最初はやさしい入門です。下に進むほど詳しい説明や研究内容を読めます。
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子ども向け
約170年前、東インド会社というイギリスの貿易会社が、インドの大部分を支配していました。会社には軍隊があり、兵士の多くは「セポイ」と呼ばれるインド人でした。多くのインド人は、会社に土地や国、誇りを奪われていると感じていました。
1857年、兵士たちに新しい銃の弾薬が配られました。その包みには牛と豚の脂が塗られているといううわさが広まりました。包みを歯でかみ切ると、牛を大切にするヒンドゥー教徒にも、豚肉を食べないイスラム教徒にも、宗教上の問題がありました。兵士たちは、イギリス人が自分たちの信仰を大切にしていないと感じました。
1857年5月、メーラトの兵士たちが反乱を起こしました。兵士たちはデリーへ向かい、年老いたムガル皇帝バハードゥル・シャー2世に指導者になってほしいと頼みました。まもなくインド北部の各地で、兵士や王侯、女王、農民たちが反乱に加わりました。
戦いでは、どちらの側もひどい暴力をふるいました。反乱側がイギリス人の男性、女性、子どもを殺した場所もありました。イギリス軍は村を焼き、多くのインド人を裁判もせずに殺しました。
1858年までにイギリス側が勝利しました。東インド会社による支配は終わり、ヴィクトリア女王の政府がインドを直接治めるようになりました。後に独立を目指したインド人たちは、1857年の反乱を自由を求める最初の大きな戦いとして振り返りました。
ひと目でわかる
- 期間
- 1857年5月10日(メーラトでの蜂起。2~3月にも先行する事件があった)~1858年(主な戦闘)。1859年7月8日に正式に平和が宣言された
- 場所
- 主にガンジス川上流域とインド中部。デリー、メーラト、アワド(ウード)とラクナウ、カーンプル(カウンポール)、ジャーンシー、グワーリヤル、ビハールの一部。パンジャーブ、ベンガル、南インドの大部分では戦闘は少なかった
- 交戦勢力
- 反乱を起こしたベンガル軍の部隊、多くの王侯・地主、農村や都市の住民 対 東インド会社、イギリス軍の部隊、イギリス側に忠誠を保ったインド人部隊(特にシク教徒、パンジャーブ人、グルカ兵の部隊)、イギリスと同盟した藩王国
- 主な人物
- 反乱側:バハードゥル・シャー2世、ナーナー・サーヒブ、ジャーンシーのラクシュミー・バーイー、タンティヤ・トーペ、ベーグム・ハズラト・マハル、クンワル・シング、マウラヴィー・アフマドゥッラー・シャー。イギリス側:カニング卿、コリン・キャンベル、ヘンリー・ハヴロック、ヒュー・ローズ
- 結果
- イギリス側の勝利。東インド会社による統治は廃止され、インドはイギリス王室の統治下に置かれた(1858年インド統治法)。ムガル朝は終焉した
- 死者
- 民間人を含むイギリス人約6,000人。インド人の死者ははるかに多いが、正確な数は不明。よく引用される80万人以上という推計には飢饉や病気による死者も含まれる。さらに多い数字には異論がある
- 呼び名
- 事件の呼び名自体に論争がある。「セポイの反乱」(古いイギリス側の呼び方)、「インド大反乱」や「1857年の反乱」(学術的に広く使われる呼び方)、「第一次インド独立戦争」(インドで広く使われる呼び方)
やさしい
1857年のインド大反乱とは?
