最初はやさしい入門です。下に進むほど詳しい説明や研究内容を読めます。
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子ども向け
約1300年前、北アフリカから来た軍隊が海を渡り、今のスペインとポルトガルにあたる土地へ入りました。軍隊はイスラム教の帝国のために戦い、数年でその土地のほとんどを治めました。イスラム教徒はこの土地をアル=アンダルスと呼びました。
雨が多く山がちな北のはしにだけ、小さなキリスト教徒の国が残りました。何百年もかけて、その国々は大きくなり、南へ広がりました。前へ進んだり、押し戻されたりしながら、少しずつ進んだのです。
ずっと戦争をしていたわけではありません。戦いもありましたが、平和な時期や、物の売り買いをする時期もありました。イスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒が同じ町に住み、互いに学ぶこともありました。キリスト教の王が、イスラム教徒を味方にして別のキリスト教の王と戦うこともありました。
1492年、最後のイスラム教の王国グラナダが、イサベル女王とフェルナンド王に降伏しました。グラナダにはアルハンブラ宮殿があります。同じ年、キリスト教徒にならないユダヤ教徒はスペインを出るよう命じられました。その後、イスラム教徒も改宗を強いられ、さらに後には追放されました。
この歴史をどう語るかについて、今も意見が分かれています。故郷を取り戻すための勇敢な戦いと考える人もいます。異なる宗教の人々が共に暮らした社会が失われた、悲しい歴史と考える人もいます。
ひと目でわかる
- 時期
- 伝統的には、コバドンガの戦い(718年または722年ごろ)からグラナダの陥落(1492年1月2日)まで
- 場所
- イベリア半島(現在のスペインとポルトガル)
- 交戦勢力
- キリスト教諸王国(アストゥリアス・レオン、カスティーリャ、ナバラ、アラゴン、カタルーニャ、ポルトガル)と、アル=アンダルスのイスラム諸国家(コルドバのウマイヤ朝首長国・カリフ国、タイファ諸王国、ムラービト朝、ムワッヒド朝、ナスル朝グラナダ王国)
- 転換点
- トレド(1085年)、ラス・ナバス・デ・トロサ(1212年)、コルドバ(1236年)、セビリア(1248年)、グラナダ(1492年)
- 性格
- 約8世紀にわたって断続的に起きた戦争、襲撃、征服。休戦、同盟、貢納も交互に見られた
- 結果
- イベリア半島におけるイスラム教徒の政治的支配が終わった。その後、ユダヤ教徒(1492年)とモリスコ(1609~1614年)は改宗を強いられたり、追放されたりした
- 主な史料
- ラテン語の年代記(『754年の年代記』『アルフォンソ3世の年代記』)、アラビア語の歴史書(イブン・イザーリー、アル=マッカリー)、叙事詩、特許状、教皇勅書
- 名称
- 「レコンキスタ」という語が一般的になったのは19世紀であり、その使用について歴史家の間で議論がある
やさしい
レコンキスタとは何か
レコンキスタ(スペイン語・ポルトガル語で「再征服」)は、イベリア半島のキリスト教諸王国が、イスラム教徒の支配地域アル=アンダルスへ向けて南方に拡大した過程の伝統的な呼び名である。一般には、718年または722年ごろ、アストゥリアスの山中で起きたコバドンガの小さな勝利に始まり、1492年1月2日のナスル朝グラナダ王国の降伏で終わるとされる。
この約800年間、戦争が途切れず続いたわけではない。国境がほとんど動かない時期も長かった。キリスト教徒とイスラム教徒の支配者は休戦し、互いに貢納し、姻戚関係を結び、相手方の兵士を雇った。エル・シッドとして知られるカスティーリャの武人ロドリゴ・ディアスは、キリスト教徒とイスラム教徒の双方の君主に仕えた後、1094年に自らのためにバレンシアを征服した。
そのため現代の歴史家の多くは、レコンキスタを一つの計画に沿った事業として扱うことを避ける。彼らは「辺境社会」や、異なる原因を持つ数々の戦争として論じる。一方で、11世紀以降、失われたキリスト教徒の土地を回復するという考えや聖戦の思想が、ますます強い影響力を持ったことも認めている。
