戦争

第二次ポエニ戦争

Bellum Punicum secundum

紀元前218–201年 ·

ひとことで

第二次ポエニ戦争(紀元前218~201年)は、ローマとカルタゴが17年間にわたって戦った戦争である。ハンニバルはアルプス山脈を越えてイタリアで大勝を重ねたが、ローマは降伏せず、最後にはスペインとアフリカでカルタゴを破り、西地中海で最も強い勢力となった。

最初はやさしい入門です。下に進むほど詳しい説明や研究内容を読めます。

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子ども向け

今から2200年以上前、地中海をはさんで二つの大きな国が向かい合っていました。一つはイタリア半島の大部分を支配する都市ローマです。もう一つは、今のチュニジアにあった豊かな貿易都市カルタゴです。カルタゴはフェニキアから来た人々がつくった都市なので、ローマ人はカルタゴ人を「ポエニ人」と呼びました。そのため、この戦争はポエニ戦争と呼ばれます。

ローマとカルタゴは、すでに一度長い戦争をしていました。その戦争でカルタゴはシチリア島を失いました。その後、カルタゴのバルカ家はスペインに新しい領土を広げました。一族で最も有名なのがハンニバルです。紀元前218年、スペインの都市サグントゥムをめぐる争いの後、再び戦争が始まりました。

ハンニバルは、だれも予想しなかったことをしました。船でイタリアへ向かわず、兵士と馬、さらには戦象も連れて、スペインから南フランスを通り、雪の積もるアルプス山脈を越えたのです。途中で多くの兵士や動物が死にました。イタリアではローマ軍を何度も破りました。紀元前216年のカンナエの戦いでは、大きなローマ軍を包囲して打ち破りました。ローマにとって最悪の日の一つでした。

それでもローマは降伏しませんでした。新しい軍隊をつくり、イタリアでの大きな戦いを避けながら、ほかの場所でカルタゴと戦いました。スキピオという若いローマの将軍は、スペインにあったカルタゴの領土を奪い、アフリカへ渡りました。ハンニバルは急いで帰国しましたが、紀元前202年、ザマでスキピオに敗れました。

カルタゴは講和し、大量の銀を支払い、軍船のほとんどを手放さなければなりませんでした。ローマは西地中海で最も強い国となり、ハンニバルは歴史上最も有名な将軍の一人となりました。

ひと目でわかる

期間
紀元前218~201年(紀元前219年のサグントゥム包囲が戦争につながった)
主な戦場
イタリア、スペイン(イベリア)、シチリア、サルデーニャ、北アフリカ。ギリシアではマケドニアとの関連する戦争も起きた
交戦勢力
ローマ共和政とそのイタリアの同盟者に対し、カルタゴとその同盟者。カルタゴ側には多くのイベリア人、ガリア人が加わり、一時はカプア、シュラクサイ、マケドニアも加わった。ヌミディアの諸王は双方の側で戦った
主な指導者
ハンニバル、ハスドルバル、マゴ・バルカ(カルタゴ)。クィントゥス・ファビウス・マクシムス、マルクス・クラウディウス・マルケッルス、プブリウス・コルネリウス・スキピオ(のちのアフリカヌス)(ローマ)。マシニッサ(ヌミディア)
主な戦い
トレビア川(紀元前218年)、トラシメヌス湖(紀元前217年)、カンナエ(紀元前216年)、シュラクサイ(紀元前213~212年)、新カルタゴ(紀元前209年)、メタウルス川(紀元前207年)、イリパ(紀元前206年)、ザマ(紀元前202年)
結果
ローマの勝利。紀元前201年、カルタゴはスペインと、10隻を除く艦隊を手放し、50年間で銀1万タラントを支払うことに同意した
主な史料
ポリュビオス『歴史』(第3巻および断片)、リウィウス『ローマ建国史』(第21~30巻)。後代のアッピアノス、カッシウス・ディオ、詩人シリウス・イタリクス

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第二次ポエニ戦争とは?