1857年から1858年にかけて、大規模な反乱がインドにおけるイギリスの支配を揺るがした。反乱は、南アジアの大部分を支配するようになっていたイギリスの貿易会社、東インド会社の軍に所属するインド人兵士(セポイ)の反抗として始まった。やがてインド北部・中部の広い範囲で、王侯、地主、宗教指導者、農民、都市住民が武器を取る反乱へと広がった。
反乱側は一時、ムガル朝の古都デリーとガンジス川流域の広い地域を支配した。イギリス側は、本国からの援軍や忠誠を保ったインド人部隊とともに反撃し、1857年9月にデリー、1858年3月にラクナウ、同年半ばまでにインド中部の反乱側の拠点を奪い返した。
反乱によって東インド会社の統治は終わった。1858年、イギリス議会はインドの統治権を王室に移し、1947年まで続くイギリス領インド帝国の時代が始まった。最後のムガル皇帝は追放され、1526年以来インドを支配してきた王朝は終焉した。
この事件を何と呼ぶかは、今も議論されている。イギリスの著述家は長く、兵士の命令違反を強調して「インド兵の反乱」と呼んだ。多くのインド人は、外国の支配への抵抗を強調して「第一次独立戦争」と呼ぶ。多くの歴史家は、単一の国民運動だったと決めつけずに軍人と民間人の双方を含めるため、「反乱」という語を用いる。
やさしい
なぜ起きたのか――背景と原因
東インド会社は貿易会社として出発したが、1757年のプラッシーの戦いの後、まずベンガルで、次いでインド亜大陸の各地で領土を支配する勢力となった。1850年代までには、南アジアのほぼ全域を直接、または従属する王侯を通じて支配し、地税を徴収して、主にインド人兵士からなる大軍を維持していた。
領土の併合は多くの支配者を怒らせた。総督ダルハウジー卿の時代(1848~1856年)、会社は「失権の原則」を用い、実子の男子を残さずに支配者が亡くなった国を併合した。養子の継承は認めず、1853年のジャーンシー、1854年のナーグプルがその例となった。1856年2月には、統治の不備を理由に大きな王国アワド(ウード)を併合した。最後のマラーター王国ペーシュワーの養子ナーナー・サーヒブには、養父の年金の継承を認めなかった。こうした決定は、王侯の家族やその家臣の地位を脅かした。
農村社会にも負担がかかっていた。特に1856年以降のアワドでは、新しい地税制度によって多くの大地主(タールクダール)が領地を失い、重い税負担で借金を抱える農民もいた。ベンガル軍のセポイにはアワドやビハールの上位カーストの家庭出身者が多く、村の不満は軍隊にも直接伝わった。
兵士たち自身にも、昇進の機会が少ないこと、手当の削減、1856年の海外勤務法への不満があった。この法律は新兵に海外勤務を義務づけたが、上位カーストのヒンドゥー教徒の多くは、それがカーストの規則に反すると考えた。宣教師の活動、寡婦の再婚を認める法律(1856年)などの改革、西洋式の新しい制度も、イギリス人がインドの宗教を弱め、人々をキリスト教に改宗させようとしているという不安を強めた。脂を塗った弾薬包のうわさが、その不安を一気に高めた。
やさしい
反乱の始まり――弾薬包、メーラト、デリー
新型の1853年式エンフィールド銃には、装填前に紙を破って開ける弾薬包が使われた。従来、その作業は歯で行っていた。1857年初め、弾薬包の脂には牛や豚の脂肪が含まれているといううわさがベンガル軍に広まった。ヒンドゥー教徒にとって牛は神聖であり、イスラム教徒には豚肉が禁じられているため、弾薬包をかむことは双方の信仰を脅かすように思われた。当局は装填手順を変え、兵士自身が弾薬包に脂を塗ることも認めたが、信頼関係はすでに崩れていた。同じころ、北インドではチャパティという薄いパンが村から村へと謎めいた形で渡されていた。この現象はイギリス当局者を不安にさせたが、その意味は今もはっきりしない。
