戦争

三十年戦争

German: Dreißigjähriger Krieg

1618–1648年 ·

ひとことで

三十年戦争(1618~1648年)は、宗教と権利をめぐるボヘミアの反乱から始まり、主にドイツの地で戦われるヨーロッパ規模の戦争へと広がった。戦闘、飢え、病気で数百万人が死亡し、神聖ローマ帝国とヨーロッパの勢力図を変えたウェストファリア条約によって終結した。

最初はやさしい入門です。下に進むほど詳しい説明や研究内容を読めます。

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子ども向け

約400年前、ヨーロッパの中央には、小さな国や地域が何百もありました。王国、公国、自由都市、司教が治める土地などで、どれも神聖ローマ帝国に属していました。支配者にはカトリックのキリスト教徒もプロテスタントのキリスト教徒もいて、たがいを信用していませんでした。

1618年、プラハという町で、怒ったプロテスタントの貴族たちが、王の役人2人と書記1人を城の高い窓から投げ落としました。おどろくことに、3人とも助かりました。しかし、この「窓外投擲事件」をきっかけに反乱が始まり、戦争へと広がりました。

やがてスペイン、デンマーク、スウェーデン、フランスの軍隊も戦いに加わりました。戦いの多くはドイツの地域で起こりました。兵士たちは給料をきちんともらえないことが多く、村から食べ物やお金、家畜をうばいました。焼かれた村もたくさんありました。戦いそのものより、飢えやペストなどの病気で、さらに多くの人が亡くなりました。

30年がたち、みんなが戦争に疲れきりました。1648年、外交官たちがミュンスターとオスナブリュックという二つの町で和平を結びました。これがウェストファリア条約です。カトリック、ルター派、カルヴァン派の支配者が共存することを認め、いくつかの国境も変えました。

戦争はとても悲惨だったため、ドイツの人々は何世紀にもわたって、大きな苦しみの時代として記憶しました。作家たちは戦争を物語や劇にしました。たとえば、シンプリチウスという少年が戦争の中をさまよう小説があります。

ひと目でわかる

期間
1618年5月23日~1648年10月24日
主な地域
神聖ローマ帝国、特にボヘミアとドイツの諸地域。ネーデルラント、北イタリア、フランス国境沿いでも関連する戦闘があった
主な陣営
皇帝フェルディナント2世(のちにフェルディナント3世)、バイエルンが率いるカトリック連盟、スペイン・ハプスブルク家に対し、ボヘミアの反乱勢力、プファルツ、デンマーク、スウェーデン、フランス、ネーデルラント連邦共和国、および同盟するプロテスタント諸侯。時期によって同盟関係は変化した
主な人物
フェルディナント2世、プファルツ選帝侯フリードリヒ5世、バイエルン公マクシミリアン、アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン、ヨハン・セルクラエス・フォン・ティリー、スウェーデン王グスタフ2世アドルフ、リシュリュー枢機卿
有名な出来事
プラハ窓外投擲事件(1618年)、白山の戦い(1620年)、マクデブルクの略奪(1631年)、ブライテンフェルトの戦い(1631年)、リュッツェンの戦い(1632年)、ネルトリンゲンの戦い(1634年)
終結のきっかけ
オスナブリュックとミュンスターで交渉され、1648年10月24日に調印されたウェストファリア条約
死者数
兵士と民間人を合わせて約450万~800万人と推定されることが多い。大半は病気と飢えで死亡した。推定には不確かさがある
人口減少
地域による差が大きく、人口の半分以上を失った地域もあれば、被害が比較的小さかった地域もあった

やさしい

三十年戦争とは何か?

