戦争

モンゴルによる金朝の征服

蒙金戰爭 (Méng–Jīn zhànzhēng)

1211–1234年 ·

ひとことで

1211年から1234年にかけて、チンギス・ハンとその子オゴデイが率いるモンゴルは、中国北部を支配する女真族の金朝と長く破壊的な戦争を続けた。戦争は金朝の滅亡に終わり、モンゴルは後に中国全土を征服するための拠点を得た。

最初はやさしい入門です。下に進むほど詳しい説明や研究内容を読めます。

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子ども向け

約800年前、中国の北部は金朝という国に治められていました。国を治めていたのは、約100年前にこの地域を征服した、満洲地方出身の女真族です。金朝には城壁に囲まれた大きな町があり、何百万人もの農民が暮らしていました。

北の草原には、馬や羊を飼い、季節に合わせて移動するモンゴル人が住んでいました。金朝は長い間、草原の部族同士を争わせていました。しかし1206年、テムジンという指導者がモンゴルの部族をまとめ、チンギス・ハンと名乗りました。

1211年、チンギス・ハンは馬に乗った軍を率いて南へ進みました。モンゴル軍は馬に乗ることと弓を使うことが得意で、金朝の大軍を破りました。数年後には、今の北京にあった金朝の都、中都を攻め落としました。金朝の皇帝は南の開封へ移りましたが、戦争はさらに何年も続きました。

チンギス・ハンは1227年に亡くなりましたが、息子のオゴデイが戦争を終わらせました。モンゴル軍が開封を囲むと、町を守る人々は、世界でも初期の火薬を使った爆弾を使いました。最後の金朝皇帝は逃げましたが、1234年、最後の町が陥落すると自ら命を絶ちました。

戦争は20年以上続き、多くの人が苦しみました。町は破壊され、戦いや飢え、病気で多くの人が亡くなり、南へ逃げた人もいました。その後、モンゴルは中国北部を治めました。チンギス・ハンの孫フビライは後に元朝を建て、北京を都にしました。

ひと目でわかる

期間
1211~1234年。休戦期間を挟み、主な戦闘期は1211~1215年、1217~1223年、1229~1234年
場所
中国北部。現在の河北省、北京市、山西省、山東省、河南省とその周辺
交戦勢力
モンゴル帝国(契丹人、漢人などの同盟勢力、終盤には南宋も参加)対金朝
モンゴル側の指導者
チンギス・ハン、木華黎、ジェベ、スブタイ、トルイ、オゴデイ・ハン
金朝側の指導者
皇帝の完顔永済、宣宗、哀宗と、将軍の完顔合達
主な出来事
野狐嶺の戦い(1211年)、中都の陥落(1215年)、三峰山の戦い(1232年)、開封の包囲(1232~1233年)、蔡州の陥落(1234年)
結果
金朝の滅亡と、モンゴルによる中国北部の支配
主な史料
『元朝秘史』『金史』『元史』、宋の使節の報告、ペルシア語の史書

やさしい

モンゴルによる金朝の征服とは

モンゴルによる金朝の征服は、新たに成立したモンゴル帝国と中国北部を支配していた金朝との間で、20年以上続いた戦争である。1211年のチンギス・ハンによる侵攻に始まり、1234年、最後の金朝皇帝が現在の河南省にある蔡州で死んだことで終わった。

これはモンゴル帝国の初期の大遠征の一つであり、チンギス・ハンが始めた戦争の中で最も長く続いた。短期の襲撃とは異なり、モンゴル軍は城壁に囲まれた都市の攻め方や、農耕を営む定住民の統治方法を次第に学ぶことになった。また、この戦争は南宋の征服と元朝の成立への道を開いた。

戦場となったのは人口の多い中国北部の平原だった。戦闘に加え、広範囲にわたる破壊、飢饉、疫病が起こった。この戦争がどのように記憶されているかは、モンゴルと中国、その他の地域で大きく異なる。

