戦争

第二次世界大戦

Second World War · Zweiter Weltkrieg · Великая Отечественная война · 第二次世界大戰 · 太平洋戦争

1939–1945年 ·

ひとことで

第二次世界大戦(1939~1945年、中国では1937年から)は史上最も多くの死者を出した戦争である。ナチス・ドイツ、ファシスト政権下のイタリア、帝国主義下の日本は征服による帝国の拡大を図ったが、ソビエト連邦、アメリカ、イギリス、中国を中心とする連合国に敗れた。犠牲者は約6,000万~7,500万人に上り、ホロコーストで殺害された約600万人のユダヤ人も含まれる。

最初はやさしい入門です。下に進むほど詳しい説明や研究内容を読めます。

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子ども向け

約80年前、世界中が大きな戦争に巻きこまれました。一方にはアドルフ・ヒトラーが率いるドイツと、イタリア、日本がいました。もう一方にはイギリス、ソビエト連邦(ロシアを含む大きな国)、アメリカ、中国など、多くの国がいました。

ドイツと日本は、力を使ってほかの国を支配しようとしました。アジアでは、日本はすでに1937年に中国を攻撃していました。ヨーロッパでは、1939年にドイツがポーランドに攻めこんで戦争が始まりました。戦いはヨーロッパ、北アフリカ、アジア、太平洋、大西洋へと広がりました。

この戦争では、兵士ではない人たちもひどい被害を受けました。町は爆撃されました。ナチス政権は、ユダヤ人であるという理由だけで、男性、女性、子ども約600万人を殺しました。これをホロコーストといいます。ロマの人たち、障害のある人たち、ポーランドの人たちなども大勢殺されました。

当時の朝鮮は日本に支配されていました。多くの朝鮮人が炭鉱や工場で働かされ、兵士にされた若い男性もいました。多くの少女や若い女性は、日本軍の兵士のために「慰安婦」として働くことを強いられました。これは、とてもひどい人権侵害でした。

戦争は1945年に終わりました。ドイツは5月に降伏し、日本はアメリカが広島と長崎に原子爆弾を落とした後の8月に降伏を表明しました。朝鮮の人たちにとって、1945年8月15日は日本の支配から解放された日です。戦後、国々は平和を守るために国際連合をつくりました。

ひと目でわかる

期間
1939年9月1日(ドイツのポーランド侵攻)~1945年9月2日(日本の降伏文書調印)。中国では1937年7月から日本との全面戦争
主な戦域
ヨーロッパ(西部戦線・東部戦線)、地中海・北アフリカ、大西洋、中国、東南アジア、太平洋
連合国
ソビエト連邦(1941年6月から)、アメリカ(1941年12月から)、イギリスと英連邦、中国、自由フランス、ポーランドなど
枢軸国
ドイツ、イタリア(1943年まで)、日本、およびハンガリー、ルーマニア、ブルガリアなどの同盟国。フィンランドはドイツと共同で戦った
死者数(推計)
飢餓や病気による死者を含め、約6,000万~7,500万人。過半数は民間人。ソビエト連邦では2,000万~2,700万人、中国では1,400万~2,000万人
ジェノサイド
ホロコーストでは、ナチス・ドイツと協力者が約600万人のユダヤ人を殺害。ロマ、障害のある人々、ソ連軍捕虜なども大量に殺害された
朝鮮
日本の植民地支配下にあり、大規模な労働動員・軍事動員と「慰安婦」制度があった。1945年8月15日に解放された後、北緯38度線で分断された
結果
連合国の勝利。ドイツと日本の占領、国際連合の創設、冷戦と脱植民地化の始まり

日付でたどる戦争

再生を押すと、地図上で戦争の流れを追えます。印は戦闘・出来事、矢印は記録に残る進軍路です。

1939年8月23日
1/20 · 独ソ不可侵条約とポーランド侵攻
ドイツと欧州枢軸同盟国(1941~44年の共同交戦国フィンランドを含む)イタリア(1943年9月まで)日本ソ連イギリスと英連邦アメリカ・フランス・ポーランドその他の連合国