やさしい
背景:アル=アンダルスの成立
711年、ターリク・イブン・ズィヤードが率いる、主にベルベル人からなるイスラム軍が北アフリカからイベリア半島へ渡った。当時、半島はキリスト教の西ゴート王国が治めていた。西ゴート王ロデリックは敗れて死亡し、約7年のうちに半島の大半が、ダマスカスを中心とするウマイヤ朝の支配下に入った。ターリクが上陸した場所の岩山には今もその名が残る。ジブラルタルという名は「ターリクの山」を意味するジャバル・ターリクに由来する。
ガリシアからアストゥリアスを経てピレネー山脈に至る北部の山岳地帯だけが、イスラム教徒の支配を免れた。後世のキリスト教徒の年代記によると、ペラギウス(ペラヨ)という貴族がコバドンガでイスラム軍を破り、アストゥリアス王国を建てた。この戦いは小規模な衝突だった可能性が高く、年代も確かではないが、後にこの歴史全体の象徴的な出発点となった。
アル=アンダルスは中世ヨーロッパでも特に文化が栄えた社会の一つになった。756年、ウマイヤ家の生き残りであるアブド・アッラフマーン1世がコルドバに独立した首長国を建て、929年にはアブド・アッラフマーン3世がカリフを名乗った。コルドバはヨーロッパ有数の大都市となり、大モスク、図書館、学者たちで知られた。イスラム教徒の支配下に住むキリスト教徒とユダヤ教徒は「被保護民」(ズィンミー)とされた。特別な税を納め、法律上の制限を受けたが、自分たちの宗教を信じることはできた。
やさしい
誰が参加したのか
キリスト教側では、アストゥリアス王国がレオン王国へと発展し、そこから最大のキリスト教勢力となるカスティーリャが生まれた。東ではナバラ(パンプローナ)王国、バルセロナ伯領、アラゴン王国が勢力を広げた。バルセロナ伯領とアラゴン王国は1137年からアラゴン連合王国として結びつき、地中海沿岸に拡大した。西ではポルトガル伯領が12世紀に独立王国となった。これらの王国は互いに対立することも多く、イスラム諸国家と戦うのと同じくらい頻繁に、王国同士で戦った。
イスラム教側では、コルドバのウマイヤ朝首長国とカリフ国が11世紀初めまで強勢を保った。1031年以降にカリフ国が分裂すると、アル=アンダルスは数十の小さな「タイファ」王国に分かれた。これらは豊かだったが軍事的には弱く、キリスト教の王に貢納金(パリアス)を払うことが多かった。その後、北アフリカの有力な二つのベルベル人王朝、ムラービト朝(1086年から)とムワッヒド朝(1140年代から)が海峡を渡り、アル=アンダルスの大部分を再統一した。両王朝の衰退後も、ナスル朝グラナダ首長国は1238年から1492年まで存続した。
域外からの参加者もいた。特に教皇がイベリア半島での戦いに十字軍の贖宥を認め始めてから、フランスなどの騎士が戦いに加わった。テンプル騎士団のような国際的なものに加え、カラトラバ騎士団、サンティアゴ騎士団、アルカンタラ騎士団などの地域の宗教騎士団が国境を守り、広大な領地を得た。イスラム教側には、モロッコのマリーン朝など北アフリカの国家が14世紀まで軍を送った。
やさしい
経過:コバドンガからトレドまで(720年ごろ~1085年)
最初の3世紀、北部のキリスト教諸王国は小さく貧しく、力関係はコルドバに有利だった。キリスト教の王たちは国境を山地からドゥエロ川流域へと少しずつ押し進め、人口の少ない地域に農民を移住させ、自由な村を築いた。一方、コルドバの軍はほぼ毎夏、北方を襲撃した。最も有名な指揮官アル=マンスール(アルマンソル)は、985年にバルセロナ、997年にサンティアゴ・デ・コンポステーラを略奪した。
宗教と伝説は北部諸王国を強めた。9世紀、ガリシアで見つかった墓が使徒ヤコブ(サンティアゴ)のものとされ、サンティアゴ・デ・コンポステーラはキリスト教世界の主要な巡礼地となった。ピレネー山脈の向こうから巡礼者、移住者、資金が集まった。後世の伝説では、聖ヤコブは「ムーア人を討つサンティアゴ」と呼ばれる馬上の戦士となり、戦場に現れたとされた。王たちは新たな国境地帯を維持するため、移住者に権利を定めた特許状(フエロ)を与え、城を築いた。カスティーリャという名も、この辺境に数多くあった城に由来する。