三十年戦争は、1618年から1648年にかけて、主に神聖ローマ帝国で戦われた、互いに関連する一連の戦争である。神聖ローマ帝国は、現在のドイツ、オーストリア、チェコとその周辺に広がる、結びつきの緩やかな大きな政治体で、ハプスブルク家から選ばれた皇帝を頂いていた。

発端は、ボヘミアのプロテスタント貴族がハプスブルク家の国王に反抗したことだった。その後、スペイン、デンマーク、スウェーデン、フランス、多くのドイツ諸侯が加わった。カトリックと諸派のプロテスタントの対立という宗教問題は重要だったが、皇帝の権力、諸侯の権利、ハプスブルク家とフランスの対立も戦争に深く関わった。

この戦争は、20世紀以前のヨーロッパ史で最も破壊的な戦争の一つだった。1648年のウェストファリア条約で終結し、一連の条約によって帝国内の宗教上の権利が定められ、スイスとオランダの独立が承認され、スウェーデンとフランスが領土を得た。

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やさしい

なぜ始まったのか?

約1世紀前、マルティン・ルターが始めた宗教改革によって帝国は分裂していた。1555年のアウクスブルクの和議は、ルター派またはカトリックの諸侯が自領の宗教を選ぶことを認めた。しかし、信者が増えていたカルヴァン派は対象外で、教会の土地をめぐる争いも未解決だった。1608~1609年には、対立する同盟であるプロテスタント同盟とカトリック連盟が結成された。

ボヘミアの貴族たちは、1609年に信教の自由を保障されていた。熱心なカトリックであるシュタイアーマルクのフェルディナントが次の国王に決まると、その権利が奪われることを恐れた。1618年5月23日、プロテスタント貴族の一団が、皇帝側の総督2人と書記1人をプラハ城の窓から投げ落とした。3人とも助かった。カトリック側は天使に救われたと語り、プロテスタント側は肥だめの上に落ちたと語ったが、反乱は始まっていた。

ボヘミアの身分制議会はフェルディナントを退位させ、1619年にカルヴァン派のプファルツ選帝侯フリードリヒ5世を国王に選んだ。フェルディナントはちょうどフェルディナント2世として皇帝に選ばれたばかりで、ボヘミアを取り戻す決意を固めた。こうして地域の反乱は、帝国全体と周辺国を巻き込む戦争になろうとしていた。

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やさしい

誰が戦い、軍隊はどうやって維持されたのか?

一方には、オーストリア・ハプスブルク家の皇帝、バイエルン公(のちに選帝侯)マクシミリアンが率いるカトリック連盟、そしてネーデルラント連邦共和国とも戦っていたスペイン・ハプスブルク家がいた。もう一方には、時期を異にして、ボヘミアとプファルツの反乱勢力、デンマーク王クリスチャン4世、スウェーデン王グスタフ2世アドルフとその後継者たち、リシュリュー枢機卿の下にあったカトリック国フランスが加わった。フランスがプロテスタントの同盟国を支援したのは、プロテスタントへの反感以上にハプスブルク家の勢力を恐れたためである。

当時としては大規模な軍隊で、その大部分はヨーロッパ各地から雇われた兵士で構成されていた。支配者には兵士への給料を払う十分な資金がめったになかった。アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタインらの指揮官は、町や地域に兵士のための金銭、食料、宿舎を強制的に提供させる「軍税」の制度を発展させた。これによって軍隊を維持できたが、負担と暴力は農村各地に広がった。

軍隊には、料理や看護をし、物を売り、残された物を拾って暮らす女性、子ども、使用人、商人の大きな集団が付き従った。彼らと兵士たちは、ペストや発疹チフスなどの病気を地域から地域へ運んだ。

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中級

ボヘミアからデンマークへ(1618~1629年)

1620年11月8日、皇帝軍とカトリック連盟軍はプラハ近郊の白山の戦いでボヘミアの反乱勢力を打ち破った。フリードリヒ5世は逃亡し、「冬王」とあざけられた。1621年には反乱の指導者たちがプラハで公開処刑された。ボヘミアではプロテスタントの礼拝が次第に禁じられ、多くのプロテスタント貴族が領地を失い、教育者のヨハン・アモス・コメニウスを含む数万人が国外へ移住した。