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金朝という国

金朝は1115年、満洲地方の女真族の指導者である完顔阿骨打が、契丹人の遼朝に反乱を起こして建てた。女真族は1125年までに遼を滅ぼし、続いて宋を攻撃した。1127年には宋の都である開封を占領し、宋の皇帝二人を捕らえた。宋は淮河の南へ退き、金朝が中国北部を支配した。国号の「金」は金属の金を意味する。

金朝は多民族国家だった。女真族は少数の支配層で、軍事面では世襲の組織に編成されていた。契丹人、渤海人なども重要な役割を担い、住民の大多数は農業や都市での仕事に従事する漢人だった。金朝は科挙を含む多くの中国の制度を取り入れ、1153年に主な都を現在の北京にあたる中都へ移した。

1200年ごろまでに、金朝は広い領土と多くの人口を持つ国になっていた。しかし、1194年に黄河の流路が大きく変わった災害、紙幣のインフレを含む財政難、女真族とそれ以外の住民との緊張、1206~1208年の宋との戦争など、深刻な問題に直面していた。

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モンゴルが攻撃した理由

金朝は長い間、一部の部族を支援して別の部族に対抗させたり、時折討伐軍を送ったりして、モンゴル高原の人々を支配しようとしていた。『元朝秘史』に記されたモンゴルの伝承によれば、金朝の皇帝はチンギス・ハンの祖先の親族にあたるモンゴルの指導者アンバガイを処刑した。この恨みが復讐の理由として挙げられた。

1206年、テムジンは草原のモンゴル系とテュルク系の部族を統一し、チンギス・ハンと称した。次にタングート人の国である西夏を攻撃し、1209~1210年に服従させた。これにより、金朝の西側を守る緩衝地帯が崩れた。金朝では完顔永済が皇帝に即位し、使者を送って服従を求めたが、チンギスはこれを軽蔑して拒んだと伝えられる。

歴史家は復讐以外にもいくつかの動機を指摘する。中国北部の富はモンゴルの有力者や兵士への褒賞になり、遠征の成功は統一したばかりの部族連合を結束させるのに役立った。また、草原への金朝の干渉を終わらせたいという考えもあった。13世紀初めの草原で例外的に好ましい気候が続き、モンゴル軍が利用できる草や馬が増えたとする環境史研究者もいるが、この説はなお研究が進められている。

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1211~1215年:野狐嶺の戦いと中都の陥落

1211年、チンギス・ハンは軍を率いてゴビ砂漠を越えた。現在の河北省張家口市の北西にある野狐嶺で、モンゴル軍ははるかに規模の大きい金朝軍を破った。金朝の記録とモンゴル側の記述には、軍勢の数について非常に大きく、互いに食い違う数字があるため、実際の兵力は分からない。モンゴル軍は中都への入り口である居庸関の方面へ突破した。

その後の2年間、モンゴル軍の諸部隊は河北、山西、山東の広い範囲を襲い、多くの町を占領したが、そのまま立ち去ることも多かった。金朝の将校や契丹人の住民の一部はモンゴル側に移った。契丹人の耶律留哥は満洲地方で反乱を起こし、チンギスと同盟した。1213年には金朝の将軍胡沙虎が皇帝完顔永済を殺害し、新たに宣宗が即位した。

1214年、宣宗は皇女をチンギスに嫁がせ、多量の金、絹、馬を贈って講和した。しかし自らの安全を恐れ、宮廷を南の開封へ移した。チンギスはこれを協定違反とみなして再び攻め込んだ。長い包囲の間、城内では飢餓が広がり、1215年に中都は降伏した。都市は略奪され、大部分が焼けた。多くの人が殺されたという記録があるが、正確な人数は分からない。

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中級

1217~1227年:木華黎による消耗戦

1217年、チンギス・ハンはホラズム朝への西方遠征に向かい、中国での戦争を信頼する将軍の木華黎に任せた。木華黎には「国王」の称号と、契丹人、女真族、漢人の兵で補強された比較的小規模なモンゴル軍が与えられた。木華黎は計画的に戦い、河北、山西、山東の町を一つずつ占領した。