1009年以降の内戦でコルドバのカリフ国が崩れ、1031年に正式に廃止されると、力関係が変わった。タイファの王たちは互いに争い、金を貢納してキリスト教の支配者から保護を買った。この金の流入はカスティーリャとレオンの財政を支えた。1085年、レオン・カスティーリャ王アルフォンソ6世が、半島中央部にある西ゴート王国の旧都トレドを攻略した。トレドは恒久的に支配者が変わった最初の大都市であり、象徴的に大きな勝利だった。
中級
ムラービト朝、ムワッヒド朝と大規模な進出(1086~1248年)
トレドの陥落に危機感を抱いたタイファの王たちは、モロッコに帝国を築いた厳格なベルベル人の改革運動、ムラービト朝を招いた。1086年、ムラービト朝の支配者ユースフ・イブン・ターシュフィーンはサグラハス(アル=ザッラーカ)の戦いでアルフォンソ6世を破り、間もなくタイファ諸王国を自ら支配した。12世紀には別のベルベル人の運動であるムワッヒド朝がこれに代わり、1195年のアラルコスの戦いでカスティーリャを破った。同じ世紀、キリスト教軍も進出を続けた。アラゴンは1118年にサラゴサを獲得し、ポルトガルは聖地へ航海する十字軍の助けを得て1147年にリスボンを攻略した。
決定的な転機は1212年7月のラス・ナバス・デ・トロサの戦いだった。カスティーリャ、アラゴン、ナバラの連合軍は、教皇インノケンティウス3世が表明した支援を受けてムワッヒド朝の軍を大敗させた。イベリア半島におけるムワッヒド朝の勢力は、その後一世代のうちに崩壊した。カスティーリャ王フェルナンド3世は1236年にコルドバ、1248年にセビリアを攻略した。アラゴン王ハイメ1世はマヨルカ島(1229年)とバレンシア(1238年)を獲得し、ポルトガルは1249年にアルガルヴェの征服を完了した。
征服された地域のイスラム教徒は、土地を離れるか、キリスト教の支配下でも信仰を保つことを認められた臣民「ムデハル」として残ることが多かった。これは、イスラム教徒の支配下で暮らしたキリスト教徒「モサラベ」に似ている。征服された多くの都市では、中心となるモスクが大聖堂に改められた。アンダルシアの広大な土地は貴族、教会、宗教騎士団に与えられ、その後何世紀もスペイン南部に影響を及ぼす大土地所有が生まれた。
中級
グラナダとイスラム教徒の支配の終わり(1248~1492年)
1248年以降、残ったのはナスル朝が治めるグラナダ首長国だけだった。カスティーリャに貢納していたことに加え、カスティーリャがしばしば内戦に追われていたこともあり、約250年間存続した。ナスル朝はイスラム建築の傑作の一つ、アルハンブラ宮殿を築いた。1340年のリオ・サラドの戦いでは、カスティーリャとポルトガルがマリーン朝・ナスル朝の連合軍を破り、北アフリカからの大規模な軍事介入が終わった。
カスティーリャのイサベルとアラゴンのフェルナンドの結婚(1469年)により、二つの最大のキリスト教王権が結びついた。1482年から両者は、ナスル朝一族の内紛を利用し、城に対して火薬を使う大砲を用いて、グラナダと10年間戦った。最後の首長ムハンマド12世(スペイン語名ボアブディル)は1492年1月2日に都を明け渡した。グラナダ降伏協定では、イスラム教徒が信仰、財産、法律を保てると約束された。
この約束はまもなく破られた。数年のうちに集団洗礼が始まり、1499~1501年の反乱につながった。その後、カスティーリャのイスラム教徒は改宗か退去を命じられ(1502年)、アラゴンも1520年代に同様の措置を取った。改宗したイスラム教徒はモリスコと呼ばれ、不信の目を向けられ、言語や習慣を捨てるよう圧力を受けた。これが1568~1571年のアルプハラスの反乱を引き起こした。1609年から1614年にかけて、スペイン王権はモリスコを追放した。その人数は一般に約30万人と推定される。
中級
人的被害と辺境での暮らし