戦争は、フリードリヒの本拠地であるライン川沿いのプファルツに移り、そこはスペイン軍とバイエルン軍に占領された。ハイデルベルクの有名な図書館は、教皇への贈り物としてローマへ運ばれた。1623年にはフリードリヒの選帝侯位がバイエルンのマクシミリアンに移され、プロテスタント諸侯を動揺させた。

1625年、デンマーク王クリスチャン4世が介入したが、1626年にルッターでティリーに敗れた。ヴァレンシュタインは巨大な皇帝軍を編成し、バルト海沿岸まで進軍した。勝利が頂点に達した1629年、フェルディナント2世は復旧令を出し、1552年以降にプロテスタントが取得した教会領をカトリック教会へ返還するよう命じた。これは皇帝への忠誠を保っていたルター派諸侯さえ恐れさせ、戦争の長期化につながった。

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中級

スウェーデン、フランス、そして長い戦争の終盤(1630~1648年)

1630年、スウェーデン王グスタフ2世アドルフがポメラニアに上陸した。目的はプロテスタントの保護に加え、バルト海周辺でのスウェーデンの勢力を確保することで、1631年からフランスの資金援助も受けた。1631年5月、ティリーの軍はプロテスタント都市マクデブルクを襲撃した。火災と虐殺で市の大部分が破壊され、住民の多くが死亡した。死者は約2万人と推定されることが多い。この略奪の知らせは、パンフレットや版画によってヨーロッパ中に広まった。

グスタフは1631年9月のブライテンフェルトの戦いで大勝し、南ドイツの奥深くまで進軍した。1632年11月のリュッツェンの戦いでは軍が勝利したものの、本人は戦死した。秘密交渉を疑われたヴァレンシュタインは、1634年に皇帝の承認を得た自軍の将校たちに暗殺された。1634年のネルトリンゲンで皇帝軍とスペイン軍が勝利すると、ドイツのプロテスタント諸侯の大半はプラハの和約(1635年)で皇帝と和解した。

しかし戦争は終わらなかった。フランスが1635年にスペインへ宣戦し、スウェーデンと並んで直接参戦したからである。その後13年間、軍隊は荒廃した帝国を行き来した。1643年にフランス軍がロクロワでスペイン軍を破り、1640年代にはスウェーデン軍とフランス軍が大きな戦いに勝利した。戦闘が続くなか、1640年代半ばにミュンスターとオスナブリュックで和平交渉が始まった。1648年に和平の知らせが届いたとき、スウェーデン軍はプラハを包囲していた。フランスとスペインの戦争は1659年まで続いた。

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中級

ウェストファリア条約(1648年)

和平は、ウェストファリア地方のミュンスターとオスナブリュックという二つの町で、ヨーロッパ各地からの代表団によって交渉された。カトリック諸国は主にミュンスター、プロテスタント諸国は主にオスナブリュックで交渉した。1648年の早い時期にスペインはネーデルラント連邦共和国と別個に講和し、その独立を承認した。スウェーデンおよびフランスとの条約は、1648年10月24日に調印された。

帝国内では、カルヴァン派がルター派、カトリックと並んで承認された。1624年が「基準年」と定められ、その時点の宗教状況が、教会や財産の帰属をおおむね決めることになった。諸侯には領内での広い権限が確認され、皇帝や帝国に敵対しない限り同盟を結ぶ権利も認められた。バイエルンは獲得していた選帝侯位を保ち、フリードリヒ5世の息子には新たに第8の選帝侯位が設けられた。

スウェーデンは西ポメラニアのほか、北海とバルト海の沿岸地域に領土を得て、大国となった。フランスはメス、トゥール、ヴェルダンの支配を確認され、アルザスでも権利を得た。スイス連邦の帝国からの独立も認められた。

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中級

人々が受けた被害

現在の死者数の推定は、通常約450万~800万人とされる。ただし記録が不十分で、人々が危険を避けて移動したため、どの数字にも不確かさがある。犠牲者の大半は民間人で、戦闘ではなく、戦争や略奪、凶作、町に集中した避難民によって悪化した疫病と飢えで死亡した。

