戦争

南北戦争

American Civil War · War of the Rebellion · War Between the States

1861–1865年 ·

ひとことで

1861年から1865年にかけて、奴隷制を守ろうとする南部の奴隷州11州が合衆国からの離脱を図り、アメリカで内戦が起きた。北部の連邦側が勝利し、奴隷制は廃止されたが、その後も自由と平等な市民権の意味をめぐる争いが続いた。

最初はやさしい入門です。下に進むほど詳しい説明や研究内容を読めます。

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子ども向け

約160年前、アメリカ合衆国は二つに分かれました。南部の州では、約400万人の黒人が奴隷にされていました。人間なのに物のように扱われ、賃金をもらわずに働かされ、家族と引き離されて売られることもあり、権利もありませんでした。北部の州では奴隷制は終わっていて、西の新しい土地に広がることを望まない人がたくさんいました。

1860年、奴隷制が広がることに反対するエイブラハム・リンカーンが大統領に選ばれました。南部の多くの指導者は、奴隷制がしだいになくなることを恐れました。そこで南部の11州は、アメリカ合衆国から離れ、「アメリカ連合国」という別の国をつくると宣言しました。

北部を中心とする合衆国側は「北軍」と呼ばれ、国を分けてはいけないと考えました。1861年4月、南部の軍がサウスカロライナ州にある北軍のサムター要塞を大砲で攻撃し、戦争が始まりました。戦争は4年間も続きました。大きな軍隊が、アンティータム、ゲティスバーグ、ビックスバーグなどで戦いました。

戦争中、奴隷にされていた人たちは自由を求めて北軍のもとへ逃げました。約20万人の黒人男性が北軍の兵士や水兵になりました。1863年、リンカーンは奴隷解放宣言を出し、反乱中の州で奴隷にされていた人々は自由だと宣言しました。1865年に南部の軍は降伏し、憲法修正第13条によって、国中で奴隷制が廃止されました。

この戦争では60万人をはるかに超える兵士が亡くなり、アメリカの歴史で最も多くの命が失われた戦争となりました。亡くなった兵士の多くは病気が原因でした。戦争の後も、南部をどう立て直すか、奴隷から解放された人たちが平等な市民として扱われるかについて、長い間議論が続きました。今も、この戦争をどう記憶するかが議論されています。

ひと目でわかる

期間
1861年4月12日(サムター要塞への攻撃)から1865年春まで(4月9日にアポマトックスで降伏、残る南軍部隊は同年6月までに降伏)
場所
アメリカ合衆国。主に南部諸州、ミシシッピ川流域、境界地域。大西洋岸とメキシコ湾岸では海戦も行われた
交戦勢力
アメリカ合衆国(北軍。20州以上の自由州と、奴隷制を維持した4つの境界州)対アメリカ連合国(合衆国から離脱した11の奴隷州)
中心的な原因
奴隷制の存続と西部の領土への拡大をめぐる対立
主な人物
エイブラハム・リンカーン、ユリシーズ・S・グラント、ウィリアム・T・シャーマン、フレデリック・ダグラス、ハリエット・タブマン、ジェファーソン・デイヴィス、ロバート・E・リー、アレクサンダー・スティーブンズ
死者
兵士の死者は従来、約62万人とされてきた。2011年に発表された国勢調査に基づく推計では約75万人(およそ65万~85万人)。民間人の死者数は不明
結果
北軍が勝利し、アメリカ連合国は解体。憲法修正第13条(1865年)により奴隷制が廃止された
戦後
再建期(1865~1877年)に憲法修正第14条と第15条が成立。その後、人種隔離と選挙権の剥奪が広がった

やさしい

南北戦争とは?

