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子ども向け
約900年前、エルサレムはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三つの宗教にとって大切な町でした。西ヨーロッパのキリスト教徒は、イエスがそこで亡くなり、よみがえったと信じていました。イエスの墓を訪ねたいと思う人も大勢いました。当時、町を治めていたのはイスラム教徒でした。
1095年、カトリック教会の指導者である教皇がフランスで演説しました。東方のキリスト教徒を助け、エルサレムを取るために、騎士たちに東へ向かうよう呼びかけたのです。そして、その長く危険な旅に出れば、罪をつぐなう大きな行いになると約束しました。何千もの人が服に布の十字架を縫いつけました。そのため、後に「十字軍の人々」と呼ばれるようになりました。
最初の大きな軍隊は、約3年かけて進みました。途中で、ドイツの町に住むユダヤ人の家族を襲った人たちもいました。これはひどい犯罪でした。1099年、十字軍はエルサレムを占領し、そこに暮らす多くの人を殺しました。その後、地中海の東岸に小さなキリスト教徒の国々をつくりました。
イスラム教徒の支配者たちは、少しずつ反撃しました。最も有名なサラディンは、1187年にエルサレムを取り戻しました。その後の約200年間に、ヨーロッパから何度も十字軍が送られました。しかし1291年、十字軍が守る最後の大きな町アッコンが陥落しました。
今日、十字軍についての考え方は人によって大きく違います。かつて勇敢な冒険として語る人もいましたが、侵略や虐殺として記憶する人も大勢います。歴史家は、キリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ人、ビザンツ帝国の人々など、さまざまな立場からの記録を調べ、実際に何が起きたのかを理解しようとしています。
ひと目でわかる
- 時期
- 東地中海への十字軍は通常1095/1096~1291年とされる。他の敵を対象とする十字軍は15~16世紀まで続いた
- 主な地域
- レヴァント地方(現在のイスラエル・パレスチナ、レバノン、シリア、トルコ南東部)、エジプト、およびバルカン半島とアナトリアを通る経路
- 呼びかけた人々
- ローマ教皇たち。最初はクレルモン公会議(1095年11月)で呼びかけたウルバヌス2世
- 主な対戦相手
- セルジューク朝、ファーティマ朝、シリアとエジプトのザンギー朝・アイユーブ朝の支配者たち、後のマムルーク朝
- 十字軍国家
- エデッサ伯国、アンティオキア公国、エルサレム王国、トリポリ伯国
- 主な転換点
- エルサレム占領(1099年)、ハッティンの戦いとエルサレム喪失(1187年)、コンスタンティノープル略奪(1204年)、アッコン陥落(1291年)
- 犠牲者数
- 不明。中世の記録にある数字は誇張されていることが多い。兵士、巡礼者、都市の住民、ユダヤ人共同体に非常に大きな被害が出た
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十字軍とは何か
十字軍は、カトリック教会が聖なる、功徳のある行為と認めた戦争だった。参加した男女は誓願を立て、衣服に十字架を縫いつけた。教会はその見返りとして、何よりも罪に伴う罰の免除という宗教上の恩恵と、遠征中の家族や財産の保護を約束した。
最もよく知られる十字軍は、キリスト教徒が「聖地」と呼んだエルサレムと周辺地域を目指した。第1回十字軍(1096~1099年)はエルサレムを占領し、地中海の東岸に四つの小さな西方キリスト教徒の国家を築いた。その後の約200年間、それらを守り、あるいは奪還するために多くの遠征が行われたが、1291年に最後の主要拠点アッコンがマムルーク朝に占領された。