8世紀にわたる過程全体の死者数について、信頼できる合計はない。中世の年代記に記された戦闘の人数は、あり得ないほど大きいことが多い。襲撃、包囲、飢饉、奴隷化による一般の人々の犠牲は、ほとんど数えられていない。確かなのは、双方が作物を荒らし、村を焼き、捕虜を連れ去って身代金と引き換えにしたり売ったりする襲撃を行ったことである。捕虜の身請けは広く行われ、メルセー会や三位一体修道会などの宗教団体は、その活動を目的の一つとして設立された。
人々への最大の影響は人口移動だった。多くのイスラム教徒が征服された都市を離れ、グラナダや北アフリカへ向かい、キリスト教徒がその土地に移り住んだ。イスラム教徒とキリスト教徒の双方の領域で栄えたユダヤ教徒は、14世紀後半に迫害が強まり、1391年には大規模な虐殺に遭った。グラナダ陥落から3か月もたたない1492年3月31日、フェルナンドとイサベルは、ユダヤ教徒に改宗か退去を命じるアルハンブラ勅令を出した。退去した人数の推定には大きな幅があり、数万人から約20万人とされる。多くはポルトガル、北アフリカ、イタリア、オスマン帝国へ向かった。
辺境での暮らしは暴力だけではなかった。トレドなどの都市は翻訳の中心地となり、ギリシア語文献のアラビア語訳を含む、哲学、医学、天文学のアラビア語文献が、ユダヤ教徒やイスラム教徒の学者の助けを得てラテン語に訳された。ムデハルの職人たちは、教会や宮殿にも用いられる独特の美術様式を生み出した。このような協力関係が実際にどれほど平和的だったかについては、今も歴史家の間で議論がある。
中級
影響
政治的には、この過程を通じて、後にスペインとポルトガルとなる諸王国が形成された。長く辺境を抱えたカスティーリャでは、王権、貴族、宗教騎士団が大きな力を持ち、戦争、土地、宗教的な帰属を重んじる社会が形作られた。1249年に南方の征服を終えたポルトガルは、より早く国外へ目を向けた。1415年の北アフリカのセウタ攻略は、ポルトガルの海外進出の始まりと見なされることが多い。
1492年は、グラナダの終わりとスペインの大西洋帝国の始まりを結ぶ年でもある。コロンブスはグラナダ郊外の陣営で王室の支援を得て、8月に出航した。征服地の分配、大規模な改宗、異教徒と戦うという考え方など、イベリア半島の辺境で育った制度や姿勢とアメリカ大陸の征服に連続性を見る歴史家は多い。ただし、そのつながりがどれほど直接的だったかは議論されている。
宗教面では、イスラム教徒による支配が終わった後、社会を一様にカトリック化しようとする動きが続いた。1478年に設立されたスペイン異端審問所は、ユダヤ教やイスラム教からの改宗者を調査した。また、「血の純潔」(リンピエサ・デ・サングレ)という考え方の下で、ユダヤ教徒やイスラム教徒の祖先を持つ人々が何世代にもわたって差別された。アラビア語圏やイスラム世界では、アル=アンダルスの喪失が、失われた楽園を表す永続的な象徴となった。
中級
レコンキスタはどう記憶されているか
スペインでは19世紀の歴史家が、レコンキスタを国の成立を語る物語とした。それは、キリスト教のアイデンティティーを守り、土地を取り戻す人々の物語だった。フランシスコ・フランコの独裁政権下(1939~1975年)では、この見方が公式の「国民カトリック主義」の歴史観の一部となり、フランコはペラヨやエル・シッドになぞらえられた。民主化後、多くの歴史家がこの歴史像を批判した。21世紀には、スペインやヨーロッパの他の地域で、一部の右派・極右団体がイスラム教徒の移民に反対するため「レコンキスタ」という言葉を再び使い、公の場で批判を受けている。
地域ごとの記憶は多様である。スペイン各地の町では、行進や模擬戦を伴う「ムーア人とキリスト教徒」の祭りが開かれる。グラナダでは毎年1月2日を記念する式典が行われる。これを文化遺産と見る人もいれば、イスラム教徒とユダヤ教徒の敗北や、その後の迫害を祝っているとして批判する人もいる。一方、アンダルシアの地域主義者や多くの研究者は、建築、言語、食文化に残るアル=アンダルスの遺産を重視する。スペイン語にはアラビア語に由来する単語が数千ある。