この時期に重要な役割を果たしたのが、地方の有力者たちである。金朝の支配が崩れると、中国北部の有力な一族は自分たちの地域を守るために民兵を集めた。史天沢、張柔、厳実ら多くの有力者はモンゴル側に移り、世襲の地方領主としての地位を認められた。一方、山東の「紅襖軍」のように、金朝、宋、モンゴルの間で帰属先を変えた勢力もあった。こうして戦争は、北方で生き残るための多くの勢力による争いとなった。

金朝は北方での損失を南方の資源で補おうとして、宋との新たな戦争(1217~1224年)や西夏との戦争を始め、状況をさらに悪化させた。1223年に木華黎が死ぬと、モンゴル軍の進撃は鈍った。チンギス・ハン自身も、西夏に対する最後の遠征中の1227年に死んだ。西夏は同じ年に滅ぼされた。

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中級

1229~1234年:オゴデイ、三峰山の戦い、開封の陥落

1229年に大ハンに選ばれたオゴデイは、金朝との戦争を終わらせる決意を固めた。金朝は黄河沿いと西方の峠で防衛態勢を立て直し、1231年の倒回谷の戦いなどで何度か勝利した。そこでモンゴル軍は三方向から攻める計画を立てた。オゴデイは北から進み、弟のトルイは宋の領域にある漢中地方を大きく迂回して、南西から河南へ入った。

1232年初め、完顔合達が率いる金朝の主力軍は、兵力で劣るトルイの軍を追った。トルイは金朝軍が疲れ果て、食糧が不足するまで戦闘を避けた。吹雪の中で行われた三峰山の戦いで、モンゴル軍は金朝軍を攻撃して壊滅させた。この戦いにより、金朝が野戦で戦う力は事実上失われた。

スブタイが指揮するモンゴル軍は、1232年の春から開封を包囲した。守備側は投石機で投げる「震天雷」や「飛火槍」などの火薬兵器を使用した。これらは戦争で火薬兵器が使われたことを示す最も古い記録の一部である。人口が密集した市内では疫病が発生した。金朝の正史は、約50日間に90万体以上の遺体が城門から運び出されたと記す。歴史家はこの数字を慎重に扱うが、記録は惨事の規模を物語っている。

哀宗は1232年末に開封から逃れ、1233年には残された指揮官の崔立が都市を明け渡した。後世の記録によれば、耶律楚材は住民を虐殺しないようオゴデイを説得した。約100年前に北方を失った雪辱を果たす機会と考えた南宋は、モンゴルと同盟した。哀宗が避難していた蔡州の包囲には、孟珙率いる宋軍も加わった。1234年初め、都市が陥落する際に哀宗は親族へ帝位を譲って自害した。後継者も同じ日に戦闘で死に、金朝は滅亡した。

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中級

人々が払った代償

この戦争は中国北部の人々に壊滅的な被害をもたらした。抵抗した都市の住民が、ほかの都市への見せしめとして虐殺されることもあった。捕虜は軍の前に追い立てられ、堀を埋めたり攻城兵器を動かしたりするために使われた。農民が逃亡したり徴兵されたりして、耕作されない畑も増えた。包囲と避難によって飢饉や疫病が起こり、戦闘よりも多くの人を死に至らせた可能性が高い。

人口減少の規模は、特に議論の多い問題の一つである。13世紀初めの金朝の戸籍には数百万戸が記録されており、人口を約4,000万~5,000万人と推計する研究者もいる。一方、1230年代に行われたモンゴルによる中国北部の最初の戸口調査では、約100万戸しか記録されていない。この大きな差がそのまま死者数を示すわけではない。多くの人が南の宋へ逃れ、モンゴルの貴族や地方領主の隷属民となって国家の戸籍から消えた人もいた。行政の混乱で数えられなかった人も多い。ジェームズ・ウォーターソンらの歴史家は、差をそのまま死者数とみなすべきではないと警告する一方、死者が膨大だったことは認めている。