最初の参加者は「十字軍」という言葉を使わなかった。彼らは旅、巡礼、あるいは「十字架を取ること」と呼んだ。当時のイスラム教徒の著述家は侵入者をふつう単に「フランク人」(アル・イフランジ)と呼び、これらの戦争を特別な一つの種類とは見なしていなかった。「十字軍」という名称や、第1回、第2回、第3回という整った番号づけは、後世の歴史家によるものである。
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十字軍はなぜ始まったのか
11世紀、セルジューク人と呼ばれるトルコ系の戦士たちが中央アジアから中東へ進出した。1071年、彼らはマンジケルトの戦いで、コンスタンティノープルを都とするギリシャ語圏のキリスト教帝国、ビザンツ帝国の軍を破った。まもなくトルコ系の諸勢力はアナトリアの大部分を支配した。エルサレムの支配者は、セルジューク朝とエジプトを拠点とするシーア派のファーティマ朝との間で入れ替わった。
ビザンツ皇帝アレクシオス1世コムネノスは、西方に兵士の援助を求めた。教皇ウルバヌス2世は、この要請をはるかに大きな計画へと変えた。1095年11月、フランスのクレルモンで西ヨーロッパの騎士たちに、東方のキリスト教徒を助け、エルサレムを解放するよう呼びかけた。公会議の公式記録は残っていない。現存するのは後に書き記された演説の複数の異なる版で、細部の文言は一致しない。
なぜこれほど多くの人が呼びかけに応じたのか。歴史家は複数の理由を挙げる。深い信仰心と罪への恐れ、巡礼の広まり、教会の改革運動と騎士の暴力を教会が正しいと考える目的へ向けようとする動き、西方キリスト教世界を率いたいという教皇の望み、兄弟やいとこを共に参加へと促した家族のつながり、そして一部の人々にとっては土地や富、冒険への期待である。かつての歴史叙述は強欲や「土地を持たない次男以下の息子たち」を重視した。近年は、十字軍への参加には非常に費用がかかったため、宗教的な動機が大きかったはずだと論じる歴史家も多い。
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誰が参加したのか
十字軍側には、フランス、ドイツ諸地域、イタリア、イングランド、フランドル、後にはスカンディナヴィアやハンガリーから来た騎士や領主がいた。さらに、貴族ではない多くの巡礼者、聖職者、一部の女性も加わった。ヴェネツィア、ジェノヴァ、ピサなどイタリアの海洋都市は、特権を得る代わりに船舶と交易を提供した。テンプル騎士団、聖ヨハネ騎士団、後のドイツ騎士団などの宗教騎士団は、十字軍国家を守る恒常的な組織となった。
十字軍と向き合う側にも、単一の「イスラム世界」があったわけではない。互いに争うトルコ系の諸侯、セルジューク朝のスルタン、カイロのファーティマ朝カリフ、バグダードのアッバース朝カリフ、そして時には互いに対抗するためフランク人と同盟を結ぶ地方都市の支配者たちがいた。やがてザンギー、ヌールッディーン、サラディンらがシリアとエジプトを統合し、最後にはマムルーク朝のスルタンたちがフランク人を追い出した。
その間に置かれた人々も多かった。アルメニア人、シリア語系キリスト教徒、ギリシャ正教徒などの東方キリスト教徒、ヨーロッパやレヴァント地方のユダヤ人、そして農村の農民たちである。農民の多くはイスラム教徒か東方キリスト教徒で、フランク人領主の下でも耕作を続けた。ビザンツ帝国は当初、十字軍の同盟者だったが、やがて警戒心を抱く隣国となり、1204年には自らが被害者となった。
中級
第1回十字軍と十字軍国家(1096~1149年)
1096年春、主力軍の出発に先立ち、説教師ピエール隠者と結びつけられることの多い民衆の一団が旅立った。エミッヒ伯爵が率いた集団などは、シュパイアー、ヴォルムス、マインツをはじめとするライン地方のユダヤ人共同体を襲い、多くの人を殺害し、ほかの人々に改宗を強いた。ヘブライ語の年代記には、洗礼を受けるより死を選んだ家族のことが記されている。これら民衆の集団は、1096年10月にアナトリアでトルコ勢力によってほぼ壊滅させられた。