人口減少は場所によって大きく異なった。ポメラニア、ヴュルテンベルク、プファルツの一部などでは、住民の半数以上を失った可能性がある。一方、特に北西部には被害がはるかに小さい地域もあった。今日の歴史家は「ドイツ」全体を示す一つの大きな数字より、こうした地域ごとの実態を重視している。

当時の記録には、略奪、隠した金を吐かせるための拷問、強姦、誘拐、村の焼き討ちが描かれている。これらの記述には宣伝や文学作品に由来するものもあるが、地方の公文書、日記、教区の記録によっても裏づけられる。一方、人々の中には、逃亡したり、兵士と交渉したり、自ら軍隊に加わったりして生き延びた人もいた。

戦争は人々の住む場所も変えた。城壁のある都市には農村からの避難民があふれ、疫病が広まりやすくなった。のちには放棄された農場に、スイスやオーストリアなど被害の比較的小さい地域からの移住者が住み着いた。女性は兵士から特に危険を受けたが、農場や工房を維持し、占領軍と交渉し、妻、料理人、行商人、看護人として軍隊に同行もした。支配者が代わって自分たちの宗派を強制すると宗教的少数派は故郷を追われた。ユダヤ人共同体は、支払いと引き換えに保護されることもあったが、どの陣営からも恐喝や暴力を受ける危険にさらされた。

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中級

短期的・長期的な影響

戦争直後、多くのドイツの領邦は貧しくなり、人口が減り、負債を抱えた。復興には数十年かかり、人口が戦前の水準に戻ったのは18世紀になってからという地域もあった。支配者たちは戦後、行政や徴税制度を立て直し、ブランデンブルク=プロイセンなど一部の領邦では常備軍を整備した。

政治的には帝国は存続し、皇帝と諸侯の力の均衡は1806年まで続いた。オーストリア・ハプスブルク家は、再びカトリック化されたボヘミアを含む自家の世襲領に、ますます力を注いだ。フランスとスウェーデンは17世紀半ばの有力国となり、スペインの衰退は続いた。

宗教的には、和平によって宗派間の敵対感情が消えたわけではない。しかし、争いを裁判所や法的手続きで扱うようになったため、帝国内で大規模な宗教戦争が起こる可能性は大きく下がった。ウェストファリア条約が近代の主権国家体制を生んだとよく言われるが、現在ではこの見方は誇張だと考える歴史家も多い(下の「歴史家の間の議論」を参照)。

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中級

国によって異なる戦争の記憶

ドイツでは、この戦争は国全体を襲った大惨事の象徴となった。ハンス・ヤーコプ・クリストッフェル・フォン・グリンメルスハウゼンの小説『阿呆物語』(1668年)は、世間知らずの少年の目を通して戦争を描いた。フリードリヒ・シラーは1790年代に戦争の歴史書と戯曲『ヴァレンシュタイン』三部作を書いた。1939年、ベルトルト・ブレヒトは『肝っ玉おっ母とその子どもたち』の舞台をこの戦争に置き、戦争で利益を得ることへの警告を描いた。19世紀の民族主義者たちは、ドイツの長い衰退を外国勢力のせいにすることが多く、この戦争は世界大戦による破壊と比べられることもあった。

スウェーデンでは、グスタフ2世アドルフは偉大な国王でありプロテスタントの守護者として記憶され、リュッツェンで戦死した11月6日はスウェーデンとフィンランドで記念される。チェコの地域では、白山の戦いでの敗北は長く、ハプスブルク家の支配、再カトリック化、ドイツ語を話す人々の優位による「暗黒時代」の始まりとして民族主義的な著作で語られた。ただし、現代の歴史家はバロック時代をより複雑なものとして捉えている。