アラブ世界やより広いイスラム世界では、アル=アンダルスは学問と共存の黄金時代として懐かしむ対象となっている。その喪失は、グラナダを振り返ったボアブディルの最後のため息という物語に象徴され、分裂への戒めとして語られる。セファルディ系ユダヤ人にとって、1492年は神殿の破壊にも比べられる追放の年である。2013~2015年、ポルトガルとスペインは、追放されたセファルディ系ユダヤ人の子孫に国籍取得の道を開く法律を制定した。こうした異なる記憶は、同じ歴史がある人々には回復を、別の人々には喪失を意味し得ることを示している。
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一次史料とその問題点
最初の2世紀についての証拠は少ない。最も古いラテン語の記録は、イスラム教徒の支配下で暮らしたキリスト教徒が書いた、著者不明の『754年の年代記』である。この年代記は征服を大惨事として描くが、コバドンガには触れていない。ペラヨの物語は、9世紀後半のアストゥリアスの年代記、特に『アルフォンソ3世の年代記』に現れる。この年代記は、西ゴート王国の後継者を自任する宮廷で書かれた。したがって、これらの文書は目撃記録ではなく、後の時代の回復の理念を反映している。
アラビア語の史料は豊富だが、大部分は後世に書かれた。イブン・ハイヤーン(11世紀)、イブン・イザーリー(1300年ごろ)、アル=マッカリー(17世紀)などの歴史家は、現在では失われたものも含む、より古い資料を編纂した。1090年にムラービト朝によって退位させられたグラナダの最後のズィーリー朝君主アブド・アッラーの回想録からは、タイファの政治を本人の視点で知ることができる。後期のキリスト教側の史料には、王家の年代記、再入植の特許状(フエロ)、教皇の書簡、『わがシッドの歌』のような叙事詩がある。ただし、叙事詩は歴史記録ではなく文学作品である。
これらの史料はいずれも軍勢の規模を誇張し、出来事を宗教的な枠組みで描く。そのため歴史家は、考古学、地名研究、貨幣、法律文書と組み合わせて検討する。例えばドゥエロ川流域の考古学的な調査は、キリスト教徒による再入植以前、この地域が完全に無人の荒野だったとする古い見方に疑問を投げかけている。
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歴史研究:「レコンキスタ」は適切な言葉か
この言葉自体は近代のものである。中世の著述家はスペインの回復やサラセン人との戦いを語ったが、歴史上の一時期を指す名称として「レコンキスタ」がスペインの歴史研究で一般的になったのは19世紀で、国民意識と密接に結びついていた。批判者は、この語には、キリスト教徒のイベリア半島側が何世紀もイスラム教徒の支配下にあった土地に変わらぬ権利を持っていたという前提があり、アル=アンダルスを外来の一時的な支配として扱うと指摘する。現在では「キリスト教徒による征服」や「キリスト教諸王国の拡大」といった中立的な表現を好む歴史家もいる。
20世紀の代表的な論争では、スペイン人のアイデンティティーはイスラム教に対する長い闘争によって形作られたと考えるクラウディオ・サンチェス=アルボルノスと、スペインはキリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒の交流から生まれたと論じるアメリコ・カストロが対立した。カストロの見方は、コンビベンシア(「共生」)という広く知られる考え方に影響を与えた。後の研究者は、理想化された共生像と、絶え間ない宗教戦争という物語の両方を批判し、共存には階層、差別、暴力も伴っていたと強調する。
もう一つの論点は、レコンキスタと十字軍の関係である。ジョセフ・F・オキャラハンは、11世紀後半から、イベリア半島での戦争が教皇勅書や贖宥に支えられ、しだいに十字軍として理解され、組織されるようになったと論じた。一方、土地、貢納、王権といった地域的な動機が宗教思想より重要な場合が多く、宗教の違いを越えた同盟も最後まで続いたと強調する歴史家もいる。
主な戦い(39)
- コバトンガの戦い718年