南北戦争は、1861年から1865年にかけてアメリカ合衆国の国内で起きた戦争である。一方は「北軍」や単に「北部」と呼ばれる連邦政府、もう一方は独立を宣言した南部11州がつくった新政府、アメリカ連合国だった。連合国は一般に「南部」と呼ばれた。

この戦争にはいくつもの呼び名がある。北部ではしばしば「反乱戦争」と呼ばれ、戦後に出版された軍の公式記録にもその名が使われた。南部の白人の多くは後に「州間戦争」という呼び名を好んだ。この言葉は、反乱ではなく対等な二つの国の戦争だったという印象を与える。韓国語では「南と北の戦争」を意味する「남북 전쟁」と呼ばれる。

戦争の規模は非常に大きかった。北軍には約200万人、南軍にはおそらく75万~100万人の男性が従軍した。南軍の記録は多くが失われたため、正確な人数については歴史家の意見が分かれる。戦場は北のペンシルベニア州から南のテキサス州やフロリダ州まで、大西洋岸からニューメキシコまで広がった。

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やさしい

なぜ戦争が起きたのか――中心にあった奴隷制

1860年、南部諸州に住む人のおよそ3人に1人にあたる約400万人が、奴隷にされていた。奴隷制は南部経済の土台であり、奴隷にされた人々は綿花、たばこ、砂糖、米を生産した。なかでも綿花はアメリカ最大の輸出品だった。一般的な歴史研究の推計によれば、「財産」とみなされた奴隷の価値は、国内の鉄道と工場をすべて合わせた価値よりも大きかった。奴隷にされた人々は、仕事の手を緩めたり逃亡したりと、さまざまな方法で抵抗したが、法律は彼らを守らなかった。

新たな西部の領土で奴隷制を認めるべきかどうかをめぐり、アメリカでは何十年も政治的な対立が続いた。1820年のミズーリ協定と1850年の妥協は問題の解決を図ったが、1850年の逃亡奴隷法は、奴隷制から逃れた人の送還に北部の人々も協力するよう強制し、多くの人の怒りを招いた。1854年のカンザス・ネブラスカ法は問題を再燃させ、カンザスでは暴力が起きた。1857年のドレッド・スコット判決で、最高裁判所は黒人のアメリカ人は市民になれず、連邦議会は領土内の奴隷制を禁止できないとした。1859年には、奴隷制廃止論者ジョン・ブラウンが奴隷蜂起を起こそうと、ハーパーズ・フェリーの連邦政府の武器庫を襲撃した。

エイブラハム・リンカーンと新しい共和党は、すでに奴隷制が存在する州での廃止を提案していたわけではない。しかし、その拡大は必ず阻止しようとしていた。1860年11月の大統領選挙でリンカーンが南部深層部の州を一つも制さずに当選すると、サウスカロライナ州は同年12月20日、合衆国からの離脱を宣言した。リンカーンの就任前に、さらに6州が続いた。各州が発表した公式の離脱理由は、奴隷制を守るためだと明言していた。1861年3月、連合国副大統領アレクサンダー・スティーブンズは「礎石演説」で、新政府は黒人が白人と平等ではなく、奴隷の身分が黒人の自然な状態だという考えに基づくと述べた。

後に、この戦争の真の原因は「州の権利」や関税だったと主張する人も現れた。しかし今日の歴史家は、奴隷制が中心的な原因だったという点で圧倒的に一致している。州の権利をめぐる対立は実際にあったが、その多くは奴隷制を維持し拡大する権利をめぐるものだった。実際、南部の指導者は奴隷制から逃れた人を捕らえるためなら、連邦政府が強い権限を行使することを支持していた。

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やさしい

だれとだれが戦ったのか?

北軍側には北部と西部の自由州に加え、奴隷制を維持した4つの「境界州」、デラウェア、メリーランド、ケンタッキー、ミズーリが含まれた。ウェストバージニアはバージニアから分かれ、1863年に新しい州として合衆国に加わった。北軍側は連合国の2倍を超える人口を持ち、国内の工場と鉄道の大半、そして海軍を擁していた。

連合国を構成したのは、開戦前に離脱したサウスカロライナ、ミシシッピ、フロリダ、アラバマ、ジョージア、ルイジアナ、テキサスと、サムター要塞で戦闘が始まった後に離脱したバージニア、アーカンソー、テネシー、ノースカロライナである。大統領はジェファーソン・デイヴィスで、首都はアラバマ州モンゴメリーからバージニア州リッチモンドへ移された。連合国は、北部が戦争を諦めるまで持ちこたえ、南部の綿花を必要とするイギリスとフランスに国家として承認されることを望んだ。