第二次ポエニ戦争は、ローマ共和政とカルタゴの間で起きた三度の戦争のうち、二度目の戦争である。「ポエニ」はラテン語でフェニキア人を意味する「プニクス」に由来する。カルタゴがフェニキアの都市テュロスから来た人々によって建設されたためである。ローマ人はこれを「ハンニバルとの戦争」と呼び、後世のローマ人は、国家が生き延びた最大の試練と考えた。

戦争は同時に複数の戦線で戦われた。ハンニバルは約15年間イタリアにとどまり、その間、ローマ軍とカルタゴ軍はスペイン、シチリア、サルデーニャでも戦った。ギリシアではマケドニア王フィリッポス5世との別の戦争も続いた。最後はローマ軍がアフリカに進軍し、カルタゴがローマの講和条件を受け入れて終わった。

この戦争は、ハンニバルのアルプス越え、記録に残る中でも屈指の完勝となったカンナエの戦い、そしてその後も講和を拒んだローマによって記憶されている。戦争の結果、ローマは西地中海の支配的な勢力となり、帝国へと向かう道を歩み始めた。

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やさしい

背景:第一次ポエニ戦争からバルカ家のスペイン支配まで

第一次ポエニ戦争(紀元前264~241年)で、ローマとカルタゴは主にシチリアをめぐって戦った。ローマは海軍を建設して勝利し、カルタゴはシチリアを手放して多額の賠償金を支払った。間もなくカルタゴでは、給料を受け取っていない傭兵と支配下のリビア人が激しい反乱を起こした(傭兵戦争、紀元前241~237年)。カルタゴが弱っている間に、ローマはサルデーニャを奪って追加の支払いを要求した。親ローマ的なギリシア人歴史家ポリュビオスでさえ、これを不当と考えた。

シチリアで戦ったカルタゴの将軍ハミルカル・バルカは、紀元前237年にスペインへ渡り、銀山と兵士に恵まれた新たなカルタゴの領土を築いた。彼の死後、娘婿のハスドルバル(「美男」と呼ばれることもある)が事業を引き継ぎ、新カルタゴ(現在のカルタヘナ)を建設した。紀元前226年または225年ごろ、ハスドルバルとローマは、カルタゴ軍がエブロ川を越えないことで合意した。

紀元前221年にハスドルバルが暗殺されると、軍はハミルカルの長男ハンニバルを指揮官に選んだ。彼は当時20代半ばだった。のちにハンニバルがアンティオコス3世に語ったという話によれば、父は少年時代の彼に、決してローマの友人にはならないと誓わせたという。

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中級

原因:サグントゥムと開戦の責任

サグントゥムはエブロ川の南にあり、ローマと何らかの友好関係を結んでいたイベリアの都市である。紀元前219年、カルタゴと同盟する近隣勢力との紛争を経て、ハンニバルが包囲し、約8か月後に陥落させた。ローマはカルタゴへ使節団を送り、ハンニバルの引き渡しを要求した。有名な逸話によれば、ローマの使節クィントゥス・ファビウスはトガのひだを持ち上げ、そこには平和と戦争の両方が入っていると述べた。カルタゴ人が好きな方を渡せと言うと、彼は戦争を選んだという。ローマは紀元前218年の春に宣戦布告した。

古代の著述家たちは、開戦の責任がだれにあるかを論じた。ローマの伝統的な見方は、ハンニバルとバルカ家の復讐心を原因とした。ポリュビオスは、口実(サグントゥム)、戦争の始まり(ハンニバルの攻撃)、さらに深い原因を分けて考えた。深い原因として、ハミルカルの怒り、サルデーニャをめぐるカルタゴ人の反感、スペインでのバルカ家の成功を挙げている。また、サグントゥムはエブロ川の南にあったため、条約上の地位が明確でなかったとも指摘した。

現代の歴史家は、勢力を増すカルタゴ領スペインに対するローマの恐れ、バルカ家の将軍たちとカルタゴ政府それぞれの役割、そもそも双方のどちらかが大規模な戦争を望んでいたのか、といった観点も加えている。定説はなく、親ローマ的な伝承をどの程度信用するかによって見方が大きく変わる。

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中級

イタリアのハンニバル:アルプス、トレビア川、トラシメヌス湖、カンナエ(紀元前218~216年)

ローマはスペインとアフリカの両方を攻撃する計画だったが、ハンニバルが先に動いた。紀元前218年、彼は新カルタゴから進軍してピレネー山脈とローヌ川を越え、晩秋にアルプス山脈を、おそらく約15日間で越えた。ポリュビオスによれば、イタリアに到着したときの兵力は歩兵2万人と騎兵6000人だった。この数字は、ハンニバルが南イタリアに残した碑文に基づく。スペインを出てから多くの兵士を失っていた。37頭いた戦象の大半も、その後まもなく死んだ。アルプス越えの経路は今も議論されている。