耶律楚材の墓誌に記された有名な話では、モンゴルの役人の一部が中国北部から住民を追い払い、土地を牧草地にするよう提案したという。これに対して楚材は、農民に税を課す方が利益になるとオゴデイを説得したとされる。話の細部が正確かどうかは別として、略奪から徴税と統治へと向かう実際の変化を映し出している。

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中級

その後の影響

金朝の滅亡によって、モンゴルは中国北部の人々、穀物、職人、技術者を支配下に置いた。漢人や契丹人の攻城技術者と行政官は、後のモンゴルの遠征に欠かせない存在となった。1234年、宋がかつての都である開封と洛陽を奪回しようとしたことで、モンゴルと宋の戦争が始まった。この戦争は1279年にモンゴルが中国全土を征服するまで続いた。

征服はモンゴル支配下の中国の統治方法にも影響した。オゴデイのもとで耶律楚材は税務機関を整え、戸口調査を行った。土地と戸はモンゴルの皇族に分封地として分け与えられた。モンゴル側についた地方有力者の一族も、何世代にもわたって力を保った。フビライ・ハンは1271年に元朝を建てると、中都の廃墟の隣に大都を建設し、都とした。これが北京が国家の首都となる起点だった。

女真族にとって金朝の滅亡は最初の帝国の終わりだったが、その歴史の終わりではなかった。約400年後、女真族の指導者ヌルハチは先の王朝を意識し、新たな国を後金(1616年成立)と名づけた。その後継者たちは民族名を満洲、国号を清と改め、中国を征服した。

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人々によって異なる戦争の記憶

モンゴルでは、この戦争はチンギス・ハンによるモンゴル国家の建設史の一部である。特に1990年に社会主義体制が終わって以降、チンギスは建国の父としてたたえられている。『元朝秘史』は遠征を、金朝による過去の行いへの復讐としても描き、モンゴル人の団結と忠誠を強調している。

中国の歴史的伝統における見方は、より複雑である。元朝自身は1340年代に遼・金・宋の正史を編纂させ、三つとも正統な王朝として扱った。また、チンギス・ハンには元朝の祖として太祖という廟号が贈られた。後世の中国の文人は北方の荒廃を嘆くことが多かった。開封の陥落を生き延びた詩人の元好問は、金朝の滅亡を悼む詩を書き、その歴史を残すために尽力した。今日の中華人民共和国では、女真族もモンゴル人も中国の多民族的な歴史の一部とされ、チンギス・ハンが中国の歴史上の人物として紹介されることもある。この見方にはモンゴルで異論がある。

南宋にとって金朝の滅亡は、当初、1127年に受けた屈辱への報復だった。哀宗の遺骸は持ち帰られ、宋の皇室の宗廟に供えられたと伝えられる。しかし宋はすぐに、はるかに危険な隣国と向き合うことになった。朝鮮半島では、金朝の勢力が崩れたことで契丹人の避難民や短命に終わった東夏の勢力が流入した。高麗は1218~1219年にモンゴル軍と初めて接触して共同で行動し、その後1231年からモンゴルによる侵攻を受けた。

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一次史料

『元朝秘史』は、13世紀にモンゴル人が書いた唯一の主要な叙述史料である。モンゴル側の視点を伝えるが、金朝との戦争については簡潔で、ときに曖昧である。成立年代そのものにも議論がある。中国語の『聖武親征録』と、14世紀初めのラシードゥッディーンによるペルシア語の史書にも、関連するモンゴルの伝承が残されている。

『金史』と『元史』は王朝の正史である。『金史』は1343~1344年に元朝の宰相脱脱のもとで、金朝の記録や元好問ら金朝の生存者が集めた資料を使って編纂された。『元史』は明朝初期の朝廷によって1369~1370年の約1年間で急いで編纂され、記述に食い違いがある。両書には慣用的な数字や定型的な表現が含まれるため、批判的に読む必要がある。