1857年3月、カルカッタ近郊のバラックプルでセポイのマンガル・パンディが上官を襲い、絞首刑となった。デリー近郊のメーラトでは、弾薬包を拒んだ第3ベンガル軽騎兵連隊の騎兵85人が長期の禁錮刑を言い渡され、5月9日に人前で足かせを付けられた。翌10日の夕方、仲間の兵士たちが蜂起して彼らを解放し、イギリス人将校と複数の民間人を殺して、夜通しデリーへ向かった。
5月11日、反乱兵はデリーに入り、市内に駐屯する部隊も加わった。市内では多くのヨーロッパ人とインド人キリスト教徒が殺された。セポイたちは赤い城へ行き、82歳のムガル皇帝バハードゥル・シャー2世に指導者となるよう求めた。詩人でもあった皇帝の実権は宮殿の外にはほとんど及ばなかったが、しぶしぶ同意した。ムガル皇帝を指導者に掲げたことで、反乱側はヒンドゥー教徒とイスラム教徒の双方に認められる権威を得た。
その後数週間、ガンジス川流域とインド中部では、ベンガル軍の部隊が次々と反乱を起こした。ベンガル軍の正規歩兵74連隊のうち、過半数が反乱を起こすか武装解除された。多くの場所では民間人の反乱も続き、地元の支配者が権力を取り戻し、村人は金貸しや裁判所を襲い、政府の記録が破棄された。
中級
戦争の経過――デリー、カーンプル、ラクナウ、インド中部
デリー(1857年5~9月)。イギリス軍は6月からデリー北方の尾根に陣を敷いたが、当初は攻撃するには兵力が足りなかった。市内では、皇帝の宮廷と兵士の評議会に支えられた反乱側の政権が、資金や食料の不足、セポイ・廷臣・市民の間の対立に苦しんだ。シク教徒やパンジャーブ人の部隊を含むパンジャーブからの援軍を得たイギリス軍は、9月14日にデリーへ突入し、約1週間の市街戦の末に占領した。市内では略奪が起き、多くの住民が殺されるか追い出された。イギリス軍将校ウィリアム・ホドソンは、降伏したムガル朝の王子3人を射殺した。
カーンプル(1857年6~7月)。カーンプル(カウンポール)では、ヒュー・ウィーラー将軍の下にいたイギリス軍守備隊と多くの民間人が6月5日から包囲された。6月25日、彼らはアラハバードまで川を通って安全に退去させるというナーナー・サーヒブの申し出を受け入れた。しかし27日、サティーチャウラ・ガートで船に乗り込む際に発砲が始まり、男性の大半が殺された。生き残った約200人の女性と子どもはビービーガルと呼ばれる建物に閉じ込められ、イギリス軍の救援部隊が近づいた7月15日に殺された。ナーナー・サーヒブがこれらの殺害を命じたかどうかは、今も議論されている。ビービーガルでの虐殺はイギリスで激しい怒りを呼び、ジェームズ・ニール准将らの率いるイギリス軍は、容疑者を裁判なしに絞首刑にするなど、残酷な報復を行った。
ラクナウ(1857年6月~1858年3月)。アワドの都ラクナウでは、イギリス軍と忠誠を保ったインド人部隊が多くの民間人とともに、6月末から防備を固めたレジデンシーに立てこもった。指揮官ヘンリー・ローレンスは包囲戦の初期に死亡した。ヘンリー・ハヴロックとジェームズ・アウトラムの救援部隊は9月25日に到着したが、自らも包囲された。11月、コリン・キャンベルが守備隊を救出し、退去させた。アワドは最も広範な民衆反乱の中心となり、ベーグム・ハズラト・マハルが幼い息子に代わって指導したほか、タールクダールや宗教指導者マウラヴィー・アフマドゥッラー・シャーも加わった。キャンベルは1858年3月にラクナウを奪還したが、農村ではゲリラの抵抗が続いた。
インド中部と反乱の終結(1858~1859年)。ヒュー・ローズのインド中部野戦軍は1858年4月にジャーンシーを攻め落とした。ラクシュミー・バーイーは脱出してタンティヤ・トーペと合流し、ともにグワーリヤルを占領したが、同年6月、グワーリヤル近郊の戦闘で命を落とした。ビハールでは高齢の地主クンワル・シングが1858年4月に亡くなるまで戦った。タンティヤ・トーペは長くゲリラ戦を続けたが、裏切られて捕らえられ、1859年4月に絞首刑となった。ナーナー・サーヒブは姿を消し、おそらくネパールへ逃れた。1858年11月1日のヴィクトリア女王の宣言は反乱参加者の大部分に恩赦を示し、1859年7月8日に正式に平和が宣言された。
中級
それぞれの側で誰が戦ったのか?
