を止めると脅し、1929年には他の出土品との交換を申し出たが、ドイツはこれを断った。1945年以降、エジプトは当時この胸像を管理していたアメリカに引き渡しを求めたが、アメリカはこの件をドイツ当局に委ねた。要求は1950年代に、そして2000年代以降は繰り返し出されており、とりわけ当時エジプトの古物庁長官であったエジプト学者ザヒ・ハワスが中心となり、2005年にはユネスコに介入を求めた。

エジプト側の主張は、主に二つの論拠に基づいている。第一に、1913年の分配が欺瞞によって行われたというものである。分配記録には「王女の彩色石膏胸像」と記されているが、ボルヒャルトの日記には明確に王妃の名が記されており、監督官はこの作品を正しく見ることができなかった可能性がある。2009年、ベルリンの博物館が関連文書を公開した際、ハワスはこれがボルヒャルトの非倫理的な行為を裏付けるものだと述べた。第二に、考古学的出土品は発見された国に属するべきだという、より広い原則である。

博物館とプロイセン文化財団が示すドイツ側の立場は、分配は当時の法的手続きに従って行われたこと、分配記録には責任あるエジプト側の担当官が署名していたこと、そしてエジプト当局はすべてを検分することができたはずだというものである。博物館の研究者たちは、この胸像が、エジプト側でもっとも重要な出土品に相当するものとして、意図的にドイツ側リストの先頭に置かれたことを強調する。さらに、保存修復士たちは、この胸像は輸送するにはあまりに壊れやすく、一時的な貸与すら不可能だと主張している。

この論争は現在、植民地時代に持ち出された文化財をめぐる、より広い国際的な議論の中に位置づけられている。当時、エジプトは強いヨーロッパの影響下にあり、その古物局も外国人によって率いられていた。一部の論者は、法的な問い(当時、その持ち出しは合法であったか)と、倫理的な問い(その制度自体が公正であったか)とを区別する。立場は、全面的な返還から、共同所有、長期貸与に至るまでさまざまである。ここで参照した資料の時点では、この胸像はベルリンに留まっており、エジプト側の要求は今なお有効である。

[1][7]

上級

学術的な論点:見本か作品か、空の目、偽作説

ボルヒャルトは1923年、この胸像は他の肖像を作る際に複製するための、彫刻家の見本であったと論じた。彼の根拠は、まっすぐに切られた肩、彩色されていないその側面、そして右目と対称になるはずなので完成させる必要がなかったと考えられる空の左目であった。この見解は数十年にわたって支配的であった。しかし、ベルリンの博物館自身は今、この問いを未解決のものとして提示している。同じ二部屋(第18・19室)から出土した約20点の石膏習作は、輪郭線を除いて彩色されておらず明らかに見本であるのに対し、王家の胸像はほぼ完全に仕上げられており、また冠や襟飾りの配色は標準化されていたため、彩色された見本をわざわざ必要としなかったはずだからである。この胸像はむしろ、王夫妻への崇拝に用いられていた可能性がある。

空の目については、いくつかの説明がある。ボルヒャルトは、眼窩がなめらかで接着剤の痕跡がまったく見られないことから、そもそも象嵌が入れられたことは一度もなかったと結論づけた。後に館長を務めたディートリヒ・ヴィルドゥングは、この胸像が弟子たちに目の造形の仕方を教えるために使われたのではないかと示唆した。ザヒ・ハワスは、象嵌は存在していたが後に失われたのだと主張している。ネフェルティティが病気で片目を失ったという以前の推測は、両目を描いた他の肖像と矛盾する。博物館は、たとえかつて象嵌が存在していたとしても、発見時にはすでになかったと述べている。