フランスでは、この戦争は宗教上の連帯よりフランスの利益を優先する、リシュリューの国家理性の政策から見られることが多い。オランダでは、1648年は八十年戦争を経て独立が承認された年として記憶される。かつてカトリック側とプロテスタント側の歴史家は、それぞれ自分たちを善とする善悪の戦いとして語った。今日の歴史家は、普通の兵士や村人の視点も含め、こうしたさまざまな見方を示そうとしている。

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上級

一次史料

三十年戦争は、印刷物で広く報道された最初のヨーロッパの大戦争だった。パンフレット、挿絵入りの一枚刷り、初期の週刊新聞が、窓外投擲事件やマクデブルクの略奪などについてのニュースと宣伝を広めた。『テアトルム・エウロパエウム』のような大部の編纂物には、報告と版画が集められた。これらの史料は人々が戦争をどう知ったかを示すが、しばしば特定の陣営に偏っている。

個人の記録からは、現場に近い視点が得られる。傭兵ペーター・ハーゲンドルフの日記は20世紀に再発見され、1990年代に出版されたもので、数十年にわたる戦役の中での兵士と家族の歩みをたどれる。ウルム近郊の靴職人ハンス・ヘーベルレは、自分の村の人々がどれほど頻繁に町へ逃げたかを記録した。のちに科学者として有名になるオットー・フォン・ゲーリケは、マクデブルクの破壊について記録を残した。

公的な史料には、ウェストファリア条約などの条約文書、ウェストファリアの講和会議での外交書簡、軍と税の記録、出生・結婚・埋葬を記した教区台帳がある。人口史の研究者はこうした台帳を慎重に使う。聖職者が逃げたり教会が焼けたりして、記録そのものが途切れたことも多いからである。

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上級

歴史家の間の議論

これは宗教戦争だったのか。従来の歴史書では、最後の大きな宗教戦争と説明されることが多かった。ピーター・H・ウィルソンは大著『Europe’s Tragedy』(2009年)で、宗教が重要だったのは主に秩序と正統性についての政治思想を形づくったからであり、対立の中心は何より帝国の統治の仕組みにあったと論じる。一方、多くの当事者にとって宗派上の信念こそ中心だったと強調する研究者もいる。現在の歴史家の多くは、宗教、帝国の統治制度、国際関係を組み合わせて説明する。

これは一つの戦争だったのか、それとも複数の戦争だったのか。1960年代のS・H・スタインバーグら一部の研究者は、「三十年戦争」はいくつもの別々の争いをまとめた後世の呼び名であり、荒廃も後世の著述家によって誇張されたと論じた。その後、地域研究を含む人口史の研究は、多くの地域で被害が非常に大きかったことを確認するとともに、地域差の大きさも示した。ギュンター・フランツによる古い人口推計は広く使われてきたが、批判も受けている。

ウェストファリア条約は何を生み出したのか。国際関係論でいう「ウェストファリア主権」は、互いの内政に干渉しない、独立した対等な国家の体制を指す。アンドレアス・オジアンダーら歴史家は、これを「ウェストファリア神話」だと論じる。実際の条約は帝国の法的枠組みを強め、領邦内の宗教上の権利を保障し、外国勢力に和平の保証者としての役割を与えたからである。ジェフリー・パーカーはまた、この戦争を、寒冷化や世界各地の反乱・戦争と結びついた17世紀の広い「全般的危機」の中に位置づけている。

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主な戦い(36)