- ブルビア川の戦い791年
- ルトスの戦い794年
- ラス・バビアスの戦い795年
- バルセロナ包囲戦 (801年)800–801年
- パンコルボの戦い816年
- クラビホの戦い844年
- アルベルダの戦い851年
- グアダラセーテの戦い852年
- モンテ・ラトゥルセの戦い859年
- ヴァルデジュンケラの戦い920年
- シマンカスの戦い939年
- バルセロナ略奪985年
- カラタニャソルの戦い1002年
- グラウスの戦い1063年
- バルバストロ十字軍1064年
- サグラハスの戦い1086年
- アルコラスの戦い1096年
- ウクレスの戦い (1108年)1108年
- サラゴサ征服1118年
- クタンダの戦い1120年
- フラガの戦い1134年
- オーリッケの戦い1139年
- アルメリア包囲戦1146–1147年
- サンタレンを征服1147年
- アラコルスの戦い1195年
- ナバス・デ・トロサの戦い1212年
- ヘレスの戦い1231年
- コルドバ包囲戦1235–1236年
- セビリア包囲戦1248年
- アルヘシラス包囲戦1278–1279年
- ジブラルタル包囲戦 (1309年)1309年
- サラードの戦い1340年
- アルヘシラス包囲戦1342–1344年
- セウタ征服1415年
- ラ・イゲルエラの戦い1431年
- グラナダ条約 (1491年)1491年
- グラナダ陥落1491–1492年
- アルカセル・キビールの戦い1578年
重要なポイント
- 辺境社会
- 何世紀もの間、キリスト教徒とイスラム教徒の領域は位置の変わる境界を接し、そこで襲撃、交易、同盟、再入植が行われた。
- 回復の理念
- アストゥリアスとレオンのキリスト教の王たちは、自らを西ゴート人の後継者とし、失われた土地を取り戻す権利があると主張した。
- 貢納と同盟
- タイファの王たちはキリスト教の支配者に金の貢納金(パリアス)を払い、宗教の違いを越えた同盟も一般的だった。
- 聖戦と十字軍
- 11世紀以降、教皇はイベリア半島での戦いに十字軍の贖宥を与え、戦争を宗教的に捉える見方を強めた。
- 共存とその限界
- モサラベ、ムデハル、ユダヤ教徒は異なる信仰を持つ支配者の下で暮らし、保護を受ける一方、法律上は平等ではなかった。
- 1492年以降の宗教的統一
- グラナダの終わりに続き、ユダヤ教徒とイスラム教徒は追放されたり、改宗を強いられたりした。
- 議論のある名称
- 「レコンキスタ」は19世紀に定着した名称で、国民的・宗教的な解釈を伴う。
記録
- 711年 — ターリク・イブン・ズィヤードの軍がイベリア半島へ渡り、西ゴート王国が崩壊する。
- 722年頃 — コバドンガの戦い。アストゥリアス王国が成立する(年代は不確かで、718~722年ごろ)。
- 756年 — アブド・アッラフマーン1世がコルドバにウマイヤ朝首長国を建てる。
- 929年 — アブド・アッラフマーン3世がコルドバのカリフ国を宣言する。
- 1031年 — カリフ国が廃止され、アル=アンダルスはタイファ諸王国に分かれる。
- 1085年 — レオン・カスティーリャ王アルフォンソ6世がトレドを攻略する。
- 1086年 — ムラービト朝がサグラハス(アル=ザッラーカ)の戦いでアルフォンソ6世を破る。
- 1147年 — ポルトガルが十字軍の助けを得てリスボンを攻略する。
- 1212年 — キリスト教諸王国の連合軍がラス・ナバス・デ・トロサの戦いでムワッヒド朝を破る。
- 1248年 — カスティーリャ王フェルナンド3世が、コルドバ(1236年)に続いてセビリアを攻略する。
- 1492年 — 1月2日にグラナダが降伏する。アルハンブラ勅令により、洗礼を拒むユダヤ教徒が追放される。
- 1609年 — モリスコの追放が始まる(1614年に完了)。
用語集
- アル=アンダルス
- イスラム教徒の支配下にあったイベリア半島の地域を指すアラビア語名。
- タイファ
- 11世紀にコルドバのカリフ国が分裂した後に成立した、イスラム教徒の小王国の一つ。
