国家
西遼
中国王朝の1つ、遼の実質的な後継国
概要
西遼(せいりょう、拼音: Xī Liáo)は、1132年から1218年までトルキスタンに存在した国。1124年に、金に滅ぼされた遼の皇族である耶律大石が中央アジアに逃れて建てた国家である。
中国史料では遼の皇族による国家であるために「西遼」と呼ばれている。ペルシア語などのイスラーム史料からはカラ・キタイ( قرا ختاى Qarā Khitā'ī:カラー・ヒターイー)と呼ばれる。この語は「黒い契丹」「強力な契丹」の意味とされるが、正確な意味は明らかになっていない。明代に成立した類書『三才図会』では、西遼を指す名称として「黒契丹」という語が使われている。
西遼の君主はグル・ハン( كور خان Kūr khān < Gür χan 「世界のハン」、「ハンの中のハン」、「大いなるハン」、「勇敢なハン」などの意味)の称号を名乗り、イスラームの史家も西遼の君主をグル・ハンと呼んだ。
首都はクズオルド(虎思斡耳朶、quz ordu /غزباليغ Ghuzz-Balïγ グズオルド、フスオルド。契丹語で「堅固なオルド」の意。
すべての統治者(4)
- 耶律大石1124–1143年
- Tabuyan1143–1150年
- クチュルク1204–1218年
- クチュルク1211–1218年
記録 (8)
- 1141年 — カトワーンの戦い戦い
- 1141年 — Battle of Samarkand戦い · Tatars, Qarluqs ▸ Khorasan
- 1204年 — Battle of Andkhud戦い
- 1204年 — Siege of Gurganj包囲戦
- 1208年 — Battle of Irtysh戦い · Genghis Khan, Kuchlag of the Naiman ▸ Meirkit Tribe
- 1210年 — Battle of Ilamish Steppe戦い
- 1216–1221年 — チンギス・カンの西征戦争
- 1219年 — Battle of Otrar戦い · Mongols ▸ Khwarezmian Empire
情報源:Wikidata(CC0)、HCED(CC0)、Cliopatria(CC BY 4.0)。概要はWikipedia(CC BY-SA 4.0)からの抜粋です。