段階

  1. 中国では1937年7月7日の盧溝橋事件以来、日本との全面戦争が続いていた。ヨーロッパでは、ヒトラーは独ソ不可侵条約(モロトフ=リッベントロップ協定)で東方の安全を確保したうえで1939年9月1日にポーランドへ侵攻し、その2日後に英仏がドイツに宣戦布告した。9月17日には同協定の秘密議定書に基づきソ連が東側から侵攻し、ポーランドは分割された。ポーランド軍の最後の野戦部隊は10月6日のコツクの戦いの後に降伏した。

    World War II (English Wikipedia)Marco Polo Bridge incident (English Wikipedia)Molotov–Ribbentrop Pact (English Wikipedia)Invasion of Poland (English Wikipedia)Soviet invasion of Poland (English Wikipedia)Battle of Kock (1939) (English Wikipedia)

最近の出来事

再生画面は、その日までに史料で確認できた事実を示すだけで、毎日新しい出来事があったという意味ではありません。月・年までしか分からない日付は期間として示し、点線の矢印は確認された2地点を結んだ概略線です。

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第二次世界大戦とは何か

第二次世界大戦は、主に二つの陣営の間で戦われた世界規模の戦争である。ドイツ、イタリア、日本とその同盟国からなる枢軸国は、領土を征服して帝国を拡大しようとした。これを阻止するため、ソビエト連邦、アメリカ、大英帝国と英連邦、中国を中心に、ほかの多くの国や抵抗運動が連合国として戦った。

一般に、戦争の期間はドイツのポーランド侵攻から日本の降伏までの1939~1945年とされる。しかし東アジアでは、より早く始まったと考える歴史家も多い。日本は1931年に満州を占領し、1937年7月には日中間の全面戦争が始まった。中国にとって戦争は8年間、1931年から数えれば14年間続いた。ソビエト連邦にとって中心となる経験は、ロシアで「大祖国戦争」と呼ばれる1941~1945年の対ドイツ戦争だった。

これは人類史上最大規模で、最も多くの死者を出した戦争である。死者は約6,000万~7,500万人と推計され、その大半は民間人だった。ジェノサイド、都市への大規模爆撃、数百万人の労働者の強制移送と奴隷化、飢餓、そして戦争で初めて、また現在まで唯一となる核兵器の使用が起きた。

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やさしい

なぜ戦争は起きたのか

第一次世界大戦とその講和は、特にドイツに深い不満を残した。1929年に始まった世界恐慌は大量失業を引き起こし、過激な運動が支持を得る一因となった。イタリアでは、ベニート・ムッソリーニ率いるファシスト党が1922年に政権を握った。ドイツでは、アドルフ・ヒトラーとナチ党が1933年に政権を握り、人種主義的な民族主義、反ユダヤ主義、再軍備、東ヨーロッパでの「生存圏」(レーベンスラウム)の獲得を掲げた。

日本では軍部の政治的影響力が強まった。日本はすでに台湾(1895年)と朝鮮(1910年に併合)を植民地にしていた。1931年、日本軍は満州を占領し、傀儡国家の満州国を建てた。1937年7月、北京近郊の盧溝橋での衝突が中国との全面戦争に発展した。日本軍は同年12月に南京を占領し、大量殺害と強姦を行った。南京大虐殺の犠牲者数の推計には大きな幅があり、政治的にも論争が続いている。多くの歴史家は数万人から約20万人以上という数字を挙げ、中国政府の公式な数字は30万人である。

ヨーロッパでは、ドイツが再軍備を進め、ラインラントに再進駐し(1936年)、オーストリアを併合した(1938年3月)。さらにミュンヘンでのイギリス・フランスの同意を得て、チェコスロバキアからズデーテン地方を獲得した(同年9月)。イギリスとフランスは新たな戦争を避けようと「宥和政策」をとった。1939年3月、ドイツはチェコの残りの地域を占領した。同年8月、ドイツとソビエト連邦は独ソ不可侵条約(モロトフ=リッベントロップ協定)を結び、秘密議定書で東ヨーロッパを分割することを決めた。9月1日にドイツがポーランドへ侵攻し、3日にイギリスとフランスが宣戦布告した。

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1939~1941年のヨーロッパ:ドイツの初期の勝利

ポーランドは数週間で敗れた。西からドイツが攻撃し、9月17日には東からソビエト連邦が侵攻した。占領した両国はポーランド人を残酷に扱った。ドイツ側はポーランドの指導層を殺害し、ユダヤ人への迫害を始めた。ソ連側は数十万人を強制移住させ、1940年にはカティンなどでポーランド軍将校ら約2万2,000人を殺害した。