- パリアス
- 保護や平和を得るため、タイファの王たちがキリスト教の支配者に払った貢納金。通常は金で支払われた。
- モサラベ
- アル=アンダルスでイスラム教徒の支配下に暮らしたキリスト教徒。アラビア語を話す人も多かった。
- ムデハル
- キリスト教徒の支配下で、自分たちの宗教を保つことを認められたイスラム教徒。
- モリスコ
- 1500年以降、キリスト教への改宗を強いられたイスラム教徒とその子孫。
- ムラービト朝
- 11世紀後半からアル=アンダルスを治めた、モロッコ出身のベルベル人王朝。
- ムワッヒド朝
- 12世紀にムラービト朝に代わった、ベルベル人の宗教改革運動による王朝。
- 宗教騎士団
- サンティアゴ騎士団やカラトラバ騎士団のように、辺境で戦った騎士たちの宗教団体。
- コンビベンシア
- 「共に暮らすこと」を意味し、中世イベリア半島におけるキリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒の共存を指す現代の用語。
よくある質問
当時の人々は「レコンキスタ」と呼んでいたのですか?
いいえ。中世の著述家は、スペインの回復やムーア人との戦いについて語りました。この時代を指す標準的な名称として「レコンキスタ」が広まったのは19世紀です。
常に宗教同士の戦争だったのですか?
いいえ。平和が長く続いた時期もあり、キリスト教徒とイスラム教徒の支配者はしばしば同盟を結びました。11世紀以降、特に十字軍の思想とともに、宗教はより強い動機になりました。
エル・シッドとは誰ですか?
11世紀のカスティーリャの武人、ロドリゴ・ディアス・デ・ビバールです。キリスト教徒とイスラム教徒の双方の支配者のために戦い、1094年にバレンシアを征服しました。後世の詩によって国民的英雄になりました。
1492年以降、イスラム教徒とユダヤ教徒はどうなりましたか?
ユダヤ教徒は1492年に改宗か退去を命じられました。イスラム教徒には信教の自由が約束されましたが、1500年代初めに改宗を強いられました。改宗したモリスコは1609~1614年に追放されました。
何人が亡くなりましたか?
分かっていません。年代記は戦闘の人数を誇張しており、襲撃、飢饉、捕虜生活による死者も数えられていません。歴史家は総数を示すことを避けています。
一部の歴史家が「レコンキスタ」という言葉を避けるのはなぜですか?
キリスト教諸王国が、当然自分たちのものである土地を取り戻したという前提を含み、民族主義や反イスラム教徒の政治にも使われてきたためです。中立的な表現なら、その前提を置かずに同じ出来事を説明できます。
レコンキスタは十字軍とどう関係していましたか?
11世紀後半から、教皇はイベリア半島で戦う人々に十字軍の特権を与えました。そのため、半島での戦争を十字軍の一部と考える歴史家もいます。一方、地域の政治的な動機を重視する歴史家もいます。
出典・参考文献
- Reconquista. Wikipedia
- Al-Andalus. Wikipedia
- Battle of Covadonga. Wikipedia
- Granada War. Wikipedia
- Alhambra Decree. Wikipedia
- Expulsion of the Moriscos. Wikipedia
- Joseph F. O'Callaghan, Reconquest and Crusade in Medieval Spain. University of Pennsylvania Press, 2003
- Hugh Kennedy, Muslim Spain and Portugal: A Political History of al-Andalus. Longman, 1996
- Derek W. Lomax, The Reconquest of Spain. Longman, 1978
上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。