  1. プルゼニ包囲戦1618年
  2. サブラトの戦い1619年
  3. ヴィステルニッツの戦い1619年
  4. 白山の戦い1620年
  5. プファルツ遠征1620–1623年
  6. ヴィンプフェンの戦い1622年
  7. ミンゴルスハイムの戦い1622年
  8. フルーリュスの戦い(1622年)1622年
  9. ヘーヒストの戦い1622年
  10. シュタットローンの戦い1623年
  11. ルッターの戦い1626年
  12. デッサウの戦い1626年
  13. シュトラールズント包囲戦 (1628年)1628年
  14. ヴォルガストの戦い1628年
  15. トシュチャナの戦い1629年
  16. ブライテンフェルトの戦い1631年
  17. マクデブルクの戦い1631年
  18. ヴェルベンの戦い1631年
  19. フランクフルト・アン・デア・オーダーの戦い1631年
  20. リュッツェンの戦い1632年
  21. レヒ川の戦い1632年
  22. アルテ・ベステの戦い1632年
  23. オルデンドルフの戦い1633年
  24. ネルトリンゲンの戦い1634年
  25. ヴィットストックの戦い1636年
  26. ラインフェルデンの戦い1638年
  27. ケムニッツの戦い (1639年)1639年
  28. ブライテンフェルトの戦い (1642年)1642年
  29. トゥットリンゲンの戦い1643年
  30. フライブルクの戦い1644年
  31. 1644年5月16日の海戦1644年
  32. ヤンカウの戦い1645年
  33. ネルトリンゲンの戦い (1645年)1645年
  34. ランスの戦い1648年
  35. プラハの戦い (1648年)1648年
  36. ツスマルシャウゼンの戦い1648年

重要なポイント

宗派間の対立
それぞれ異なる信仰告白を持つカトリック、ルター派、カルヴァン派の間の緊張が、戦争を通じて同盟関係や人々の不安を形づくった。
帝国の統治制度
皇帝と諸侯・身分団体との間で、どちらがどれほどの権力を持つかという争いが、対立の中心にあった。
ハプスブルク家とブルボン家の対立
カトリック国フランスが同じカトリックのハプスブルク家と戦ったことは、王家や国家の利益が宗教より優先される場合があることを示している。
戦争が戦争を養う
軍税の制度によって軍隊は占領地から物資を得て暮らし、民間人が戦争の主な犠牲者となった。
基準年
ウェストファリア条約は1624年を宗教上の権利と教会財産を判断する基準とし、武力に代えて法的な規則を用いた。
ウェストファリア主権
1648年と結びつけられる後世の考え方で、独立した国家が互いの問題に干渉しないというもの。現在、歴史家の間で議論されている。
印刷物による情報戦
印刷されたニュースや画像は情報と宣伝の両方を広め、ヨーロッパの人々が戦争をどう体験し記憶したかに影響を与えた。

記録

  1. 1555年 — アウクスブルクの和議により、ルター派とカトリックの諸侯が自領の宗教を選べるようになる。
  2. 1618年 — プラハ窓外投擲事件(5月23日)をきっかけにボヘミアの反乱が始まる。
  3. 1620年 — 白山の戦い(11月8日)でボヘミアの反乱勢力が敗れる。
  4. 1626年 — ルッターでティリーがデンマーク王クリスチャン4世を破る。
  5. 1629年 — 復旧令が出される。リューベックの和約でデンマークの参戦が終わる。
  6. 1630年 — グスタフ2世アドルフがポメラニアに上陸する。
  7. 1631年 — マクデブルクの略奪(5月)。ブライテンフェルトでスウェーデン軍が勝利する(9月)。
  8. 1632年 — リュッツェンの戦いでグスタフ2世アドルフが戦死する。
  9. 1634年 — ヴァレンシュタインが暗殺される。皇帝軍とスペイン軍がネルトリンゲンで勝利する。
  10. 1635年 — プラハの和約が結ばれる。フランスがスペインに宣戦する。
  11. 1643年 — フランス軍がロクロワで勝利する。ウェストファリアで和平交渉が始まる。
  12. 1648年 — ミュンスターとオスナブリュックでウェストファリア条約が調印される(10月24日)。