1940年春、ドイツはデンマークとノルウェーを征服し、続いて約6週間でオランダ、ベルギー、ルクセンブルク、フランスを破った。イギリス軍とフランス軍の部隊はダンケルクから撤退した。フランスは休戦協定を結び、北部は占領された。ヴィシーにはドイツに協力する政権が置かれ、一方でシャルル・ド・ゴールはロンドンから「自由フランス」を率いた。ウィンストン・チャーチル首相の下、イギリスはヨーロッパで戦い続け、バトル・オブ・ブリテンでドイツの空襲に抗した。

イタリアは1940年6月に参戦し、北アフリカとバルカン半島で戦ったが、しばしばドイツの支援を必要とした。1941年にはドイツがユーゴスラビアとギリシャを征服した。占領下のヨーロッパ各地では抵抗運動が生まれる一方、占領者に協力する人々もいた。抵抗、協力、生き延びるための行動をどう捉えるかは、今も多くの国で繊細な問題である。

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中級

東部の戦争:史上最大の地上戦

1941年6月22日、ドイツと同盟国はバルバロッサ作戦でソビエト連邦に侵攻した。これは史上最大規模の侵攻だった。東部での戦争は、当初から殲滅戦として計画されていた。ドイツ軍はレニングラードとモスクワの近郊まで進んだ。レニングラードは約900日間包囲され、主に飢餓によって約100万人以上の民間人が死亡した。ドイツ軍の捕虜となったソ連兵も、一般的な推計で約300万人が飢え、病気、処刑によって死亡した。

赤軍は1941年12月、モスクワの手前でドイツ軍を止めた。ドイツ軍の一軍が降伏して終わったスターリングラード攻防戦(1942~1943年)は、戦争の転換点と広くみなされている。1943年にドイツ軍がクルスクで敗れると、ソ連軍は西へ進んだ。1944年のバグラチオン作戦でドイツ中央軍集団を壊滅させ、ポーランドとドイツへの道を開いた。赤軍は1945年4月末から5月初めにベルリンを制圧した。

東部戦線ではドイツ軍の戦死者の過半数が出た。ソビエト連邦の死者は2,000万~2,700万人と推計され、国別では最多だった。ベラルーシ、ウクライナ、バルト諸国、ロシア西部は占領、集団銃殺、村々の焼き払い、飢餓に苦しんだ。ソ連政権も戦時中に暴力を行使し、忠誠を疑われたチェチェン人やクリミア・タタール人など、民族全体を強制移住させた。

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中級

ホロコーストとナチスによるその他の犯罪

ホロコーストとは、1933年以降の差別と暴力に続き、1941~1945年にナチス・ドイツとその同盟国・協力者がヨーロッパのユダヤ人約600万人を組織的に迫害し、殺害したことである。ユダヤ人は権利と財産を奪われ、ゲットーに押し込められた後、殺害された。占領下のソ連領では、アインザッツグルッペンなどの部隊が現地の協力者とともに集団銃殺を行った。占領下のポーランドでは、アウシュヴィッツ=ビルケナウ、トレブリンカ、ソビブル、ベウジェツ、ヘウムノ、マイダネクなどの殺害施設で、犠牲者がガスによって殺された。

ロマとシンティも絶滅の対象とされた。ロマの犠牲者数の推計には大きな幅があり、約20万~50万人とされる。ナチスは戦前から戦中にかけて、「安楽死」計画によって約25万人の障害のある人々を殺害した。ポーランドの民間人、ソ連軍捕虜、政治的反対者、同性愛者の男性、エホバの証人なども迫害され、殺された。占領下のヨーロッパから数百万人が強制労働者としてドイツへ移送された。

ホロコーストを裏付ける証拠は膨大にある。ドイツの行政記録、生存者・加害者・目撃者の証言、写真、収容所の遺構などである。アムステルダムの隠れ家で書かれたアンネ・フランクの日記や、後に書かれたプリーモ・レーヴィとエリ・ヴィーゼルの回想録など、生存者の証言は世界の理解を形づくってきた。ユダヤ人による抵抗には、1943年のワルシャワ・ゲットー蜂起、トレブリンカとソビブルでの反乱がある。