諸侯の主力軍は1096~1097年にコンスタンティノープルに集結した。彼らはビザンツ軍とともにニカイアを攻略し(1097年)、ドリュラエウムでセルジューク軍を破った。その後、アンティオキアの厳しい包囲戦(1097~1098年)に耐え、飢えと病気で多くの人が亡くなった。ブローニュのボードゥアンはエデッサを手に入れ、最初の十字軍国家を建てた。1099年7月15日、十字軍はエルサレムを強襲した。ラテン語の史料もイスラム教徒の史料も、イスラム教徒とユダヤ人の住民が虐殺されたと伝える。犠牲者の数には議論がある。13世紀の歴史家イブン・アル=アシールは7万人と記したが、現代の研究者は多すぎると考えている。一方、カイロ・ゲニザで見つかった書簡などは、身代金を払って解放された人や生き残った人もいたことを示している。
勝者たちはエルサレム王国、アンティオキア公国、トリポリ伯国、エデッサ伯国を築いた。これらの国家は、少数のフランク人支配層、イタリア商人、城塞、騎士団、そしてヨーロッパから絶えず送られる増援に頼っていた。1144年にトルコ系の支配者ザンギーがエデッサを占領すると、フランス王ルイ7世とドイツ王コンラート3世が率いる第2回十字軍(1147~1149年)が始まった。しかし遠征は大きく失敗し、1148年にはダマスクスの包囲を断念して終わった。
中級
サラディン、後期の十字軍とアッコン陥落(1169~1291年)
ヨーロッパでサラディンとして知られるサラーフッディーン・ユースフ・イブン・アイユーブは、1169~1171年にエジプトで権力を握り、ファーティマ朝のカリフ制を終わらせ、徐々にシリアへ支配を広げた。1187年7月4日、ハッティンの戦いでエルサレム王国の主力軍を壊滅させ、10月には交渉を経てエルサレムを占領した。1099年の占領時とは異なり、町のキリスト教徒の大半は身代金を払えば退去を許されたが、払えない人々の多くは奴隷にされた。
第3回十字軍(1189~1192年)は、イングランド王リチャード1世、フランス王フィリップ2世、そして道中で溺死するまで神聖ローマ皇帝フリードリヒ・バルバロッサが率いた。アッコンと海岸地域の大部分を奪還したが、エルサレムは奪還できなかった。1191年にアッコンが陥落した後、身代金をめぐる取り決めが行き詰まると、リチャードはイスラム教徒の捕虜約2,700~3,000人の処刑を命じた。この人数は年代記に記されている。1192年の休戦によって、キリスト教徒の巡礼者はエルサレムを訪問できるようになった。
ヴェネツィアに多額の負債を負った第4回十字軍(1202~1204年)は、まずキリスト教徒の都市ザラへ、次いでコンスタンティノープルへと進路を変え、1204年4月に後者を略奪した。十字軍はそこにラテン帝国を建て、ビザンツ側が都を取り戻したのは1261年のことだった。その後の遠征では、第5回十字軍(1217~1221年)やルイ9世の十字軍(1248~1254年)がエジプトを攻撃した。皇帝フリードリヒ2世は1229年、大きな戦闘を経ずに条約によってエルサレムを取り戻したが、1244年に再び失った。マムルーク朝のスルタン、とりわけバイバルスと後のアシュラフ・ハリールは、残るフランク人の都市を次々に占領した。1291年5月、アッコンが陥落した。
十字軍はほかの相手にも向けられた。イベリア半島のイスラム教徒、バルト海周辺の異教徒、南フランスで「異端」とされたカタリ派(アルビジョワ十字軍、1209~1229年)、さらには教皇と政治的に対立するキリスト教徒も対象となった。これらをすべて「本来の」十字軍に含めるべきかどうかは、歴史家の間で議論がある。
中級
犠牲者と普通の人々
信頼できる死者の総数は分かっていない。キリスト教徒とイスラム教徒の中世の年代記作者は、印象を強めるために大きな概数を用いており、現代の歴史家は慎重に扱う。それでも、人々が受けた被害が非常に大きかったことは明らかである。軍全体が飢えや病気で命を落とし、エルサレム(1099年)、コンスタンティノープル(1204年)、アッコン(1291年)などの都市では虐殺や大規模な奴隷化が起き、捕虜が殺されることもあった。