同時代の観察者は貴重な詳細を伝えている。宋の使節は、趙珙の『蒙韃備録』(1221年)や、彭大雅と徐霆の『黒韃事略』(1230年代)など、モンゴルについての報告を書いた。劉祁の『帰潜志』のような金朝側の目撃記録には、開封の包囲と陥落が描かれている。耶律楚材の墓誌などの碑文は役人の生涯を伝えるが、対象者を称賛する傾向がある。

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歴史研究と論争

なぜ金朝は滅んだのか。従来の説明では、機動力の高い騎兵、軍紀、容赦のない戦略といったモンゴル軍の軍事的優位が重視された。現代の歴史家は、宮廷での政変、財政危機と紙幣のインフレ、複数の戦線で戦う負担など、金朝内部の弱さも指摘する。とりわけ、契丹人、漢人、さらには女真族の指揮官までがモンゴル側に移り、歩兵、技術者、地域の知識をもたらしたことが重要視される。モンゴル軍が中国や中央アジアの技術を用いて攻城戦に適応したことは、帝国史の転換点とみなされている。

チンギスは最初から征服を意図していたのか。中国での初期のモンゴル軍の作戦は、大規模な襲撃に見えることが多い。都市を占領しても、戦利品や捕虜を連れて撤退したからである。H・デズモンド・マーティンの古典的研究(1950年)を踏まえ、木華黎とオゴデイのもとで襲撃から計画的な征服へと徐々に変わったと考える歴史家もいる。一方、チンギスの東方での目標は当初から大きかったが、現地の同盟者を集めるまで領土を占領する手段がなかったと重視する研究者もいる。

人口の記録が示すように、破壊の規模についても論争が続いている。かつてはモンゴルを比類なく破壊的な存在として描くことが多かった。近年の研究は残虐行為を軽視せずに、移住、戸籍への登録、疫病の影響を調べ、当時のほかの軍隊の行動とも比較する。「征服王朝」という概念は、カール・ウィットフォーゲルと馮家昇が1949年の遼朝研究で提示したもので、遼、金、元、清の研究や、その支配者たちがどの程度「漢化」し、あるいは独自の文化的特徴を保ったかという議論の枠組みになった。金朝は征服する側の王朝であると同時に征服された王朝でもあり、こうした議論の中心に位置する。

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主な戦い(4)

  1. 野狐嶺の戦い1211年
  2. 中都の戦い1215年
  3. 開封包囲戦1232–1233年
  4. 蔡州攻囲戦1233–1234年

重要なポイント

遊牧地帯と農耕地帯
この戦争は、遊牧民の騎兵帝国と人口の多い農耕国家との衝突だった。
襲撃から征服へ
中国でのモンゴル軍の作戦は、略奪を目的とする襲撃から計画的な占領へと変化した。
離反と地方有力者
モンゴル側に移った契丹人、漢人、女真族の指揮官は、勝利に重要な役割を果たした。
攻城戦と火薬
中都と開封の包囲戦では、双方が進んだ工学技術や初期の火薬兵器を使った。
略奪か徴税か
耶律楚材らの助言者は、農民を滅ぼすよりも税を課すようモンゴルの指導者に勧めた。
征服王朝
金朝と元朝はいずれも、中国の北方の境界を越えて来た人々が建てた王朝だった。
不確かな数字
史料に記された兵力や死者数は信頼性に限界があり、歴史家はおおよその目安として扱う。