どちらの側も完全に一枚岩ではなかった。テネシー州東部など南部の山岳地帯には、北軍を支持する人が多かった。北部では「カッパーヘッド」とあだ名された民主党員の一部が南部との和平を望んだ。インディアン準州(現在のオクラホマ州)の先住民諸部族も意見が分かれ、双方の側で戦った。そして何より、奴隷にされていた400万人には、自由を得るという自分たち自身の目標があった。

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中級

戦争の経過(1861~1865年)

当初、両陣営は戦争が短く終わると予想した。1861年7月、ワシントン近郊での第一次ブルランの戦いで南軍が勝利し、長期戦になることが明らかになった。北軍は南部の港を封鎖し、ミシシッピ川を支配して連合国を分断する戦略を採った。これは「アナコンダ計画」と呼ばれることもある。西部戦線では、ユリシーズ・S・グラントが1862年初めにヘンリー要塞とドネルソン要塞を攻略し、4月の激戦、シャイローの戦いを生き延びた。同じ月、北軍の艦船がニューオーリンズを占領した。

東部戦線では、ロバート・E・リーが1862年に南軍の北バージニア軍の指揮を執り、一連の勝利を収めた。メリーランドへの侵攻は、1862年9月17日のアンティータムの戦いで終わった。この日はアメリカ史上、1日で最も多くの戦死者を出した日となった。リンカーンはこの部分的な勝利を受けて、奴隷解放予備宣言を発表した。リーは1862年12月のフレデリックスバーグの戦いと1863年5月のチャンセラーズビルの戦いでも勝利し、その後ペンシルベニアへ侵攻した。

1863年7月は転機となった。7月1~3日のゲティスバーグの戦いでリーの軍は敗れて撤退した。7月4日には、ミシシッピ川沿いの南軍の要塞都市ビックスバーグが長い包囲戦の末にグラントに降伏し、北軍が川を支配した。11月、リンカーンは短いゲティスバーグ演説を行い、「すべての人は平等に造られたという理念にささげられた」国家が存続できるかを試す戦争だと語った。

1864年、全軍の指揮を任されたグラントは、ウィルダネス、スポットシルベニア、コールドハーバーで犠牲の多い戦いを重ね、バージニアのリー軍に圧力をかけ、続いてピーターズバーグを包囲した。ウィリアム・T・シャーマンは1864年9月にアトランタを占領し、11月のリンカーン再選を後押しした。その後、ジョージア州を横断して海へ進み、鉄道、作物、財産を破壊して南部の戦う力と意志をくじこうとした。1865年4月、リーはリッチモンドを放棄し、4月9日にアポマトックス・コートハウスで降伏した。5日後、リンカーンはジョン・ウィルクス・ブースに撃たれ、翌朝死亡した。残る南軍部隊も、その後の数週間で降伏した。

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中級

合衆国を守る戦争から自由のための戦争へ

リンカーンは当初、境界州の支持を保つことも考え、目標は奴隷制の廃止ではなく合衆国の維持だと述べていた。しかし、奴隷にされていた人々自身が問題を前面に押し出した。開戦後の数か月から、彼らは北軍の陣地へ逃れた。1861年5月、バージニア州モンロー要塞の北軍将軍ベンジャミン・バトラーは、逃れてきた男性3人を「戦時禁制品」と呼び、送り返すことを拒んだ。その後、連邦議会は財産没収法を可決し、まもなく何千人もの人々が北軍のもとへたどり着いて自由を得るようになった。

リンカーンは総司令官としての権限を用い、1863年1月1日に奴隷解放宣言を発した。反乱を続ける地域で奴隷にされていた人々の自由を宣言したもので、国内の約400万人の奴隷の大半が対象となった。合衆国側にとどまった境界州や、北軍が支配する一部の地域には適用されず、北軍が進んだ場所でしか実施できなかった。それでも戦争の意味は変わった。北軍の前進は自由の拡大にもなり、イギリスやフランスが連合国に味方することも、はるかに難しくなった。