スイスの美術史家アンリ・スティエルランと、ベルリンの著述家エルドアン・エルジワンは、それぞれ別の著書の中で、この胸像は1912年頃に作られた現代の偽作であると主張した。彼らの論拠には、失われた目、出版までの遅れ、そして石灰岩の芯の年代測定が一度も行われていないという主張が含まれていた。専門家たちはこれらの主張を退けた。使われている顔料は第18王朝の絵画のものと一致し(1920年代と1982年に検査済み)、CTスキャンは内部に彫られた顔を伴う古代の制作過程を明らかにしており、同じ工房から出土した他の確認済みのネフェルティティの肖像とも密接に一致しているからである。

この胸像をめぐっては、より広い歴史的な問いも存在する。その年代は、アマルナ時代の年代学と様式論に依存しており、資料はおおむね紀元前1351年頃から1334年頃までの間に置き、通常は紀元前1345年頃~1340年頃を推定値としている。トトメスへの帰属は、工房の遺構から出土した彼の名を記した象牙製の目隠しに基づくものであり、有力ではあるが間接的な証拠である。そして、ネフェルティティが晩年に果たした役割――王妃であったのか、共同統治者であったのか、それともファラオ・ネフェルネフェルウアテンであったのか――は、エジプト学における今なお最も活発な論争の一つであり、これはこの胸像が女性の権力のイメージとしてどう解釈されるかにも影響を与えている。

[8][1][2][3]

重要なポイント

理想化された肖像
この胸像は特定の個人とわかる姿を示しながらも、完璧に仕上げられている。CTスキャンは、彫刻家が石の芯に彫られたしわを、最後の石膏層で滑らかに消し去ったことを示している。
アマルナ様式
アクエンアテン治世の新しい美術で、親密な王家の場面と細長い身体表現を特徴とする。この胸像は、その影響を抑制の効いた均整のとれた形で示している。
工房という文脈
この胸像は、ある彫刻家の家の中で石膏習作や未完成の作品とともに発見され、王家のイメージがどのように制作されたかについて貴重な手がかりを与えている。
見本か完成作か
この胸像が複製のための原型であったのか、それとも王家崇拝の対象であったのかは、いまだ解決していない。
パルタージュ
20世紀初頭に行われた、発掘出土品を外国人発掘者とエジプトの間で分配する制度。1913年の分配の合法性と公正さが、この論争の中心にある。
返還
文化財を原産の国や共同体に返すこと。エジプトは1924年以来、この胸像の返還を求めてきた。
美の象徴
1924年以降、この胸像は世界的な女性美の象徴となり、同時にドイツとエジプト双方にとっての国家的な象徴ともなった。

記録

  1. 紀元前1351年頃 — アメンホテプ4世(後のアクエンアテン)が王位に就き、ネフェルティティがその正妃となる。
  2. 紀元前1346年頃 — アテンを称える新しい首都アケトアテン(テル・エル・アマルナ)が建設される。
  3. 紀元前1345年頃 — トトメスの工房でこの胸像が作られたとされるおおよその年代(推定は紀元前1340年頃まで幅がある)。
  4. 紀元前1336年頃 — デイル・アブ・ヒンニスの治世16年の碑文に、ネフェルティティがなお正妃として記されている。
  5. 紀元前1334年頃 — アクエンアテンが死去する。数年のうちにアマルナは放棄され、工房は廃墟となる。
  6. 1912年 — 12月6日、ルートヴィヒ・ボルヒャルト率いるドイツ東洋協会の発掘隊が、P 47.2号住居でこの胸像を発見する。
  7. 1913年 — 1月20日、出土品の分配が行われ、この胸像はドイツ側に割り当てられ、ベルリンへ送られる。
  8. 1920年 — ジェームズ・ジーモンが、この胸像を含むアマルナ出土品をベルリンの博物館に寄贈する。
  9. 1924年 — この胸像がノイエス博物館で一般公開され、エジプトによる返還要求が始まる。
  10. 1945年 — 米軍がメルカースの岩塩坑でこの胸像を発見し、後にヴィースバーデンで展示する。
  11. 2006年 — 精密なCTスキャンにより、スタッコの下に彫られた内側の顔が明らかになる。
  12. 2009年 — この胸像が再建されたノイエス博物館へ戻る。1913年の文書を見たエジプトが、返還要求を新たにする。