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中級

アジア・太平洋戦争

中国は最も長く戦い続けた。蔣介石率いる国民党軍と毛沢東率いる共産党軍は、互いに対立しながらも日本と戦った。中国軍は8年間、大勢の日本軍を中国にとどめた。日本軍は虐殺を行い、華北で「三光作戦」と呼ばれる対ゲリラ作戦を実施し、重慶などの都市を爆撃した。満州の731部隊による人体実験を含め、生物兵器・化学兵器も使用した。中国の死者は1,400万~2,000万人と推計され、さらに数千万人が難民となった。

石油や原料を求め、アメリカの禁輸措置にも直面していた日本は、1941年12月7日に真珠湾のアメリカ艦隊を攻撃し、同時に英領マラヤ、香港、フィリピンにも攻撃を仕掛けた。数か月のうちにシンガポール、オランダ領東インド(現在のインドネシア)、ビルマなど東南アジアを征服し、「大東亜共栄圏」を掲げてアジアの解放者を自称した。実際の占領下では、強制労働、食料の徴発、苛烈な弾圧が行われた。連合国軍の捕虜と数十万人のアジア人労働者(「労務者」)は泰緬鉄道の建設を強いられた。1944~1945年のベトナムと1943年の英領ベンガルでは飢饉が起き、ベンガルでは戦時政策が被害を悪化させた。

戦局はミッドウェー海戦(1942年6月)とガダルカナル島の戦い(1942~1943年)で変わった。アメリカ軍は島々を次々に攻略して太平洋を進み、イギリス軍とインド軍はビルマで戦った。1945年の硫黄島と沖縄での戦いは極めて激しく、沖縄では多くの民間人が死亡し、集団自決を強いられたり、追い込まれたりした人々もいた。アメリカ軍の爆撃機は焼夷弾による空襲で日本の都市を破壊し、1945年3月の東京大空襲では一夜で約10万人が死亡した。8月6日と9日、アメリカは広島と長崎に原子爆弾を投下し、1945年末までに計約15万~24万6,000人が死亡したと推計される。8月8日にはソビエト連邦が日本に宣戦布告し、満州へ侵攻した。日本は8月15日に降伏を表明し、9月2日に降伏文書に調印した。

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中級

戦時中の日本統治下にあった朝鮮

朝鮮は1910年以来日本の植民地だったため、独立した国家として戦争に参加していない。1937年以降、植民地政府は強制的な同化政策を進めた。朝鮮人は神社参拝、天皇への忠誠を誓う言葉の唱和、学校での日本語使用を求められ、1940年からは日本式の氏名を名乗る創氏改名も進められた。1938年の国家総動員法は朝鮮にも適用され、国が戦争のために労働力と資源を配分できるようになった。

多くの朝鮮人が、朝鮮、日本、樺太、満州、太平洋の島々にある鉱山、工場、建設現場、軍事施設での労働に動員された。動員は、名目上は自発的な「募集」(1939年から)から、「官斡旋」(1942年から)を経て、国民徴用令による正式な徴用(朝鮮人には1944年から適用)へと移ったが、どの段階でも強制が広く見られた。動員数の推計は数え方によって大きく異なる。朝鮮内での動員や同じ人の反復動員を含む延べ約540万人という数字がよく挙げられる一方、労働のため朝鮮外へ連れて行かれた人は一般に数十万人と推計される。多くの人が危険な環境で働き、賃金は少ないか支払われず、死亡した人もいた。朝鮮人は1938年から「志願兵」として、1944年からは徴兵によって兵士にもなった。また軍属にも採用され、捕虜収容所の監視員となった人の中には、戦後に連合国から戦犯として裁かれた人もいた。

日本軍は帝国の各地に「慰安所」を設け、女性や少女を兵士の性的な目的のために拘束した。被害者は朝鮮、中国、台湾、フィリピン、インドネシア、オランダなどの出身で、朝鮮人女性は最大規模の集団の一つだった。被害者の総数には大きな推計幅があり、一般に約2万~20万人とされるが、さらに多いとする研究者もいる。多くの人が仕事の約束でだまされたり、力ずくで連れ去られたりし、生存者は繰り返された強姦と虐待を証言した。1991年に金学順が証言すると、この問題は広く知られるようになった。日本政府は1993年の河野談話で軍の関与と強制性を認めて謝罪した。2015年の日韓合意では10億円を拠出する基金が設けられたが、多くの被害者と支援者は合意を受け入れず、論争は続いている。日本の一部の政治家や著述家は強制性を否定するが、生存者、国連の人権機関、多くの歴史家はこの制度を性奴隷制と捉えている。