ローマに征服されて間もない北イタリアのガリア人諸部族がハンニバルに加わった。彼はティキヌス川でローマ騎兵を破り、紀元前218年12月にはトレビア川でローマ軍を破った。紀元前217年6月、エトルリアのトラシメヌス湖畔で執政官ガイウス・フラミニウスの軍を待ち伏せし、フラミニウスを含む約1万5000人のローマ兵を殺した。ローマはクィントゥス・ファビウス・マクシムスを独裁官に任命した。ハンニバルを追いながら会戦を避ける戦略により、彼は「クンクタトル(ぐずぐずする人)」というあだ名を得た。初めは悪口だったが、のちには称賛の言葉となった。

紀元前216年、ローマは方針を変え、執政官ルキウス・アエミリウス・パウッルスとガイウス・テレンティウス・ウァロが率いる異例の大軍を送った。アプリアのカンナエで、ハンニバルは比較的弱いガリア人とスペイン人の歩兵を前方へ張り出した中央に置いた。中央がゆっくり後退する間に、両翼のアフリカ人歩兵が内側へ向きを変え、騎兵がローマ軍の背後をふさいだ。ローマ軍は包囲された。ポリュビオスはローマ側の死者を約7万人、リウィウスは戦死者4万8200人と、さらに数千人の捕虜を記している。現代の推計はさまざまだが、カンナエは古代史で最も多くの死者を出した一日の戦闘の一つだった。パウッルスや多くの元老院議員も戦死した。

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中級

長い戦争:ローマの粘りと広がる戦線(紀元前216~207年)

カンナエの後、大都市カプアを含む南イタリアの多くの都市がハンニバル側に移り、紀元前215年にはマケドニア王フィリッポス5世が彼と同盟した。紀元前214年には、親ローマ派の王ヒエロン2世の死後、シチリアのシュラクサイもローマに背いた。しかし、中央イタリアにあるローマの同盟網の中核は崩れず、ハンニバルはアフリカから大規模な援軍を得られなかった。彼はカンナエの後もローマ市を直接攻撃しなかった。リウィウスによれば、騎兵指揮官マハルバルは彼に「ハンニバルよ、あなたは勝ち方は知っているが、勝利の使い方は知らない」と告げたという。

ローマは異例の手段で対抗した。自由を約束した奴隷の志願兵を含む新たな軍団を編成し、カンナエで捕虜になった兵士の身代金の支払いを拒んだ。リウィウスによれば、フォルム・ボアリウムではガリア人2人とギリシア人2人を生き埋めにする、まれな人身供犠さえ行った。税が上がり、裕福な市民は国に資金を貸した。ローマはハンニバルの同盟都市を攻めた。マルケッルスは、数学者アルキメデスが設計した防衛設備に守られたシュラクサイを長期間包囲し、紀元前212年に攻略した。アルキメデスはこのとき殺された。紀元前211年には、ハンニバルが救援のためローマへ進軍したにもかかわらず、ローマはカプアを奪い返し、指導者たちを処刑した。紀元前209年にはファビウスがタレントゥムを奪還し、リウィウスは約3万人の住民が奴隷にされたと記している。

スペインでは、プブリウスとグナエウスのスキピオ兄弟が紀元前211年に敗れて戦死した。その息子であり甥でもある若いプブリウス・コルネリウス・スキピオが、紀元前210年に指揮を任された。彼は紀元前209年に大胆な強襲で新カルタゴを奪い、バエクラ(紀元前208年)とイリパ(紀元前206年)でカルタゴ軍を破って、カルタゴをスペインから追い出した。紀元前207年、ハンニバルの弟ハスドルバルは援軍を率いてアルプスを越えたが、兄と合流する前にメタウルス川で敗れて戦死した。リウィウスは、その首がハンニバルの陣営に投げ込まれたと伝えている。

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中級

アフリカとザマ(紀元前204~201年)