用語集

神聖ローマ帝国
選挙で選ばれる皇帝の下に、数百の領邦が集まった中央ヨーロッパの大きな政治体。1806年まで続いた。
選帝侯
皇帝を選ぶ権利を持つ諸侯。戦前は7人、戦後は8人だった。
窓外投擲
人を窓から投げ落とすこと。プラハでは政治的な抗議の手段となった。
カルヴァン派
ジャン・カルヴァンの教えに従う改革派プロテスタント。帝国内で法的に承認されたのは1648年である。
カトリック連盟/プロテスタント同盟
ドイツ諸侯がそれぞれ1609年と1608年に結成した、対立する同盟。
軍税制度
占領地に軍隊の費用や物資を強制的に負担させる制度。ヴァレンシュタインが大規模に利用した。
復旧令
かつての教会領をカトリックの支配に戻すよう命じた、フェルディナント2世による1629年の命令。
基準年
ウェストファリア条約で宗教上の権利や財産の帰属を決める基準となった1624年。
傭兵
特定の国への忠誠心からではなく、報酬を得るために戦う兵士。

よくある質問

窓から投げ落とされた人たちは助かったのですか?

はい。3人とも15メートル以上の高さから落ちましたが、生き延びました。カトリック側は天使か聖母マリアに守られたと語り、プロテスタント側はごみや肥だめの山に落ちたと冗談を言いました。いずれにせよ、この事件から反乱が始まりました。

本当に30年間、休みなく戦い続けたのですか?

戦闘はほぼ絶えず続きましたが、場所も参加者も変わりました。歴史家はしばしば、ボヘミア、デンマーク、スウェーデン、フランスの各段階に分けて説明します。

なぜカトリック国フランスはプロテスタント国スウェーデンを助けたのですか?

リシュリュー枢機卿は、スペインとオーストリアを支配するハプスブルク家がフランスを取り囲み、圧倒することを恐れました。そのため、宗教的な連帯よりフランス国家の利益を優先しました。

ヴァレンシュタインとは誰ですか?

アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタインはボヘミアの貴族で、皇帝の下で最も強力な将軍になりました。占領地から徴収する軍税で費用をまかなう巨大な軍隊を編成し、莫大な富を築きました。独自の行動と敵との秘密の接触によってフェルディナント2世の不信を招き、1634年に自軍の将校たちに殺されました。のちにシラーは、彼を三つの戯曲の悲劇的な主人公にしました。

何人が亡くなったのですか?

正確な人数は分かっていません。現在の推定では通常約450万~800万人で、その多くは戦闘よりも病気や飢えで亡くなりました。住民の半数以上を失った地域もあれば、被害がはるかに小さい地域もありました。

ウェストファリア条約は近代的な主権国家を生み出したのですか?

よく言われるほど単純ではありません。条約は諸侯の権利を強めましたが、独自の法律と裁判所を持つ帝国は存続し、外国勢力にも和平を保証する役割が与えられました。「ウェストファリア体制」は、大部分が後世に生まれた考え方です。

マクデブルクはなぜそれほど有名なのですか?

1631年に町が破壊され、住民の多くが亡くなったことは、プロテスタントのヨーロッパに衝撃を与え、印刷物で広く報じられました。「マクデブルク化する」という言葉は、町を徹底的に破壊するという意味で使われるようになりました。

兵士や村人の日記はどのくらい信頼できますか?

日常生活を伝える貴重な史料ですが、書き手はそれぞれ戦争の一部しか見ておらず、書いた理由も異なります。歴史家は日記同士や公的記録と比べて確かめます。

出典・参考文献

  1. Thirty Years’ War. Wikipedia
  2. 30년 전쟁. 위키백과
  3. Peace of Westphalia. Wikipedia
  4. 베스트팔렌 조약. 위키백과
  5. Treaty of Westphalia: Peace Treaty between the Holy Roman Emperor and the King of France and their respective Allies (24 October 1648). The Avalon Project, Yale Law School
  6. Defenestrations of Prague. Wikipedia
  7. Sack of Magdeburg. Wikipedia
  8. Simplicius Simplicissimus. Wikipedia
  9. Peter H. Wilson, Europe’s Tragedy: A History of the Thirty Years War. Allen Lane, 2009
  10. C. V. Wedgwood, The Thirty Years War. Jonathan Cape, 1938

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上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。

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