宣言は黒人兵士の入隊も認めた。約18万人の黒人男性が合衆国有色人部隊などの北軍部隊で、さらに約1万9000人が海軍で従軍し、その大半はかつて奴隷にされていた人々だった。黒人兵士の給与は1864年まで白人兵士より低く、捕虜になれば1864年のフォートピローのように虐殺されたり、再び奴隷にされたりする危険があった。フレデリック・ダグラスらは、従軍によって黒人のアメリカ人には市民権を求める強い根拠ができたと主張した。

奴隷解放宣言は戦時措置だったため、奴隷制廃止論者は恒久的な憲法改正を求めた。連邦議会は1865年1月に憲法修正第13条を可決し、同年12月に批准された。これにより、犯罪への処罰を除いて合衆国全土で奴隷制が廃止された。ただし、この例外は後に黒人受刑者を強制労働させるために使われた。1865年6月19日、北軍はテキサス州ガルベストンで奴隷解放を告げた。この日は「ジューンティーンス」として記念され、2021年に連邦の祝日となった。

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中級

人々が払った犠牲

1世紀以上にわたり、兵士の死者数には、19世紀後半の集計に基づく約62万人という数字が一般に使われてきた。2011年、歴史人口学者J・デイヴィッド・ハッカーは国勢調査のデータから死者を約75万人と推計し、妥当な範囲をおよそ65万~85万人とした。現在はこの高い推計を挙げる歴史家も多いが、どの数字も推計である。特に南軍の記録は不完全だ。

亡くなった兵士の約3人に2人は、銃弾ではなく赤痢、腸チフス、肺炎、はしかなどの病気で死亡した。捕虜収容所も危険な場所だった。ジョージア州のアンダーソンビルでは、北軍捕虜約1万3000人が死亡した。手足を切断されたり、長く続く心の傷を負ったりして帰郷した兵士も、さらに多かった。

民間人の死者数は一度も集計されなかった。ミズーリやカンザスでのゲリラ戦、農場の破壊、連合国内の飢え、過密な収容所での病気も命を奪った。北軍のもとへ逃れた元奴隷の人々は、病気が広がりやすい過密な「禁制品収容所」で暮らすことが多かった。ジム・ダウンズら一部の歴史家は、そこでの死者は多かったのに長く見過ごされてきたと論じるが、正確な人数は分からない。この戦争では何十万人もの人が配偶者や親を失い、南部経済も荒廃した。

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中級

再建期と果たされなかった約束(1865~1877年)

戦後、南部諸州をどのように合衆国へ戻すか、解放された人々にどのような権利を認めるかを決めなければならなかった。リンカーンの死後に大統領となったアンドリュー・ジョンソンは、白人指導者のもとで南部諸州が早く復帰することを認めた。各州は、解放された人々を厳しい条件の労働に戻そうとする「黒人法」を制定した。これに対し、連邦議会は1867年に再建の主導権を握り、黒人男性の投票権を認める新しい州憲法を求めた。

さらに二つの憲法修正条項が憲法を大きく変えた。修正第14条(1868年)は合衆国で生まれたすべての人を市民とし、「法の平等な保護」を約束した。修正第15条(1870年)は、人種を理由に投票権を拒むことを禁じた。1865年に設立された解放民局は、かつて奴隷にされていた人々に食料、学校、労働契約の面で支援を行った。解放された人々は教会や学校を建て、売買によって引き離された家族と再会した。約2000人の黒人男性が公職に就き、連邦上院議員にはハイラム・レベルズとブランシュ・K・ブルースもいた。

南部の白人による抵抗は暴力を伴った。クー・クラックス・クラン(KKK)などの集団は、黒人の指導者や有権者を殺害した。北部では介入への支持が弱まり、1876年の大統領選挙をめぐる争いの後、「1877年の妥協」によって再建期の州政府を守るための連邦軍の駐留が終わった。その後の数十年、南部諸州は「ジム・クロウ法」による人種隔離を進め、ほとんどの黒人市民から投票権を奪った。歴史家エリック・フォーナーは再建期を「アメリカの未完の革命」と呼んだ。その平等の約束が再び本格的に掲げられたのは、1950~1960年代の公民権運動においてだった。