用語集

胸像
人物の頭部、首、そして胸の上部や肩までを表した彫刻。
スタッコ
ここでは石膏から作られたきめの細かい漆喰で、石の芯の上に広げて細部を造形し、彩色するために用いられる。
正妃
エジプト王の第一の王妃に与えられる称号。
アテン
太陽の円盤で、アクエンアテンはこれを最高神、あるいは唯一の神として崇拝した。
アケトアテン
「アテンの地平線」を意味する、アクエンアテンの首都。その遺跡はテル・エル・アマルナとして知られる。
ウラエウス
エジプトの王や王妃が額に着けた、鎌首をもたげたコブラで、王権の象徴。
エジプシャンブルー
砂や銅などを加熱して作られる人工の青色顔料で、古代エジプト全時代を通じて用いられた。
パルタージュ
「分配」を意味するフランス語。発掘者と発掘が行われた国との間で、出土品を公式に分ける制度。
CTスキャン
コンピュータ断層撮影。物体を傷つけることなくX線で断面を映し出す技術。
返還
ある物をその原産国へ送り返すこと。

よくある質問

なぜ片目がないのですか?

確かなことは誰にもわかりません。発掘者は、この胸像が見本だったために左目には最初から象嵌が入れられなかったと考えましたが、教育用の作品だった、あるいは象嵌が失われたと考える人もいます。発見された時点で、すでに目はありませんでした。

名前が刻まれていないのに、どうしてネフェルティティだとわかるのですか?

上部が平らな青い冠のためです。名前入りの他の絵で、この冠をかぶっているのはネフェルティティだけです。また、王家の他の肖像とともに発見されたこともその理由です。

この胸像は金でできているのですか、それとも石でできているのですか?

石灰岩に石膏を塗り、彩色したものです。金色に見えるのは、冠に施された彩色の帯だけです。

この胸像は偽物ということはありませんか?

専門家はそうではないと考えています。使われている顔料は古代のものと一致し、CTスキャンは石膏の下に彫られた顔があるという古代の制作方法を示しており、同じ工房から出土した他の作品とも一致しているからです。

この胸像は違法に持ち出されたのですか?

これは議論のあるところです。ドイツは1913年に署名された出土品分配の記録を根拠とし、エジプトはエジプト側の監督官がこの作品の重要性や材質について誤って伝えられたと主張しています。法的にも倫理的にも、いまだ議論が続いています。

なぜベルリンはせめてエジプトに一時的にでも貸し出さないのですか?

博物館は、石と石膏の間にある空隙のため、この胸像は輸送するにはあまりに壊れやすいと分類しています。批判する人々は、貸与が永久的な返還への圧力を生むことを懸念しているのではないかと疑っています。

ネフェルティティは自らエジプトを統治したのですか?

その可能性はあります。多くのエジプト学者は、彼女をアクエンアテンの死後に短期間統治した女性ファラオ、ネフェルネフェルウアテンと同一視していますが、異論を唱える学者もおり、証拠は断片的です。

出典・参考文献

  1. Nefertiti Bust. Wikipedia
  2. Nefertiti. Wikipedia
  3. Thutmose (sculptor). Wikipedia
  4. Amarna. Wikipedia
  5. Amarna art. Wikipedia
  6. The Bust of Nefertiti. Staatliche Museen zu Berlin, Ägyptisches Museum und Papyrussammlung
  7. Discovery and Partage. Staatliche Museen zu Berlin, Ägyptisches Museum und Papyrussammlung
  8. The Bust. Staatliche Museen zu Berlin, Ägyptisches Museum und Papyrussammlung
  9. The Queen. Staatliche Museen zu Berlin, Ägyptisches Museum und Papyrussammlung
  10. The Presentation. Staatliche Museen zu Berlin, Ägyptisches Museum und Papyrussammlung

関連記事

上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。

← 地図に戻る