記録

  1. 1115年 — 完顔阿骨打が金朝を建てる。
  2. 1127年 — 金朝が開封を占領して宋の皇帝二人を捕らえ、宋は南へ退く。
  3. 1206年 — テムジンがチンギス・ハンと称する。
  4. 1210年 — 西夏がモンゴルに服従し、チンギスは金朝の新皇帝による服従要求を拒む。
  5. 1211年 — モンゴル軍が侵攻し、野狐嶺の戦いで金朝軍を破る。
  6. 1214年 — 金朝が婚姻同盟と貢納によって講和し、その後、宮廷を開封へ移す。
  7. 1215年 — 中都が降伏し、略奪される。
  8. 1217年 — 木華黎が中国での戦争の指揮を任される。
  9. 1227年 — チンギス・ハンが死に、西夏が滅ぼされる。
  10. 1232年 — モンゴル軍が三峰山で金朝の主力軍を壊滅させ、開封を包囲する。
  11. 1233年 — 開封が降伏し、宋がモンゴルと同盟する。
  12. 1234年 — 蔡州が陥落し、哀宗が死んで金朝が滅亡する。

用語集

女真族
満洲地方の人々。金朝を建て、後に満洲族の祖先となった。
金朝
女真族が支配し、1115年から1234年まで中国北部を治めた王朝。
ハン/大ハン
草原の諸民族の支配者を表す称号。大ハンはモンゴル帝国全体を治めた。
契丹人
遼朝を建て、後に女真族に征服された人々。
西夏
中国北西部にあったタングート人の国。1227年にモンゴルによって滅ぼされた。
中都
現在の北京にあった金朝の「中央の都」。
南宋
1127年以降、中国南部を治めた王朝。1279年にモンゴルに征服された。
分封地
支配者一族の生活や活動を支えるため、その一族に与えられた土地と戸。
震天雷
金朝の守備兵が用いた初期の火薬を使った爆発兵器。

よくある質問

金朝とは何ですか。

金朝は満洲地方出身の女真族が建てた王朝で、1115年から1234年まで中国北部を治めました。

なぜ戦争は長く続いたのですか。

中国北部には城壁に囲まれた都市が多く、何百万人もの人が暮らしていました。モンゴル軍は当初、占領よりも襲撃を行い、チンギス・ハンは中央アジアでの戦争にも向かいました。金朝を滅ぼすには攻城戦を学び、現地の同盟者を集める必要がありました。

モンゴル軍は火薬を使いましたか。

開封では主に金朝の守備兵が火薬を使った爆弾や火槍を用いました。モンゴル軍もまもなく、こうした技術と技術者を取り入れました。

何人が亡くなりましたか。

正確な人数は分かりません。戸籍上の人口は大きく減りましたが、その一部は避難した人や記録から漏れた人によるものです。戦争、飢饉、病気による死者が膨大だったことでは歴史家の見解が一致しています。

宋はどのような役割を果たしましたか。

戦争の終盤、南宋はモンゴルと同盟し、1234年の蔡州の占領に協力しました。しかし、その直後に宋とモンゴルは戦争を始めました。

『元史』と『金史』はどのくらい信頼できますか。

欠かせない史料ですが、編纂されたのは出来事から約100年後で、特に『元史』は非常に急いで作られました。慣用的な数字や矛盾も含まれるため、歴史家はモンゴル、ペルシア、宋の史料と比較して読みます。

金朝は中国の王朝だったのですか。

女真族が建てた王朝ですが、住民の大部分は漢人で、中国の制度も多く使っていました。中国の歴史的伝統では正統な王朝に数えられ、支配者たちがどの程度漢化したかは歴史家の間で議論されています。

出典・参考文献

  1. Mongol conquest of the Jin dynasty. Wikipedia
  2. Jin dynasty (1115–1234). Wikipedia
  3. Battle of Zhongdu. Wikipedia
  4. Siege of Kaifeng (1232). Wikipedia
  5. Yelü Chucai. Wikipedia
  6. The Secret History of the Mongols. Wikipedia
  7. Yuan Haowen. Wikipedia
  8. History of Jin. Wikipedia
  9. Herbert Franke and Denis Twitchett (eds.), The Cambridge History of China, Vol. 6: Alien Regimes and Border States, 907–1368. Cambridge University Press, 1994
  10. H. Desmond Martin, The Rise of Chingis Khan and His Conquest of North China. Johns Hopkins Press, 1950

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上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。

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