広島と長崎への原爆投下では、労働者を含む数万人の朝鮮人も被害を受けた。朝鮮の独立運動家たちは戦い続けた。中国にあった大韓民国臨時政府は1941年12月に日本に宣戦布告し、その韓国光復軍は1940年に結成されていた。満州や中国共産党軍とともに活動した朝鮮人戦闘員もいた。1945年8月15日の日本の降伏表明は朝鮮に解放(光復)をもたらしたが、朝鮮半島は直ちに北緯38度線を境としてソ連とアメリカの占領地域に分けられ、朝鮮分断の出発点となった。

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中級

西側連合国の戦いとドイツの敗北

大西洋では、ドイツの潜水艦がイギリスへの補給路を断とうとした。連合国の船団護衛、ブレッチリー・パークでのエニグマ暗号の解読を含む暗号解読、航空機による哨戒によって、1943年までに連合国が次第に優勢となった。アメリカはレンドリース法に基づき、イギリス、ソビエト連邦、中国へ大量の軍需品を供給した。北アフリカでは、イギリス軍と英連邦軍が1942年のエル・アラメインの戦いでドイツ軍とイタリア軍を破り、英米軍はモロッコとアルジェリアに上陸した。

連合国は1943年にシチリア島とイタリア本土へ侵攻した。ムッソリーニは失脚し、イタリアは降伏したが、その後ドイツに占領された。これにより長い戦役と、抵抗運動勢力とファシスト政権のサロ共和国との間の内戦が起きた。1944年6月6日(Dデー)、連合国軍はノルマンディーに上陸し、8月にはパリを解放した。イギリス軍とアメリカ軍の爆撃機は戦争を通じてドイツの都市を攻撃した。ハンブルク(1943年)とドレスデン(1945年)への空襲では、それぞれ一連の攻撃で数万人の民間人が死亡した。都市を広く狙う地域爆撃の倫理性と有効性については、今も議論がある。

ドイツ最後の攻勢であるアルデンヌでのバルジの戦い(1944年12月)は失敗した。連合国軍が東西からドイツに進むと、強制収容所を解放し、ナチスの犯罪の全容を明らかにした。ヒトラーは1945年4月30日にベルリンで自殺し、ドイツは5月7~8日に無条件降伏した。

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中級

人的被害と戦争の影響

死者数の推計には不確かさがあるが、その規模は甚大である。戦争に伴う飢餓や病気による死者を含め、約6,000万~7,500万人とされる。半数以上が民間人だった。ソビエト連邦と中国を合わせると、全死者の半数を超える。ポーランドでは戦前の人口の約17%が死亡し、その中には約300万人のポーランドのユダヤ人が含まれる。ドイツの死者は約700万人、日本の死者は250万~310万人と推計される。東南アジア、インド、朝鮮などの植民地の数字は特に不確かである。

戦争によって数千万人が難民や避難民となった。1944~1950年には、約1,200万人以上の民族的ドイツ人が東ヨーロッパから逃れ、または追放された。旧日本帝国の各地から数百万人の日本兵や入植者が引き揚げ、多くの朝鮮人も日本から帰国した。一方、日本にとどまった人や樺太に取り残された人もいた。ドイツと日本は占領され、ニュルンベルク裁判と東京裁判では、指導的立場にあった人々が平和に対する罪、戦争犯罪、人道に対する罪で裁かれた。

戦争は世界秩序を変えた。アメリカとソビエト連邦が超大国となり、両国の対立はまもなく冷戦へ発展して、ドイツと朝鮮を分断した。国際連合は1945年に創設され、1948年には世界人権宣言が採択され、ジェノサイド条約も成立した。弱体化して正統性を失ったヨーロッパの植民地帝国は解体へ向かい、その後の数十年間でインド、インドネシア、フィリピン、ベトナムなど多くの国が独立した。