反乱側は多様だった。中心となったのは、武器を持ち、組織と訓練を備えたベンガル軍の反乱部隊である。これにジャーンシーの女王やナーナー・サーヒブのような王侯とその家臣、アワドのタールクダールや地主、聖戦を呼びかけた宗教指導者、それぞれの地域に不満を抱く村人や都市住民が加わった。ヒンドゥー教徒もイスラム教徒も参加し、反乱側の布告はしばしば両方の共同体に呼びかけた。
反乱側は統一された指揮系統を作らなかった。デリー、ラクナウ、カーンプル、ジャーンシーなどの拠点はそれぞれの目的を追い、多くの指導者は何よりも失った地位を取り戻そうとした。これを弱点とみる歴史家もいる。一方、反乱が地域に根差していたことの表れと考え、現代の民族主義運動の基準で判断すべきではないとする歴史家もいる。
イギリス側の兵力も、その多くはインド人だった。マドラス管区とボンベイ管区の軍隊は、おおむね忠誠を保った。新たに征服されたパンジャーブから採用されたシク教徒、パンジャーブ人、パシュトゥーン人の兵士は、デリーで決定的な役割を果たした。彼らの多くは、ムガル帝国の復活にも、その征服に加わったベンガル軍のセポイにも共感していなかった。グルカ兵の連隊やネパールのジャンガ・バハドゥル・ラナが送った部隊は、アワドで戦った。ハイデラバードやカシミールなどの主要な藩王国はイギリス側にとどまり、グワーリヤルの支配者も、自軍は反乱側に加わったものの、イギリス側についた。
イギリスの援軍は、本国、クリミア、もともと中国へ向かう予定だった部隊から到着した。電信、河川、道路を掌握し、平穏を保った州の税収を利用できたことは、一地域に集中した反乱に対してイギリス側に決定的な優位を与えた。
中級
暴力、民間人、人的被害
戦争では双方が残虐行為を行った。メーラト、デリー、ジャーンシー、カーンプルなどで、反乱側はイギリス人将校とその家族、インド人キリスト教徒、会社と関係があるとみなされた人々を殺した。特にカーンプルで女性と子どもが殺された事件は、イギリス国民の戦争観の中心となった。イギリスではイギリス人女性が集団で性的暴行を受けたという報告が広く出回ったが、後の調査ではそれを裏づける証拠はほとんど見つからなかった。それでも報告は報復を求める声を強めた。
イギリス側の報復は、はるかに大きな規模で行われた。ガンジス川沿いを進む部隊は、反乱側に同情していると疑った村人を絞首刑にし、村を焼き、捕らえたセポイを絞首刑や大砲の砲口に縛り付けて撃つ方法で処刑した。デリーでは住民が追放され、多くの建物が破壊された。特にイスラム教徒は、集団として罪があるかのように扱われた。無差別な処罰を抑えようとした総督カニング卿は、イギリスで「寛大なカニング」とやゆされた。
兵士と民間人を合わせて約6,000人のイギリス人が死亡した。インド人の死者ははるかに多かったが、数えられることはなかった。よく引用される推計は、戦争が引き起こした飢饉や伝染病による死者を含めて約80万人以上とする。さらに多い数字を示す著述家もいるが、根拠が十分ではないと考える歴史家もいる。正確な数字がどうであれ、犠牲者の大半はインド人の兵士と民間人だった。
中級
反乱の結果――会社統治の終わりとイギリス領インド帝国の始まり
1858年8月のインド統治法は、東インド会社による統治を廃止し、その権限をイギリス王室に移した。ロンドンでは、インド参事会の助言を受けるインド担当国務大臣が統治を担い、インド総督は副王を兼ねるようになった。1858年11月1日のヴィクトリア女王の宣言は、信教の自由、法の下での平等、王侯の権利と尊厳の尊重、領土をこれ以上併合しないことを約束した。事実上、「失権の原則」は放棄された。
バハードゥル・シャー2世は1858年にイギリスの軍事法廷で裁かれて有罪となり、ビルマのラングーンへ追放された。1862年にそこで亡くなり、ムガル朝も終焉した。失われたものを詠んだ彼の詩は、デリー陥落の記憶の一部となっている。
軍隊も再編された。インド人兵士に対するイギリス人兵士の割合が引き上げられ、砲兵隊は主にイギリス人の手に置かれた。兵士の採用は、旧ベンガル軍の上位カースト出身者から、イギリス側が「戦闘民族」と呼ぶようになった集団、特にシク教徒、パンジャーブのイスラム教徒、パシュトゥーン人、グルカ兵へと移った。イギリスはインド社会に対する政策も変え、王侯やアワドのタールクダールのような大地主との同盟を求め、社会改革にはより慎重になった。
長期的には、支配者と被支配者の関係はさらに遠くなり、人種による隔たりがよりあからさまになった。イギリス人はインド人から離れて暮らすことが増え、多くがインド人を疑いの目で見るようになった。インド人の中では、改革者サイイド・アフマド・ハーンが『The Causes of the Indian Revolt』(1859年)を著し、イギリス人は統治下の人々を理解できていなかったと論じた。後に彼はアリーガルに大学を設立した。1857年の記憶は、その後の民族運動を支える重要な力となった。