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中級

戦争と世界

この戦争の影響はアメリカ合衆国の外にも及んだ。イギリスとフランスは連合国を承認しなかったが、承認の是非は議論された。イギリスで建造された通商破壊艦CSSアラバマなどは北軍側の船舶に被害を与えた。戦後、ジュネーブの国際仲裁裁判所は1872年、この「アラバマ号事件」の賠償金をイギリスに支払うよう命じた。紛争を仲裁で解決した初期の例である。海上封鎖はイングランドのランカシャー地方の繊維工業地帯に「綿花飢饉」を引き起こした。苦境の中でイギリスの労働者がどの程度北軍を支持したかについては、今も歴史家の間で議論がある。

海外の多くの人々は、この戦争を自由な労働と民主主義をめぐる闘いと見た。国際労働者協会は、カール・マルクスが起草した演説文で、1864年のリンカーン再選を祝った。北軍の勝利とアメリカの奴隷制廃止は、アメリカ大陸に残る奴隷制社会であるブラジルとキューバへの圧力を強めた。キューバでは1886年、ブラジルでは1888年に奴隷制が廃止された。敗れた連合国の人々の一部はブラジルに移住し、その子孫は今も「コンフェデラードス」と呼ばれている。

戦争は近隣諸国にも影響した。合衆国が分裂している間、フランスはハプスブルク家のマクシミリアンをメキシコ皇帝に据えた。1865年以降、合衆国はフランスに撤退を迫り、フランス軍は1866~1867年に撤退した。戦争で余った大量の武器は海外にも売られ、1860年代の動乱期にあった日本にも渡った。

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中級

戦争はどのように記憶されてきたか

北部では、この戦争は合衆国を守った勝利として、また多くの人には奴隷制を終わらせた闘いとして記憶された。北軍退役軍人は共和国大軍団を結成し、兵士の墓を花で飾る習慣は戦没将兵追悼記念日へと発展した。アフリカ系アメリカ人にとって、戦争は何よりも奴隷解放の歴史だった。人々は奴隷解放記念日やジューンティーンスを祝い、フレデリック・ダグラスらは戦争がなぜ戦われたのかを忘れてはならないと訴えた。

南部の白人の間では、「失われた大義」と呼ばれる強い影響力を持つ物語が生まれた。この呼び名は、リッチモンドのジャーナリスト、エドワード・A・ポラードが1866年に出した本の題名に由来する。「失われた大義」は、南部は奴隷制ではなく州の権利のために名誉をもって戦った、奴隷制は温情的で奴隷にされた人々は忠実だった、リーのような南軍の将軍は高潔な英雄だった、南部が敗れたのは北部の兵員と工場が多かったためだけだ、と主張した。連合国の娘たち連合会などの団体は数百もの記念碑を建て、学校の教科書にも影響を与えようとした。記念碑の多くはジム・クロウ時代や、その後の公民権運動の時代に建てられた。

20世紀初めまでに、北部と南部の多くの白人アメリカ人は、双方の兵士の勇敢さに焦点を当てる「和解」の物語を受け入れた。そこでは奴隷制と黒人のアメリカ人が脇に置かれた。映画『國民の創生』(1915年)はクー・クラックス・クランを賛美し、『風と共に去りぬ』(1939年)は南部のプランテーション社会を美化した。近年、特に2015年のチャールストンの教会での人種差別に基づく殺人事件や、2017年のシャーロッツビルでの暴力事件の後、多くの連合国の記念碑や旗が公共の場から撤去された。それらをめぐる議論は今もアメリカ政治の一部である。

アメリカ合衆国以外では、この戦争はリンカーンと奴隷制廃止を中心に教えられることが多い。たとえば韓国では、主にアメリカの奴隷制を終わらせた戦争として知られ、リンカーンのゲティスバーグ演説は民主主義を語る言葉として広く引用されている。