ユダヤ人共同体は東方だけでなくヨーロッパでも被害を受けた。1096年のライン地方での虐殺に続き、第2回十字軍を呼びかける説教の時期や、1189~1190年ごろのヨークを含むイングランドでも攻撃が起きた。ユダヤ人にとって、この時代の出来事は長く受け継がれる迫害の記憶となり、ヘブライ語の年代記や典礼詩に記録された。
十字軍国家では、農村の住民の大半は引き続きイスラム教徒か東方キリスト教徒だった。彼らの経験をたどるのは難しいが、シリアの貴族ウサーマ・イブン・ムンキズの回想録などには、軽蔑、襲撃、捕虜となる経験と並んで、日常の接触、交易、医療知識の交流、ときには友情も描かれている。東方キリスト教徒は双方から疑いを向けられることがあった。ビザンツ帝国の人々は1204年の出来事を、同じキリスト教徒による深い裏切りとして記憶した。
中級
短期的・長期的な影響
短期的には、十字軍は約200年間続くラテン人国家を生み、ヴェネツィアとジェノヴァに新たな富と力をもたらし、教皇の権威を高める一助となった。イスラム教徒側では、長い戦いによってシリアとエジプトでジハードの理念が強まり、ヌールッディーン、サラディン、マムルーク朝の支配者たちが自らの権力を正当化する助けとなった。1204年の略奪はビザンツ帝国を恒久的に弱体化させ、後のオスマン帝国によるヨーロッパ進出を容易にした。
長期的には、十字軍は聖地での戦いが終わった後も残る制度を発達させた。贖宥、戦費を賄うための聖職者への課税、そして後にプロイセン、ロドス島、マルタ島を支配する騎士団などである。聖戦の考え方はイベリア半島のレコンキスタを形づくり、一部の歴史家によれば、後のヨーロッパの海外進出で使われる言葉にも影響した。西方のカトリック教徒と東方正教徒の関係は深く傷ついた。
十字軍がアラビア語の学問やぜいたく品をヨーロッパにもたらしたと評価されることがある。今日の歴史家は、この見方には慎重である。学問の伝達の多くは十字軍国家よりもスペインやシチリアを経由しており、地中海を越える交易もそれとは別に拡大していた。十字軍は、複数あった接触経路の一つだった。
中級
さまざまな人々は十字軍をどう記憶しているか
西ヨーロッパでは、十字軍は長い間、高貴な冒険として記憶された。トルクァート・タッソのような詩人は『解放されたエルサレム』(1581年)で十字軍を叙事詩にした。ヴォルテールやエドワード・ギボンなどの啓蒙思想家は狂信として批判した一方、19世紀のロマン主義や国民主義の著述家、特にフランスとイギリスの著述家は、十字軍に参加した王を国民的英雄としてたたえた。「十字軍」という言葉は、道徳的な目的を掲げる運動全般を指す言葉にもなったが、今日ではこの用法を無神経だと感じる人も多い。
アラビア語・トルコ語圏では、中世の著述家はフランク人を複数の敵の一つとして扱い、モンゴル勢力をより大きな脅威と見なすことも多かった。キャロル・ヒレンブランドらの研究者は、「十字軍」を指す独立したアラビア語の用語と、その強い集団的記憶が、特にヨーロッパの植民地支配の時代に当たる19世紀後半以降に形成されたと指摘する。このころ著述家たちは、十字軍を初期の西洋による侵略と見るようになった。サラディンは、アラブ民族主義やイスラム政治思想の中で、抵抗と団結の象徴となった。
ギリシャ正教徒にとって1204年の記憶は苦痛を伴い続け、2001年には教皇ヨハネ・パウロ2世が公に遺憾の意を表した。ユダヤ人共同体にとって、十字軍は何よりもライン地方の虐殺を通じて記憶されている。アミン・マアルーフの著書『アラブが見た十字軍』(1983年)は、西洋の多くの読者にイスラム教徒の視点を紹介した。近年はさまざまな過激派が十字軍のイメージを悪用しており、歴史家が正確で偏りのない教育を重視する理由の一つとなっている。
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一次史料