スキピオは、乗り気でない元老院を説得してアフリカ侵攻の許可を得た。紀元前204年にウティカの近くに上陸し、紀元前203年には夜襲でカルタゴ軍とヌミディア王シュファクスの冬営地を焼き払い、さらに大平原の戦いで勝利した。スペインではカルタゴのために戦っていたヌミディアの王子マシニッサがスキピオの同盟者となり、シュファクスの王国を奪った。カルタゴはハンニバルとその弟マゴをイタリアから呼び戻した。

紀元前202年、この戦争で最も有名な二人の指揮官がザマで対決した。ハンニバルの戦象に対し、ローマ軍のマニプルスは通り道を開けて突進をかわした。ローマとヌミディアの騎兵が戻り、ハンニバル軍の背後を攻撃したことで勝敗が決まった。カルタゴは講和を求めた。

紀元前201年の条約により、カルタゴはアフリカの領土を保ったが、海外領土を失った。戦象と10隻を除くすべての軍船を引き渡し、50年間で銀1万タラントを支払い、ローマの許可なく戦争をしないと約束した。マシニッサは、カルタゴと国境を接する拡大したヌミディアの王として認められた。スキピオは「アフリカヌス」の名を得た。

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中級

影響:ローマの台頭とカルタゴの運命

勝利によってローマは西地中海の覇者となった。紀元前197年、スペインにはローマの属州が二つ置かれ、そこでの、しばしば残酷な征服が約2世紀にわたり続いた。フィリッポス5世との戦争をきっかけにローマはギリシア世界の問題に関わるようになり、50年以内にマケドニアとセレウコス朝を破った。紀元前2世紀に著述したポリュビオスは、ローマ人が紀元前220年から167年までの53年足らずで、どのように居住世界のほぼ全域を征服したかを説明しようとした。

カルタゴの経済は回復した。ハンニバルは最高政務官(スフェテス)となって財政を改革したが、ローマの警戒によって紀元前195年に亡命を余儀なくされた。彼はローマに対抗するアンティオコス3世に仕え、引き渡しを避けるため、おそらく紀元前183~181年ごろに毒を飲んで死んだ。マシニッサによるカルタゴ領への侵食が第三次ポエニ戦争につながり、紀元前146年、ローマはカルタゴを破壊した。

イタリアも甚大な被害を受けた。戦闘、襲撃、報復によって、南イタリアの一部は10年以上にわたり荒廃した。リウィウスが記すローマの国勢調査の数字は戦争中に大きく減ったが、その数字が正確には何を測ったのかは歴史家の間で議論されている。タレントゥムやカプアなど占領された都市では数万人が殺されるか奴隷にされ、多くの農村共同体が故郷を追われた。アーノルド・トインビーは『Hannibal's Legacy』(1965年)で、この戦争がイタリアの農民に長期的な社会的損害を与え、共和政末期の危機につながったと論じた。後の研究者たちは、その変化のうちどれほどが戦争自体によるものかを問い直している。

イタリア以外でも、ローマ人でもカルタゴ人でもない人々が戦争の影響を受けた。イベリアの共同体は双方から兵士、銀、人質を要求された。スキピオが新カルタゴを占領した際、そこに捕らえられていた人質を解放したことも、イベリア人の支持を得る一因となった。ヌミディアの諸王国はシュファクス側とマシニッサ側に分かれ、シチリアとサルデーニャの共同体も包囲や報復に苦しんだ。こうした人々の多くにとって、ローマの勝利は解放ではなく、長く支配する新たな主人の到来を意味した。

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中級

後世の記憶:ローマ、チュニジア、軍事思想

ローマ人にとって、この戦争は国が苦難に耐え抜いた物語となった。リウィウスの著作は、惨事の中でもローマ人の美徳と団結が生き残った姿を描いている。「ハンニバル・アド・ポルタス」(ハンニバルが門前にいる)のような言葉は、子どもを怖がらせたり危険を知らせたりするラテン語の言い回しになった。叙事詩人シリウス・イタリクスは、この戦争を題材に、現存するラテン語の詩で最も長い『プニカ』を書いた。

敵であったハンニバルは、ある意味では英雄にもなった。才能と忍耐力を称賛され、その最期を惜しまれたのである。首都がカルタゴ遺跡の近くにある現代のチュニジアでは、ハンニバルは北アフリカ史を代表する国民的な人物とされる。紀元前146年に大部分が破壊され、主にローマとギリシアの史料を通じて知られるカルタゴ文化は、考古学によって再発見されつつある。そこには、トフェト聖域での子どもの供犠を示すとされる、議論のある証拠も含まれる。