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一次史料

南北戦争は、19世紀の戦争の中でも特に多くの記録が残されている。合衆国政府は、双方の報告書、命令書、書簡を大量に収めた『The War of the Rebellion: Official Records of the Union and Confederate Armies』(1880~1901年)を刊行した。リッチモンドなどでの火災によって南軍の記録の一部が失われたため、この史料集は北軍側の記録のほうが充実している。また、報告書の多くは自己の行動を正当化しようとする将校によって書かれた。

戦争の原因を考えるうえでは、政治文書が重要である。サウスカロライナ、ミシシッピ、ジョージア、テキサスなどの州が出した離脱条例や「離脱理由宣言」、スティーブンズの礎石演説、リンカーンの演説や書簡、連邦議会での討論などがある。一般の人々の声も、何百万通もの兵士の手紙や日記、サウスカロライナのメアリー・チェスナットの日記のような女性の日記、双方の新聞に残っている。また、この戦争は写真が広く撮影された最初期の戦争の一つでもあった。アレクサンダー・ガードナーが撮影したアンティータムの死者の写真は、1862年にニューヨークのマシュー・ブレイディの展示室で公開され、人々に衝撃を与えた。

奴隷にされていた人々と解放された人々の声には、特に注意を向ける必要がある。フレデリック・ダグラスら黒人の奴隷制廃止論者の著作、黒人兵士の手紙、解放民局の記録などが史料となる。メリーランド大学に拠点を置く「解放民と南部社会プロジェクト」は、こうした文書を数多く出版している。1930年代に公共事業促進局が集めた、かつて奴隷にされていた高齢者への聞き取りも貴重だが、慎重に読む必要がある。話し手は非常に高齢で、聞き手は人種隔離下の南部の白人であることが多かったためだ。

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上級

歴史研究――「失われた大義」から奴隷解放史へ

初期の歴史書は、戦争の当事者が自分たちの側を擁護するために書いた。ジェファーソン・デイヴィスの『The Rise and Fall of the Confederate Government』(1881年)や、ジュバル・アーリーと南部歴史協会の著作は、「失われた大義」を一貫した物語として広める助けとなった。20世紀初めには、コロンビア大学のウィリアム・A・ダニングに学んだ歴史家たちの「ダニング学派」が、再建期を南部の白人に押しつけられた腐敗した悲劇として描いた。この見方は何十年も教科書や映画に影響した。W・E・B・デュボイスの『Black Reconstruction in America』(1935年)は、黒人の労働者と有権者の役割を重視してこれに異議を唱えたが、当初は白人の研究者の多くに無視された。

1920年代、チャールズ・ビアードとメアリー・ビアードは、戦争を工業資本主義と農業社会の衝突として解釈した。1930~1940年代には、ジェームズ・G・ランダルやエイブリー・クレイブンら、いわゆる「修正主義者」が、戦争は避けられたはずであり、過激派と「判断を誤った世代」が招いたものだと論じた。第二次世界大戦後、そして公民権運動の時代に、歴史家は奴隷制を中心問題として再び取り上げた。自由労働の理念に関するエリック・フォーナーの研究、ジェームズ・M・マクファーソンの『Battle Cry of Freedom』(1988年)、離脱危機に関する多くの研究を通じて、奴隷制が中心にあったという見方が学界の共通認識となった。

1980年代以降、歴史家は「だれが奴隷を解放したのか」と問いかけてきた。アイラ・バーリンをはじめとする「解放民と南部社会プロジェクト」の研究者は、逃亡して問題を突きつけた奴隷の人々による「自己解放」を重視した。一方、マクファーソンらは、リンカーンの決断と北軍の軍事的勝利が不可欠だったと強調した。現在は、その両方が補い合ったと考える研究者が多い。エリック・フォーナーの『Reconstruction』(1988年)はダニング学派の見方を覆し、デイヴィッド・W・ブライトの『Race and Reunion』(2001年)は、公の記憶から奴隷解放を脇に追いやることで白人同士の和解が実現した過程を示した。

現在の研究は、戦争の環境史や医療史、女性、先住民、移民の経験、ゲリラによる暴力、国際的な背景に加え、ハッカーの国勢調査に基づく推計のような死者数の問題も調べている。記念碑をめぐる議論が示すように、歴史研究は学問の中だけの問題ではない。戦争をどう説明するかは、今もアメリカ政治を形づくっている。