第1回十字軍についてのラテン語の叙述史料には、著者不詳の『フランク人の事績』、シャルトルのフルシェ、アギレールのレーモンによる記録のほか、修道士ロベール、ドルのボードリ、ノジャンのギベールによる後の改作がある。このうちいくつかは、クレルモンでのウルバヌス2世の演説についても、それぞれ異なる内容を伝える。12世紀後半には、ティルスのギヨームがエルサレム王国の主要な歴史書を著した。十字軍参加者の書簡、出発や財産の担保設定を記録した証書、教皇勅書、法文書からは、しばしばより個人的な別の姿が見えてくる。
ビザンツ側の視点を伝える主要な史料は、アンナ・コムネナが父アレクシオス1世について書いた『アレクシアス』と、1204年についてのニケタス・コニアテスの記録である。アラビア語の史料には、イブン・アル=カラーニシーのダマスクス年代記、イブン・アル=アシールの世界史、サラディンの側近バハーウッディーン・イブン・シャッダードとイマードゥッディーン・アル=イスファハーニーによる伝記、ウサーマ・イブン・ムンキズの回想録などがある。ヘブライ語の年代記は1096年の迫害を伝える。エデッサのマタイやシリア人ミカエルなど、アルメニア語やシリア語の年代記作者は東方キリスト教徒の経験を記録した。
どの史料群にも、神の働きをたたえる、庇護者を称賛する、災厄を嘆く、政策を正当化するなど、それぞれの目的がある。歴史家は史料を比較し、城塞や町の考古学的証拠と照らし合わせ、特に数字と演説の記述を批判的に検討する。
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歴史家の間の論争
大きな論点の一つは定義である。いわゆる「伝統主義者」は、十字軍を東方とエルサレムを目指した遠征に限る。ジョナサン・ライリー=スミスと強く結びつく「多元主義者」は、教皇の認可、誓願、十字架、贖宥という法的・宗教的な特徴によって十字軍を定義し、スペインやバルト海地域での遠征、異端とされた人々に対する遠征も含める。さらに、民衆の熱意や聖戦一般を重視する、より広い「民衆主義」や「一般主義」の見方もある。
第二の論点は動機である。19~20世紀の著述家はしばしば経済、人口圧力、植民地獲得の野心によって十字軍を説明し、十字軍国家を初期のヨーロッパ植民地と見なす人もいた。1970~1980年代以降、特にライリー=スミスとその教え子たちによる証書の研究は、宗教的な献身と参加者の巨額の負担を重視した。クリストファー・タイアマンらは、それぞれの遠征が組織、資金、政治によってどう形づくられたかを強調し、単一の説明に頼らないよう注意を促している。
第三の研究分野は、ラテン世界以外からの見方である。キャロル・ヒレンブランドやポール・M・コブらの研究は、十字軍をイスラム世界の中東史という広い文脈に置き、当時の多くのイスラム教徒にとってフランク人は文明同士の衝突というより地域的な問題だったことを示した。歴史家はまた、ジェンダー、東方キリスト教徒やユダヤ人の経験、十字軍の記憶の現代政治での利用、さらには「十字軍」という言葉を今後どこまで用いるべきかも検討している。
主な戦い(40)
- クセリゴルドン包囲戦1096年
- アンティオキア攻囲戦1097–1098年
- ドリュラエウムの戦い1097年
- ニカイア攻囲戦1097年
- マアッラ攻囲戦1098年
- エルサレム攻囲戦 (1099年)1099年
- アスカロンの戦い1099年
- メリテネの戦い1100年
- ハッラーンの戦い1104年
- アジェ・サンギニスの戦い1119年
- アザーズの戦い1125年
- エデッサ包囲戦1144年
- リスボン攻防戦1147年
- ドリュラエウムの戦い1147年
- ダマスカス包囲戦1148年
- イナブの戦い1149年
- アスカロン包囲戦1153年
- モンジザールの戦い1177年
- マルジュ・アユーンの戦い1179年
- ヒッティーンの戦い1187年
- エルサレム攻囲戦 (1187年)1187年
- クレッソン泉の戦い1187年
- ティール包囲戦 (1187年)1187–1188年
- アッコンの包囲 (1189-1191年)1189–1191年
- イコニウムの戦い1190年
- アルスフの戦い1191年