イタリアでは、この戦争が政治的な目的にも利用された。特にファシズム期の映画『スキピオ・アフリカヌス』(1937年)は、古代ローマのアフリカでの勝利をムッソリーニによるエチオピア侵攻と結びつけた。軍事思想家たちはカンナエを包囲戦の手本として研究し、ドイツの参謀総長アルフレート・フォン・シュリーフェンは『カンナエ』と題する一連の研究を書いた。ハンニバルは戦闘には勝ったが戦争には負けたと多くの歴史家が指摘し、この戦争は戦術上の才覚と戦略上の成功の隔たりを考える代表的な事例となっている。

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上級

史料:ポリュビオス、リウィウスと失われたカルタゴ人の声

メガロポリス出身のポリュビオス(紀元前200年ごろ~紀元前118年以降)は、ギリシア人の政治家で、人質としてローマへ連れて行かれた。そこでスキピオ・アフリカヌスの養孫スキピオ・アエミリアヌスの一族と親しくなった。カンナエまでの戦争を扱う『歴史』第3巻は完全な形で残るが、その後の巻は断片しか残っていない。彼は文書を調べ、生存者に話を聞き、ハンニバルのアルプス越えの道を自ら歩き、先行する著述家を批判した。スキピオ家との親密さが、アフリカヌスの描写に影響した可能性がある。

リウィウス(紀元前59年~紀元17年)はアウグストゥスの時代に著述した。『ローマ建国史』第21~30巻は、この戦争について最も詳しく連続した記述を伝える。彼はポリュビオスや、それ以前のローマの年代記作者を利用した。年代記作者の中には数字を誇張し、演説や出来事を創作した者もいた。また、リウィウスの目的には道徳的、愛国的なものもあった。そのため歴史家は、両者の記述が残る箇所では、リウィウスの細部をポリュビオスと照らし合わせて検討する。

両者は、現在では失われた先行著述家にも依拠していた。戦争中かその直後にギリシア語で歴史を書いたローマの元老院議員クィントゥス・ファビウス・ピクトルや、ハンニバルに同行したギリシア人歴史家、とりわけカレ・アクテ出身のシレノスとスパルタ出身のソシュロスである。ソシュロスの著作は、小さなパピルスの断片だけが残る。カルタゴ人自身による歴史叙述は残っていない。そのため、カルタゴ政府の目的やハンニバル自身の意図は、敵対的、あるいは少なくとも外国人による史料から推し量るほかない。アッピアノス、カッシウス・ディオ(一部はゾナラスを通じて伝わる)、コルネリウス・ネポス、プルタルコスなど後代の著述家も細部を伝えるが、信頼性にはばらつきがある。

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上級

歴史研究上の論争

戦略:ハンニバルがカンナエの後にローマへ進軍しなかったのは誤りだったのか。現代の歴史家の多くは、彼には攻城兵器と安定した補給基地が不足しており、都市を強襲するよりも、イタリアにおけるローマの同盟網を崩すことを狙っていたと考える。そこで問題になるのは、その戦略がなぜ失敗したかである。ローマへの忠誠を保ったラテン植民市、ローマが動員できる兵力と制海権、そしてローマの指導をカルタゴの指導に置き換えることへのイタリアの共同体のためらいが論点となる。

兵力と場所:古代史料の兵力や死傷者数は、しばしば水増しされているか、概数として示されており、現代の推計も大きく異なる。カンナエの戦場、トラシメヌス湖での戦闘地点、なかでもアルプス越えの経路の正確な位置は、何世紀にもわたって議論されてきた。科学的手法も議論に加わっている。例えば2016年の研究は、トラヴェルセット峠で大量の動物の排せつ物が堆積した証拠を発見したと主張したが、立証されていないとみる研究者もいる。

解釈:かつての研究は、この戦争をローマと「セム系」または「東方的」なカルタゴとの文明の衝突として描くことが多かった。こうした言葉遣いは、今では19~20世紀の偏見に影響されたものと認識されている。デクスター・ホヨス編『A Companion to the Punic Wars』(2011年)の論考など近年の研究は、カルタゴをより広いヘレニズム世界と地中海世界の中に位置づけ、イベリア人、ヌミディア人、ガリア人、イタリア人にも目を向ける。彼らの選択も、ローマやカルタゴの選択と同じほど戦争の行方を左右した。