上級
記憶と語り――イギリス、インド、そしてその先で
イギリス。ヴィクトリア朝のイギリスでは、「インド兵の反乱」は裏切りと英雄的な忍耐の物語として記憶された。ラクナウの防衛、救援部隊、カーンプルの犠牲者がその中心だった。記念碑、絵画、詩、多くの小説がこの物語を広めた。カーンプルでは、カルロ・マロケッティ作の大理石の天使像がビービーガルの井戸の上に置かれた。インド独立後、この像は近くの教会の庭へ移された。ラクナウのレジデンシーでは、1947年まで追悼のためにイギリス国旗が絶えず掲げられた。こうした語りでは、イギリス側の残虐行為やインド人が反乱に加わった理由はほとんど取り上げられなかった。
インドの民族主義。1909年、V・D・サーヴァルカルは『The Indian War of Independence of 1857』を出版し、反乱を自由のために計画された国民的な戦争として描いた。イギリスはこの本を発禁にした。マルクスとエンゲルスはそれ以前に、反乱について『New-York Daily Tribune』紙に記事を書いており、後にソビエト連邦で『The First Indian War of Independence』としてまとめられた。ラクシュミー・バーイーは勇気と愛国心の象徴となり、スバドラ・クマリ・チャウハンの有名なヒンディー語の詩『Jhansi ki Rani』にもたたえられた。1943年には、スバス・チャンドラ・ボースのインド国民軍が女性連隊に彼女の名を付けた。
独立後のインド。1957年の100周年に向けて、インド政府はS・N・センに公式の歴史書を委託した。センは1857年の出来事を単なる兵士の反乱以上のものと捉えつつ、完全に国民的な戦争とみることには慎重だった。同じ年、歴史家R・C・マジュムダールは、第一次独立戦争でも、純粋な兵士の反乱でもなかったと論じた。2007年の150周年はインドで国家的な行事として祝われた。パキスタンでも1857年は独立戦争として記憶され、イスラム教徒の参加と苦難が重視される。反乱の責任をイスラム教徒に負わせようとしたイギリス側の傾向は、後の南アジアのイスラム教徒の政治に影響を与えた。
論争のある呼び名。事件のどの名称にも見方が表れている。「兵士の反乱」は軍の命令違反を強調し、イギリス支配の正当性を前提とする。「第一次独立戦争」は後の民族主義を1857年に当てはめる。「反乱」や「蜂起」は、一つの解釈に決めずに出来事の広がりを表そうとする。名称をめぐる議論そのものが、1857年がどのように記憶されてきたかを示す歴史の一部である。
上級
一次史料と歴史研究
イギリス側の史料。公文書、軍の報告書、議会文書、調査で集められた証言は豊富にある。将校、兵士、民間人、特にラクナウから生還した人々の手紙、日記、回想録も多い。これらは情報に富む一方で見方が偏っており、恐怖や怒りのさなかに書かれたものも多い。ジョン・ケイとG・B・マレソンによる複数巻の歴史書(1864~1880年)は、何世代にもわたってヴィクトリア朝の人々の理解を形づくった。
インド側の史料。反乱側の文書はしばしば破棄され、生き残った人々にも沈黙する理由があったため、インド人の声をたどるのは難しい。重要な例外として、インド国立公文書館に保存された、デリーの反乱側政権の数千点の文書「反乱文書」がある。ウィリアム・ダルリンプルは『The Last Mughal』(2006年)でこれを広く利用した。このほか、反乱側の布告、バハードゥル・シャー2世の裁判記録、イギリス人読者を意識して慎重に書かれた詩人ガーリブのデリー包囲についてのペルシア語の日記『Dastanbuy』、サイイド・アフマド・ハーンの『The Causes of the Indian Revolt』がある。
歴史研究。20世紀の研究者たちは、1857年が兵士の反乱か国民的な戦争かを問うことから、誰がなぜ反乱に加わったかを調べることへと進んだ。エリック・ストークスは、死後に出版された『The Peasant Armed』(1986年)で、農村住民の参加に見られる地域差を研究した。ルドラングシュ・ムカジーの『Awadh in Revolt』(1984年)は、アワドのタールクダールと農民がどのように団結して会社に対抗したかを示した。ラナジット・グハに始まるサバルタン研究の学者たちは、農民が自ら進めた政治活動を重視した。キム・ワグナーの『The Great Fear of 1857』(2010年)のような近年の研究は、うわさと恐怖を検討し、別の研究は主な戦闘地域の外にも目を向けている。