- ヤッファの戦い1192年
- ザラ包囲1202年
- 1203年のコンスタンティノープル包囲戦1203年
- コンスタンティノープル包囲戦1204年
- ミュラの戦い1213年
- ダミエッタの包囲戦1218–1219年
- リンダニセの戦い1219年
- 氷上の戦い1242年
- エルサレム攻囲戦1244年
- ラ・フォルビーの戦い1244年
- ファルスクールの戦い1250年
- マンスーラの戦い1250年
- ヴェセンベルグの戦い1268年
- アッコンの包囲1291年
重要なポイント
- 十字架を取ること
- 十字軍への参加者は厳粛な誓願を立て、布の十字架を身につけた。それによって十字軍参加者としての法的・宗教的な地位を得た。
- 贖宥
- 十字軍で戦う人やそれを支える人について、罪に伴う現世での罰を免除するという教会の約束。参加の重要な動機であり、後に論争の原因にもなった。
- 武装した巡礼
- 初期の十字軍参加者は自らを聖地へ向かう巡礼者と考えたが、武器を携え、道中で戦う巡礼者でもあった。
- ジハードと十字軍への対抗
- ヌールッディーンやサラディンらの支配者は、フランク人に対抗してイスラム教徒を結集するため、聖戦の理念を再び掲げ、広めた。
- 辺境の社会
- 十字軍国家では、イスラム教徒と東方キリスト教徒が住民の多数を占める中、少数の人々が支配した。対立と共存の両方が見られた。
- キリスト教世界の分裂
- 1204年のコンスタンティノープル略奪は、十字軍が同じキリスト教徒にも向けられることを示し、カトリック教会と正教会の分裂を深めた。
- 評価が分かれる記憶
- 十字軍の意味づけは、後世のロマン主義、民族主義、植民地主義、反植民地主義によって変えられてきた。今日も政治的に敏感な問題である。
記録
- 1071年 — セルジューク人がマンジケルトでビザンツ軍を破る。
- 1095年 — 教皇ウルバヌス2世がクレルモン公会議で十字軍を呼びかける(11月)。
- 1096年 — 民衆十字軍がライン地方のユダヤ人共同体を襲う。主力軍が出発する。
- 1098年 — 十字軍が長い包囲戦の末にアンティオキアを占領する。エデッサが最初の十字軍国家となる。
- 1099年 — 十字軍が7月15日にエルサレムを占領し、住民を虐殺する。
- 1144年 — ザンギーがエデッサを占領し、第2回十字軍(1147~1149年)へとつながる。
- 1187年 — サラディンがハッティンの戦い(7月4日)に勝利し、エルサレムを占領する(10月)。
- 1191年 — 第3回十字軍がアッコンを奪還し、リチャード1世がアルスフでサラディンの軍を破る。
- 1204年 — 第4回十字軍がコンスタンティノープルを略奪する。
- 1229年 — フリードリヒ2世が条約によってエルサレムを取り戻すが、1244年に再び失われる。
- 1250年 — ルイ9世のエジプト遠征が敗北と本人の捕縛に終わる。マムルーク朝が権力を握る。
- 1291年 — マムルーク朝がアッコンを占領し、大陸本土の十字軍国家が終わる。
用語集
- 十字軍参加者(crucesignatus)
- 「十字架の印をつけた者」を意味し、十字軍の誓願を立てた人。
- フランク人(アル・イフランジ)
- アラビア語やギリシャ語の史料で、西ヨーロッパから来た十字軍参加者や入植者全般を指した呼び名。
- セルジューク人
- 11~12世紀にイラン、イラク、シリア、アナトリアの広い地域を支配したトルコ系の王朝。
- ファーティマ朝
- 969年から1171年までエジプトを支配し、1099年にはエルサレムを支配していたシーア派イスマーイール派の王朝。
- アイユーブ朝
- サラディンが建て、12世紀後半から1250年ごろまでエジプトとシリアを支配した王朝。
- マムルーク
- 奴隷身分の出身で、1250年にエジプトで権力を握った軍人たち。彼らが支配した王朝は十字軍国家を終わらせた。
- 宗教騎士団
- テンプル騎士団や聖ヨハネ騎士団など、修道誓願を立てて十字軍国家のために戦った騎士の修道会。