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主な戦い(40)

  1. カウペンスの戦い1781年
  2. サムター要塞の戦い1861年
  3. 第一次ブルランの戦い1861年
  4. ウィルソンズ・クリークの戦い1861年
  5. アンティータムの戦い1862年
  6. フレデリックスバーグの戦い1862年
  7. 第二次ブルランの戦い1862年
  8. シャイローの戦い1862年
  9. ハンプトン・ローズ海戦1862年
  10. ビックスバーグ方面作戦1862–1863年
  11. セブンパインズの戦い1862年
  12. ドネルソン砦の戦い1862年
  13. 半島方面作戦1862年
  14. バレー方面作戦1862年
  15. 北バージニア方面作戦1862年
  16. ストーンズリバーの戦い1862–1863年
  17. ヘンリー砦の戦い1862年
  18. サウス山の戦い1862年
  19. ペリービルの戦い1862年
  20. ゲティスバーグ演説1863年
  21. ゲティスバーグの戦い1863年
  22. チャンセラーズヴィルの戦い1863年
  23. チカマウガの戦い1863年
  24. ビックスバーグの包囲戦1863年
  25. 第三次チャタヌーガの戦い1863年
  26. ピケットの突撃1863年
  27. ゲティスバーグ方面作戦1863年
  28. コールドハーバーの戦い1864年
  29. 海への進軍1864年
  30. 荒野の戦い1864年
  31. スポットシルバニア・コートハウスの戦い1864年
  32. リッチモンド・ピータースバーグ方面作戦1864–1865年
  33. アトランタ方面作戦1864年
  34. アトランタの戦い1864年
  35. ナッシュビルの戦い1864年
  36. モービル湾の海戦1864年
  37. 第二次フランクリンの戦い1864年
  38. アポマトックス・コートハウスの戦い1865年
  39. ファイブフォークスの戦い1865年
  40. アポマトックス方面作戦1865年

重要なポイント

中心的な原因としての奴隷制
離脱した州自身が宣言したとおり、離脱は奴隷制を守るために行われた。歴史家の圧倒的多数は、それが対立の根本原因だったと考えている。
合衆国の維持
リンカーンと多くの北部の人々にとって、一つの民主国家を守ることが当初の戦争目的だった。やがて奴隷解放は、その目的と切り離せなくなった。
自己解放
北軍のもとへ逃れ、兵士としても従軍した奴隷の人々は、戦争を解放のための戦争へ変える力となった。
総力戦
戦争後期の作戦は南部の経済や資源も標的にし、軍隊と社会の境界を曖昧にした。
再建期
1865年以降に南部を立て直し、平等な市民権を確立しようとした時期。その成果は暴力と政治的妥協によって覆された。
失われた大義
連合国の戦いを州の権利を守る高潔な戦いとして語り直し、奴隷制の役割を隠した神話。記念碑、教科書、映画に影響を与えた。
対立する戦争の記憶
北部、南部の白人、アフリカ系アメリカ人の共同体は、この戦争を大きく異なる形で記憶し、その違いは今も対立を生んでいる。

記録

  1. 1850年 — 1850年の妥協と逃亡奴隷法。
  2. 1854年 — カンザス・ネブラスカ法により、領土内の奴隷制をめぐる問題が再燃。共和党が結成される。
  3. 1857年 — ドレッド・スコット判決が黒人の市民権を否定。
  4. 1860年 — 11月、リンカーンが大統領に当選。12月20日、サウスカロライナ州が合衆国から離脱。
  5. 1861年 — アメリカ連合国が成立。4月12日にサムター要塞が砲撃され、7月には第一次ブルランの戦いが起きる。
  6. 1862年 — シャイローの戦いとニューオーリンズの陥落。9月17日にアンティータムの戦い。奴隷解放予備宣言。
  7. 1863年 — 1月1日に奴隷解放宣言。7月にゲティスバーグの戦いとビックスバーグの陥落。11月にゲティスバーグ演説。
  8. 1864年 — グラントのオーバーランド方面作戦。アトランタが占領され、リンカーンが再選。シャーマンの海への進軍。
  9. 1865年 — 4月9日にリーがアポマトックスで降伏。リンカーンが暗殺される。ジューンティーンス。12月に憲法修正第13条が批准される。
  10. 1868年 — 憲法修正第14条が批准される。
  11. 1870年 — 憲法修正第15条が批准される。
  12. 1877年 — 1877年の妥協により再建期が終わる。