残る問い。反乱はどこまで計画されていたのか、宗教と経済的な不満はそれぞれどんな役割を果たしたのか、どこまで国民的な運動と呼べるのか、カーンプルの虐殺の責任は誰にあったのか、何人のインド人が死亡したのかについて、歴史家の議論は続いている。イギリス側と民族主義側の語りがともに大きな影響を与えてきたため、近年の研究の多くは、双方の一般兵士、村人、女性の経験を明らかにしようとしている。
主な戦い(13)
重要なポイント
- 東インド会社の統治
- イギリスの貿易会社だった東インド会社が、独自の軍隊を持つ領土支配勢力となり、インドの広い地域を統治したこと。
- 兵士の反乱から広域の反乱へ
- 兵士の反抗として始まった出来事に、それぞれの不満を抱く王侯、地主、村人が加わり、広い地域の反乱となった。
- 正統性とムガル皇帝
- 反乱側はバハードゥル・シャー2世を指導者に掲げ、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の双方が認めるムガル朝の権威を利用した。
- 併合と失権の原則
- ジャーンシーやアワドを含むインドの国々を併合する会社の政策は、王侯や地主の間に強い敵意を生んだ。
- 報復
- イギリス側の鎮圧では大量の処刑や破壊が行われ、反乱側が殺したイギリス人よりはるかに多くのインド人が死亡した。
- 王室による統治(英領インド帝国)
- 1858年以降、インドはイギリス王室に直接統治され、軍隊が再編され、王侯や地主との新たな同盟が結ばれた。
- 議論が続く記憶
- この出来事は兵士の反乱、広域の反乱、第一次独立戦争として記憶され、それぞれの呼び名に異なる見方が表れている。
記録
- 1757年 — プラッシーの戦い。東インド会社がベンガルで領土を支配する勢力となる。
- 1853年 — ジャーンシーの王の死後、「失権の原則」によって同国が併合される。
- 1856年 — 2月、会社がアワドを併合。7月、海外勤務法が制定される。
- 1857年 — 3月29日、バラックプルでマンガル・パンディが上官を襲う。5月10日、メーラトで蜂起。5月11日、反乱兵がデリーに入り、バハードゥル・シャー2世を指導者に掲げる。
- 1857年 — 6月、カーンプルとラクナウの包囲が始まる。6月27日、サティーチャウラ・ガートで殺害事件。7月15日、カーンプルのビービーガルで虐殺。
- 1857年 — 9月14~20日、イギリス軍がデリーを攻撃して奪還。9月25日、ラクナウへの最初の救援部隊が到着。11月、キャンベルがラクナウのレジデンシーから守備隊を退去させる。
- 1858年 — 3月、ラクナウが奪還される。4月、ジャーンシーが攻め落とされる。6月、ラクシュミー・バーイーがグワーリヤル近郊で戦死。
- 1858年 — 8月、インド統治法が成立。11月1日、ヴィクトリア女王が宣言を発する。バハードゥル・シャー2世がラングーンへ追放される。
- 1859年 — 4月、タンティヤ・トーペが絞首刑となる。7月8日、正式に平和が宣言される。
- 1862年 — バハードゥル・シャー2世が追放先のラングーンで死去。
- 1909年 — V・D・サーヴァルカルが『The Indian War of Independence of 1857』を出版。
- 1957年 — 100周年。S・N・センによる公式の歴史書が刊行され、1857年の出来事が国民的な戦争だったかをめぐる議論が続く。
用語集
- セポイ
- 東インド会社の軍隊に所属したインド人兵士。語源は「兵士」を意味するペルシア語の「シパーヒー」。
- 東インド会社
- 1600年に設立されたイングランド(後のイギリス)の貿易会社。後に南アジアの広い地域を支配した。
- ベンガル軍
- 東インド会社の三つの管区軍のうち最大の軍隊。兵士の反乱がここから始まった。
- 失権の原則
- 支配者が実子の男子を残さずに亡くなったインドの国を、東インド会社が併合する政策。
- アワド(ウード)
- ガンジス川流域にあった王国で、1856年に併合された。都ラクナウは反乱の主要な拠点となった。
- タールクダール
- アワドで多くの村から地税を徴収した大地主。
- ラージ
- 「統治」を意味する語。1858年から1947年までの、イギリス王室によるインドの直接統治期を指す。
- 副王
- 1858年以降、イギリス王室の代表としてインド総督が用いた称号。
- ムガル帝国
- 1526年から南アジアの広い地域を支配した王朝。1857年には、皇帝はデリーで象徴的な権威を持つだけだった。
- 戦闘民族
- 特定の集団は生まれつき兵士に適しているという、1857年以降に用いられたイギリス植民地時代の考え方。その後何十年も兵士の採用に影響した。
よくある質問
脂を塗った弾薬包とは何ですか?