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主な戦い(40)

  1. サグントゥム包囲紀元前219年
  2. トレビアの戦い紀元前218年
  3. ティキヌスの戦い紀元前218年
  4. サグントゥム包囲紀元前218年
  5. ハンニバルのアルプス越え紀元前218年
  6. キッサの戦い紀元前218年
  7. リリュバイオンの海戦紀元前218年
  8. トラシメヌス湖畔の戦い紀元前217年
  9. エブロ川河口の海戦紀元前217年
  10. ゲロニウムの戦い紀元前217年
  11. アゲル・フレルヌスの戦い紀元前217年
  12. カンナエの戦い紀元前216年
  13. ノラの戦い紀元前216年
  14. ノラの戦い (紀元前215年)紀元前215年
  15. デルトサの戦い紀元前215年
  16. カルヌスの戦い紀元前215年
  17. シラクサ包囲戦紀元前214–212年
  18. ノラの戦い紀元前214年
  19. ベネヴェントゥムの戦い紀元前214年
  20. シラルスの戦い紀元前212年
  21. カプア包囲戦紀元前212年
  22. ヘルドニアの戦い紀元前212年
  23. タレントゥム攻城戦紀元前212年
  24. バエティス川の戦い紀元前211年
  25. カプアの戦い紀元前211年
  26. ヘルドニアの戦い紀元前210年
  27. ヌミストロの戦い紀元前210年
  28. カルタゴ・ノウァの戦い紀元前209年
  29. カヌシウムの戦い紀元前209年
  30. タレントゥム攻城戦紀元前209年
  31. バエクラの戦い紀元前208年
  32. メタウルスの戦い紀元前207年
  33. グルメントゥムの戦い紀元前207年
  34. イリッパの戦い紀元前206年
  35. クロトナの戦い紀元前204年
  36. バグラデス川の戦い紀元前203年
  37. ウティカの戦い紀元前203年
  38. ポー平原遠征紀元前203年
  39. キルタの戦い紀元前203年
  40. ザマの戦い紀元前202年

重要なポイント

攻勢戦略
ハンニバルは陸路で戦争をイタリアに持ち込み、ローマ市そのものの占領より、ローマの同盟網を崩すことを目指した。
ローマの粘り強さ
市民と同盟者から多くの兵士を動員できたこと、そして敗北後も講和を拒んだことにより、ローマはハンニバルより長く戦い続けられた。
ファビウス戦略
会戦を避けて敵を消耗させる戦略。「クンクタトル(ぐずぐずする人)」と呼ばれたファビウス・マクシムスにちなむ。
両翼包囲
カンナエで用いられた、敵の両側面と背後を包囲する戦術。後世の軍隊も手本として研究した。
複数の戦線
戦争の行方はイタリアだけでなく、ローマが主導権を握ることのできたスペイン、シチリア、アフリカでも決まった。
同盟をめぐる政治
イタリアの都市、イベリアの諸民族、ヌミディアの諸王が同盟を守るか、相手側に移るかが戦争の経過を左右した。
勝者が残した歴史
現存する記述はギリシア人とローマ人によるものなので、カルタゴ側の見方は史料を慎重に検討して再構成する必要がある。

記録

  1. 紀元前237年 — ハミルカル・バルカがスペインへ渡り、カルタゴの勢力を築き始める(紀元前237年)。
  2. 紀元前226年頃 — ローマとハスドルバルがエブロ川に関する条約を結ぶ(紀元前226年または225年)。
  3. 紀元前219年 — ハンニバルがサグントゥムを包囲して占領する(紀元前219年)。
  4. 紀元前218年 — ローマが宣戦布告。ハンニバルはアルプスを越え、ティキヌス川とトレビア川で勝利する(紀元前218年)。
  5. 紀元前217年 — ハンニバルがトラシメヌス湖でローマ軍を壊滅させる。ファビウス・マクシムスが独裁官となる(紀元前217年)。
  6. 紀元前216年 — カンナエの戦い。カプアなどの都市がハンニバル側に加わる(紀元前216年)。
  7. 紀元前212年 — マルケッルスがシュラクサイを占領し、アルキメデスが殺される(紀元前212年)。
  8. 紀元前211年 — ローマがカプアを奪い返す。年長のスキピオ兄弟がスペインで戦死する(紀元前211年)。
  9. 紀元前209年 — スキピオが新カルタゴを占領する(紀元前209年)。
  10. 紀元前207年 — ハスドルバル・バルカがメタウルス川で敗れて戦死する(紀元前207年)。
  11. 紀元前202年 — スキピオがザマでハンニバルを破る(紀元前202年)。
  12. 紀元前201年 — 講和条約により、カルタゴは艦隊とスペインを手放し、多額の賠償金を支払う(紀元前201年)。