用語集

離脱
州が国や連邦から正式に抜けること。
アメリカ連合国
合衆国から離脱した南部11州がつくった政府(1861~1865年)。
北軍
アメリカ合衆国政府と、それに忠誠を保った州の側。
境界州
奴隷制を維持しながら合衆国側にとどまったデラウェア、メリーランド、ケンタッキー、ミズーリの4州。
奴隷制廃止論者
奴隷制を全面的かつ直ちに廃止するよう訴えた人。
戦時禁制品
北軍のもとへ逃れ、奴隷所有者のもとへ送り返されなかった人々を指す、戦時中の呼び名。
合衆国有色人部隊
黒人兵士で構成された北軍の部隊。将校は通常、白人だった。
再建期
南部諸州を立て直し、市民権を定め直した時期(1865~1877年)。
黒人法
解放された人々の権利と労働の自由を制限するため、1865~1866年に南部諸州が制定した法律。
ジム・クロウ
19世紀後半から1960年代まで南部で続いた、法律による人種隔離と選挙権剥奪の制度。

よくある質問

戦争の原因は本当に奴隷制だったのですか?

はい。離脱した州は自分たちの宣言でそう述べています。奴隷制とその拡大をめぐる対立が州の離脱と戦争を引き起こしたという点で、歴史家の見解は圧倒的に一致しています。州の権利などの問題も、奴隷制と深く結びついていました。

奴隷解放宣言ですべての奴隷が自由になったのですか?

すぐに全員が自由になったわけではありません。宣言は反乱中の地域に適用され、その実施には北軍の前進が必要でした。全国で奴隷制が廃止されたのは、1865年12月の憲法修正第13条によってです。

なぜ多くの兵士が病気で亡くなったのですか?

軍の宿営地には地方出身の若者たちが密集し、水は汚れ、病原体についてもほとんど分かっていませんでした。そのため、赤痢や腸チフスなどが急速に広がりました。

なぜ北部が勝ったのですか?

歴史家は、北軍側の多い人口と大きな工業力、海軍と鉄道、リンカーンとグラントの指導、黒人兵士の貢献、1863~1864年の重要な勝利などを挙げています。連合国内部の対立を重視する人もいます。勝利は初めから決まっていたとだけ考える歴史家は、今ではほとんどいません。

「失われた大義」とは何ですか?

戦後、南部の白人がつくった物語です。連合国は奴隷制ではなく州の権利のために高潔に戦ったと主張します。歴史家は、戦争の原因をゆがめ、人種隔離を正当化した神話だと考えています。

死者数はどのくらい確かですか?

いずれも推計です。長く使われてきた約62万人という数字は19世紀の集計に基づきます。2011年に発表された国勢調査に基づく研究は、幅は大きいものの約75万人と推計しました。南軍の記録は不完全で、民間人の死者数は一度も集計されていません。

出典・参考文献

  1. American Civil War. Wikipedia
  2. 남북 전쟁. 위키백과
  3. Emancipation Proclamation. Wikipedia
  4. Reconstruction era. Wikipedia
  5. Lost Cause of the Confederacy. Wikipedia
  6. James M. McPherson, Battle Cry of Freedom: The Civil War Era. Oxford University Press, 1988
  7. Eric Foner, Reconstruction: America’s Unfinished Revolution, 1863–1877. Harper & Row, 1988
  8. David W. Blight, Race and Reunion: The Civil War in American Memory. Belknap Press of Harvard University Press, 2001
  9. J. David Hacker, A Census-Based Count of the Civil War Dead. Civil War History 57, no. 4, 2011
  10. Jim Downs, Sick from Freedom: African-American Illness and Suffering during the Civil War and Reconstruction. Oxford University Press, 2012

上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。

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