新しい銃に使う、通常は歯で破って開ける弾薬包です。牛と豚の脂が塗られているといううわさが広まり、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の双方の信仰に反すると受け止められました。反乱のきっかけでしたが、唯一の原因ではありません。
兵士の反乱だったのですか、それとも独立戦争だったのですか?
兵士の反抗として始まりましたが、多くの民間人が加わる広域の反乱になりました。「国民的な」独立戦争だったかどうかは議論されています。地元の支配者や自らの権利を取り戻すために戦った人も多く、統一された指導部はありませんでした。
ラクシュミー・バーイーとは誰ですか?
夫の死後に国を併合されたジャーンシーの女王です。反乱に加わってイギリス軍と戦い、1858年にグワーリヤル近郊で戦死しました。インドで最もよく知られる女性英雄の一人となりました。
カーンプルでは何が起きましたか?
包囲されたイギリス軍守備隊は、安全な退去を条件に1857年6月に降伏しましたが、川で襲撃されました。その後、捕らえられていたイギリス人女性と子ども約200人が殺されました。イギリス軍は地元の人々に残酷な報復を行いました。
何人が亡くなりましたか?
イギリス人は約6,000人です。インド人の死者は数えられませんでしたが、はるかに多く、飢饉や病気による死者を含めて約80万人以上という推計がよく引用されます。さらに多い推計もありますが、異論があります。
南インドの大部分とパンジャーブが反乱に加わらなかったのはなぜですか?
不満はベンガル軍や、アワドのように新たに併合された北部の地域で特に強いものでした。マドラス軍とボンベイ軍は兵士の採用方法や勤務条件が異なり、パンジャーブ人やシク教徒の兵士の多くは、ベンガル軍のセポイにもムガル朝の復活にも共感していませんでした。
1857年の後、何が変わりましたか?
東インド会社による統治が廃止され、インドはイギリス王室に統治されるようになりました。軍隊は再編され、イギリス側は王侯や地主と同盟を結び、ムガル朝は終焉しました。
主なインド側の史料は何ですか?
デリーの反乱側政権の文書(「反乱文書」)、布告、裁判記録、ガーリブの日記『Dastanbuy』、サイイド・アフマド・ハーンの『The Causes of the Indian Revolt』などです。これらは、はるかに多く残るイギリス側の記録とあわせて読まれています。
出典・参考文献
- Indian Rebellion of 1857. Wikipedia
- Siege of Delhi. Wikipedia
- Siege of Cawnpore. Wikipedia
- Siege of Lucknow. Wikipedia
- Rani of Jhansi. Wikipedia
- Government of India Act 1858. Wikipedia
- 세포이 항쟁. 위키백과 (Korean Wikipedia)
- Rudrangshu Mukherjee, Awadh in Revolt, 1857–1858: A Study of Popular Resistance. Oxford University Press, 1984
- Eric Stokes (ed. C. A. Bayly), The Peasant Armed: The Indian Revolt of 1857. Clarendon Press, 1986
- William Dalrymple, The Last Mughal: The Fall of a Dynasty, Delhi, 1857. Bloomsbury, 2006
上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。