用語集

ポエニ
ラテン語で「フェニキア人」を意味する「プニクス」に由来し、カルタゴとその人々を指す。
バルカ家
ハミルカル・バルカの一族。スペインとイタリアでカルタゴ軍を率いたハンニバル、ハスドルバル、マゴを含む。
執政官
ローマ共和政で毎年選ばれた二人の最高政務官の一人。軍隊も指揮した。
独裁官
ローマ共和政で、緊急時に最高権力を与えられた政務官。任期は通常6か月だった。
軍団
ローマ軍の主な部隊単位。この時代は約4000~5000人の重装歩兵から成った。
マニプルス
軍団内の戦術上の小部隊。柔軟に動けるよう、市松模様状に配置された。
ヌミディア人
カルタゴの西方、現在のアルジェリアとチュニジア西部に住んだ諸民族。軽騎兵として名高かった。
タラント
銀などに用いられた大きな重量単位。アッティカ・エウボイア式では約26キログラム。
賠償金
敗れた国が勝った国に支払うことを強いられる金銭。
スフェテス
カルタゴで毎年選ばれた最高政務官の一人。

よくある質問

ハンニバルは本当に象を連れてアルプスを越えたの?

はい。ポリュビオスによれば、スペインを出発したとき、ハンニバルは37頭の象を連れていました。何頭かはアルプス越えを生き延びてトレビア川の戦いに参加しましたが、大半はその後まもなく寒さで死にました。

なぜハンニバルはカンナエの後、ローマを攻撃しなかったの?

城壁に囲まれた大都市を落とすための攻城兵器と物資が、おそらく不足していました。彼はローマの同盟者を離反させようとしましたが、成果は一部にとどまりました。

カンナエでは何人が死んだの?

古代の著述家たちは、ローマ側の死者を約4万8000~7万人と記しています。現代の歴史家も大惨事だった点では一致していますが、正確な人数については意見が分かれます。

ローマが最後に勝ったのはなぜ?

ローマは市民とイタリアの同盟者から多くの兵士を集められ、海を支配し、同盟者の大半をつなぎ留めました。ハンニバルがイタリアにとどまる間に、スペインとアフリカでも勝利しました。

戦後、ハンニバルはどうなったの?

しばらくカルタゴの政治を率いた後に亡命し、ローマに対抗するアンティオコス3世に助言しました。捕らえられるのを避けるため、紀元前183~181年ごろに毒を飲みました。

リウィウスの記述は信用できるの?

リウィウスは最も詳しい史料を残しましたが、戦争の約200年後に愛国的な目的も持って書き、信頼できないローマ人著述家も利用しました。両者の記述が残る場合、歴史家はポリュビオスを重視します。

カルタゴ人がどう考えていたかは分かるの?

間接的にしか分かりません。カルタゴ人自身が書いた歴史は残っておらず、彼らの考えはギリシア人やローマ人の記述、碑文、考古学から探る必要があります。

出典・参考文献

  1. Polybius, Histories (English translation). Perseus Digital Library, Tufts University
  2. Livy, The History of Rome, Book 21 (trans. Canon Roberts, 1912). Perseus Digital Library, Tufts University
  3. Second Punic War. Wikipedia
  4. Second Punic War. World History Encyclopedia
  5. Hannibal. Wikipedia
  6. Battle of Cannae. Wikipedia
  7. Livy. Wikipedia
  8. Adrian Goldsworthy, The Punic Wars. Cassell, 2000
  9. Dexter Hoyos (ed.), A Companion to the Punic Wars. Wiley-Blackwell, 2011

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上記の公開資料をもとにAIの支援を受けて執筆し、新たな研究に応じて改訂しています。

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