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上級

各国は戦争をどう記憶しているか

戦争の記憶は国によって大きく異なる。ドイツでは、当初の沈黙や反発を経て、「過去の克服」(フェアガンゲンハイツベヴェルティグング)という長い過程の中で、ナチスの犯罪とホロコーストを認めることが公共文化の中心となった。ベルリンの「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑」などがその例である。ロシアでは、5月9日に祝う大祖国戦争の勝利が国民的な自己認識の柱であり、独ソ不可侵条約やソ連の犯罪は扱いの難しい問題である。イギリスとアメリカでは、戦争は悪に立ち向かった「正義の戦争」として記憶されることが多いが、歴史家は都市への爆撃や原爆投下を問い直してきた。

日本では戦争の記憶が分かれている。広島と長崎は強い平和主義の伝統の中心にあり、自国民を主に戦争の被害者として捉える日本人も多い。同時に、学校教科書、戦犯として有罪判決を受けた人々も戦没者として合祀されている靖国神社、南京大虐殺、強制労働、「慰安婦」をめぐる論争が長く続いている。1995年の村山富市首相談話のような公式の謝罪がある一方、日本の責任を軽く見せる政治家の発言もある。

中国では抗日戦争が国民的記憶の中心であり、国民党と共産党それぞれの役割の強調のされ方は時代とともに変わってきた。韓国では、戦争は主に植民地支配の経験を通して記憶される。強制動員、「慰安婦」、独立運動が重視され、8月15日の光復節に記念される。元徴用工らによる訴訟では、2018年に韓国大法院が日本企業へ賠償を命じたが、請求権は国交を正常化した1965年の条約で解決済みとする日本の立場と衝突し、両国関係を繰り返し緊張させてきた。1992年以来ソウルで続く毎週の抗議集会や「平和の少女像」は、「慰安婦」問題を社会に問い続けている。東南アジア、インド、アフリカでは、植民地出身の兵士、飢饉、独立への道のりが記憶の中心となっている。

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上級

一次史料と歴史研究

戦争に関する史料は膨大である。政府・軍の文書館資料、ニュルンベルク裁判で使われたドイツ側の押収文書、日記、手紙、写真、映像、生存者の証言などがある。一方で、多くの資料は破棄された。日本当局は1945年8月に多数の文書を焼却したため、「慰安婦」や強制労働などの研究は難しくなり、生存者の証言と各地に残った文書が特に重要になった。1991年以降にソ連の文書館が公開されると、東部戦線やソ連による弾圧の研究は大きく進んだ。

歴史家は戦争の起源について議論してきた。例えばA・J・P・テイラーは1961年、ヒトラーは計画を持った人物というより機会主義者だったと論じたが、これは論争を呼び、ヒトラーの思想上の目標を重視する多数派の見解と対立した。ホロコースト研究では、ラウル・ヒルバーグによる殺害を進めた官僚機構の研究から、ジェノサイドは以前からの計画に従ったのか、それとも段階的に急進化したのかをめぐる「意図派」と「機能派」の論争へと進んだ。近年は現地の加害者、被害者の経験、ヨーロッパ各地での協力関係も詳しく研究されている。

ゲルハルト・ワインバーグの『A World at Arms』(1994年)のような世界史的研究は、すべての戦域を一体として扱う重要性を示した。ラナ・ミッターらの研究は、西洋の記述で長く軽視されてきた中国の中心的役割を明らかにした。原爆使用の決定、レンドリースの役割、勝利へのソ連の貢献、そして朝鮮人、インド人、アフリカ人、東南アジアの人々を含む植民地やヨーロッパ以外の経験を、かつて大国中心に語られた歴史へどう組み込むかについても議論が続いている。

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主な戦い(36)