- ウトラメール
- フランス語で「海の向こう」を意味し、中世には十字軍国家を指した。
- ビザンツ帝国
- ローマ帝国の東方に続いた、ギリシャ語を用い、コンスタンティノープルを都とした帝国。
よくある質問
なぜ「十字軍」と呼ばれるのですか。
参加者が衣服に十字架をつけていたからです。この言葉は、後のラテン語やロマンス諸語で「十字架の印をつけた」という意味の表現に由来します。最初の参加者たちは、自分たちの行動を巡礼や旅と呼んでいました。
十字軍は勝ったのですか。
第1回十字軍はエルサレムを占領し、十字軍国家は約2世紀続きました。しかし1187年にエルサレムを失い、1291年までに大陸本土から追い出されました。長い目で見ると、主な目標は達成できませんでした。
サラディンは英雄ですか、それとも悪人ですか。
当時のイスラム教徒とキリスト教徒の著述家は、その寛大さと勇気を称賛しました。一方で、彼は激しい戦争を行い、捕虜を処刑することもありました。ヨーロッパの伝説でも称賛され、現代のアラブ人やクルド人の記憶では英雄となっています。歴史家は、象徴としてではなく、12世紀の有能な支配者として理解しようとしています。
十字軍で何人が亡くなったのですか。
誰にも分かりません。中世の数字は信頼しにくく、誇張も多くあります。兵士、巡礼者、占領された都市の住民、ヨーロッパのユダヤ人共同体に非常に大きな被害が出た、と言うのが確かです。
十字軍は西洋の植民地主義の初期の形だったのですか。
そのように見る歴史家や現代の著述家はいます。一方、中世の宗教戦争と入植は近代の植民地帝国とは大きく異なると論じる人もいます。この比較については今も議論が続いています。
中世のイスラム教徒は十字軍を一つの出来事として見ていましたか。
おおむね、そうではありませんでした。中世のアラビア語の歴史家は、フランク人との戦争を地域政治の一部として記しました。「十字軍」を西洋による長期の一つの攻撃と見る考えがアラビア語の著述で一般的になったのは、主に19世紀以降です。
なぜ1204年は正教徒にとってそれほど重要なのですか。
西方のキリスト教徒の軍が、東方最大のキリスト教都市コンスタンティノープルを略奪し、教会からも財物を奪い、そこでのビザンツ帝国の支配を何十年も終わらせたからです。この出来事はカトリック教会と正教会の分裂を深めました。
出典・参考文献
- Crusades. Wikipedia
- 십자군 전쟁. 위키백과
- Medieval Sourcebook: Urban II (1088–1099): Speech at Council of Clermont, 1095 — five versions of the speech. Internet Medieval Sourcebook, Fordham University
- Historiography of the Crusades. Wikipedia
- Rhineland massacres. Wikipedia
- Siege of Jerusalem (1099). Wikipedia
- Usama ibn Munqidh. Wikipedia
- Jonathan Riley-Smith, The Crusades: A History. Bloomsbury, 2014 (3rd ed.)
- Christopher Tyerman, God’s War: A New History of the Crusades. Allen Lane, 2006
- Carole Hillenbrand, The Crusades: Islamic Perspectives. Edinburgh University Press, 1999
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上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。