  1. ソビエト連邦によるポーランド侵攻1939年
  2. ラプラタ沖海戦1939年
  3. ヴェステルプラッテの戦い1939年
  4. バトル・オブ・ブリテン1940年
  5. カティンの森事件1940年
  6. ヴェーザー演習作戦1940年
  7. ダンケルクの戦い1940年
  8. タラント空襲1940年
  9. バビ・ヤール1941年
  10. クレタ島の戦い1941年
  11. イラン進駐 (1941年)1941年
  12. ギリシャの戦い1941年
  13. ミッドウェー海戦1942年
  14. トーチ作戦1942年
  15. ガダルカナル島の戦い1942–1943年
  16. シンガポールの戦い1942年
  17. ディエップの戦い1942年
  18. クルスクの戦い1943年
  19. ハスキー作戦1943年
  20. 第三次ハリコフ攻防戦1943年
  21. ワルシャワ蜂起1944年
  22. ノルマンディーの戦い1944年
  23. ヒトラー暗殺計画1944年
  24. モンテ・カッシーノの戦い1944年
  25. レイテ沖海戦1944年
  26. アーヘンの戦い1944年
  27. マリアナ沖海戦1944年
  28. ブダペスト包囲戦1944–1945年
  29. ペリリューの戦い1944年
  30. アンツィオの戦い1944年
  31. ファットマン1945年
  32. 沖縄戦1945年
  33. 日本の降伏1945年
  34. ソビエト連邦による満洲侵攻1945年
  35. 天号作戦1945年
  36. 日本の降伏文書1945年

重要なポイント

征服戦争
ナチス・ドイツは東ヨーロッパでの「生存圏」を、日本帝国は東アジアと東南アジアでの帝国の拡大を求めた。両国は占領、略奪、人種的序列づけを伴う戦争を行った。
殲滅戦
東部戦線と中国では、軍隊を破るだけでなく、住民を滅ぼしたり従属させたりすることも戦争の目的となり、極めて多くの死者が出た。
ジェノサイド
約600万人のユダヤ人を殺害したホロコーストやロマなどの殺害を受け、戦後の1948年にジェノサイド条約が成立した。
植民地からの動員
両陣営の帝国は植民地から兵士、労働者、食料を得て、性的搾取も行った。日本の支配下にあった朝鮮はその明確な例である。
標的となった民間人
戦略爆撃、包囲、飢餓、虐殺、強制移送により、死者の過半数は民間人となった。
新しい世界秩序
連合国の勝利は国際連合、戦争犯罪裁判、人権に関する国際法につながった。同時に、冷戦、ドイツと朝鮮の分断、脱植民地化も進んだ。
対立する戦争の記憶
戦争の記憶は国によって大きく異なり、謝罪、賠償、教科書をめぐる論争は東アジアやヨーロッパで今も続いている。

記録

  1. 1931年 — 日本が満州を占領する(満州事変)。翌年、満州国を建てる。
  2. 1937年 — 7月、日中間の全面戦争が始まる。12月、南京が陥落し、南京大虐殺が起きる。
  3. 1938年 — ドイツがオーストリアを併合。ミュンヘン協定が結ばれる。国家総動員法が日本と朝鮮に適用される。
  4. 1939年 — 8月23日、独ソ不可侵条約。9月1日、ドイツがポーランドへ侵攻。9月3日、イギリスとフランスが宣戦布告。
  5. 1940年 — ドイツが西ヨーロッパを征服し、フランスが敗れる。バトル・オブ・ブリテン。中国で韓国光復軍が結成される。
  6. 1941年 — 6月22日、ドイツがソビエト連邦へ侵攻し、ユダヤ人の集団銃殺が始まる。12月7日、日本が真珠湾と東南アジアを攻撃。
  7. 1942年 — ヴァンゼー会議でユダヤ人の「最終的解決」が調整される。ミッドウェー海戦、スターリングラード攻防戦、エル・アラメインの戦い。
  8. 1943年 — 2月、スターリングラードでドイツ軍が降伏。ワルシャワ・ゲットー蜂起。連合国がイタリアへ侵攻。ベンガル飢饉。
  9. 1944年 — 朝鮮人にも徴兵が実施される。6月6日、ノルマンディー上陸作戦。バグラチオン作戦。
  10. 1945年 — 1月27日、アウシュヴィッツが解放される。5月8日、ドイツが降伏。8月6日と9日、原爆投下。8月15日、日本が降伏を表明し、朝鮮が解放される。9月2日、降伏文書に調印。
  11. 1946年 — ニュルンベルク裁判の判決。東京裁判が開廷。

用語集

枢軸国
ドイツ、イタリア、日本が1940年の日独伊三国同盟で正式に結んだ同盟と、その協力国。
宥和政策
戦争を避けようとして、1930年代にイギリスとフランスがヒトラーに譲歩した政策。
ホロコースト/ショアー
ナチスによるヨーロッパのユダヤ人のジェノサイド。「ショアー」はヘブライ語で「破局」を意味する。
アインザッツグルッペン
占領下のソ連領で100万人を超えるユダヤ人などを銃殺した、ドイツの移動式殺害部隊。
「慰安婦」
日本軍のために性的な奉仕を強いられた女性や少女を指す婉曲表現。かぎ括弧は、この言葉が虐待の実態を隠していることを示す。
強制動員(강제동원)
植民地の人々を労働や軍務のために強制的に集めること。朝鮮では戦時中の労働者、兵士、軍属の動員を指す。
レンドリース
1941年からアメリカがイギリス、ソビエト連邦、中国などの連合国に軍需品を供給した制度。
無条件降伏
交渉で条件を定めずに枢軸国が降伏するよう求めた連合国の方針。1943年に表明された。
光復(광복)
「光を取り戻す」という意味の朝鮮語。1945年8月15日の日本の支配からの解放を指す。

よくある質問

第二次世界大戦は実際にはいつ始まったのですか。

ヨーロッパでは通常、1939年9月1日を開始日とする。中国では日本との全面戦争が1937年7月に始まり、1931年の日本による満州占領から数える人もいる。どの日付を用いるかは、どの地域の戦争を記述するかによって異なる。

なぜこれほど多くの民間人が殺されたのですか。

枢軸国が征服と殲滅を目的とする戦争を行い、都市が空から爆撃され、封鎖、占領、強制的な物資徴発が飢餓と病気を引き起こしたためである。ホロコーストでは、ユダヤ人の民間人が意図的に殺害の対象とされた。

朝鮮人は日本側だったのですか。

朝鮮は日本の植民地で、朝鮮人は法律上日本の臣民とされ、多くの人が労働や軍務を強いられた。自ら協力した人も少数いた一方、大韓民国臨時政府や韓国光復軍などで独立のために戦った人もいた。朝鮮では、この戦争は主に植民地支配による抑圧の時代として記憶されている。

「慰安婦」問題とは何ですか。

日本軍のための性的な奉仕を強いられたり、だまされて従事させられたりした女性や少女に関する問題である。日本は1993年の河野談話で軍の関与を認めて謝罪したが、強制性、法的責任、賠償、教育での扱いをめぐる論争は続いている。

なぜアメリカは原子爆弾を使ったのですか。

アメリカの指導者は、早く戦争を終わらせ、多数の犠牲が見込まれる日本本土への侵攻を避けたかったと説明した。歴史家の間では、特にソ連の対日参戦後、原爆がなくても日本は降伏したか、また戦後の対ソ連関係が決定にどう影響したかが議論されている。

ホロコーストが記述どおりに起きたと、どうして分かるのですか。

ナチスの文書、加害者の自白や裁判での証言、生存者や収容所を解放した兵士の証言、写真、人口統計、収容所の遺構など、膨大で互いに独立した証拠があるからである。

死者数の数字はどのくらい確かですか。

いずれも推計で、幅を持たせて示されることが多い。記録が破棄されたり、初めから残されていなかったりしたうえ、国境も変わった。飢餓や病気による死亡を戦争にどこまで結びつけるかも難しい。中国、ソビエト連邦、植民地の数字は特に不確かである。

なぜ韓国と日本は今も戦争について対立しているのですか。

強制労働や「慰安婦」など、植民地時代の被害について日本が十分に認めて賠償したか、また1965年の条約によって個人の請求権が解決されたかについて見解が異なるためである。この対立には法律、外交、歴史の記憶、国民としての自己認識が関わっている。

出典・参考文献

  1. World War II. Wikipedia
  2. World War II casualties. Wikipedia
  3. The Holocaust. Wikipedia
  4. Introduction to the Holocaust. United States Holocaust Memorial Museum, Holocaust Encyclopedia
  5. Nanjing Massacre. Wikipedia
  6. Korea under Japanese rule. Wikipedia
  7. Comfort women. Wikipedia
  8. 위안부. 한국어 위키백과
  9. Gerhard L. Weinberg, A World at Arms: A Global History of World War II. Cambridge University Press, 1994
  10. Rana Mitter, Forgotten Ally: China's World War II, 1937–1945. Houghton Mifflin Harcourt, 2013

上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。

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