国家
ドゥッラーニー帝国
1747–1823 Afghan empire founded by Ahmad Shah Durrani
- この境界の期間
- 1747–1826年
- 成立
- 1747年
- 終焉
- 1826年
- 首都
- カンダハール, カーブル
- 政治体制
- 絶対君主制, 君主制
- 言語
- ペルシア語, パシュトー語
- 宗教
- イスラム教
- 前身
- ブハラ・ハン国
概要
ドゥッラーニー帝国(パシュトー語: د دورانیانو امپراتوري)、またはアフガン帝国(パシュトー語: د افغانانو واکمني)は、アフマド・シャー・ドゥッラーニーが興した帝国である。最盛期には現在のアフガニスタン、パキスタン、イラン北部、トルクメニスタン東部、カシミール渓谷を含むインド北西部に跨る領域を支配下に置いていた。
1747年にナーディル・シャーが死亡すると、アフマド・シャー・ドゥッラーニーはカンダハール地域を獲得した。そこを拠点に彼はカーブル、次いでガズニーの征服を始め、1749年にはムガル帝国から現在のパキスタンやパンジャーブ北西部にあたる地域の主権を譲渡された。さらにアフシャール朝のシャー・ルフが支配していたヘラートを獲得するため西へ進軍し、続いてヒンドゥークシュ山脈も手中にしようと目論み軍を送り込んだ。ヒンドゥークシュの全部族は短期間のうちにアフマドの軍勢に加わっている。彼の軍は4度に渡りインドへ侵攻し、カシミールとパンジャーブを支配下に置いた。1757年初頭、彼はデリーの略奪を行ったが、既にデリーにおけるムガル帝国の影響力は低下していたため、アフマド・シャーによるパンジャーブ、シンド、カシミールの宗主権を認める限りにおいて帝国の維持は約束された。1762年にはパンジャーブにおいてシク教徒の虐殺事件を引き起こしている。
1772年にアフマドが死亡すると、新たなドゥッラーニー朝の支配者に息子のティムール・シャーが即位した。ティムールは帝都をカーブルへ移し、ペシャーワルを冬季の帝都に定めた。ドゥッラーニー帝国は現在のアフガニスタンにおける国家の基盤と考えられており、アフマド・シャー・ドゥッラーニーは国民の父と称されている。
すべての統治者(2)
- ティムール・シャー・ドゥッラーニー1772–1793年
- マフムード・シャー・ドゥッラーニー1801–1803年
記録 (17)
- 1748–1767年 — Indian campaign of Ahmad Shah Durrani遠征
- 1750–1751年 — Siege of Nishapur包囲戦
- 1750–1751年 — Durrani Campaign to Khorasan遠征
- 1754–1755年 — Durrani Campaign to Khorasan遠征
- 1755年 — Siege of Nishapur包囲戦
- 1758–1761年 — Afghan-Maratha War戦争
- 1764年 — Siege of Rohtas包囲戦
- 1793–1823年 — Afghan Civil War戦争
- 1800年 — Siege of Lahore包囲戦
- 1800年 — Battle of Kabul戦い · Mahmud Shah ▸ Zaman Shah
- 1809年 — Battle of Nimla戦い
- 1813年 — Battle of Hasan Abdal戦い
- 1813年 — Battle of Attock戦い · Punjab ▸ Afghanistan
- 1818年 — Battle of Kabul戦い · Dost Mohammad Barakzai ▸ Mahmud Shah
- 1818年 — Battle of Kafir Qala戦い · Afghanistan ▸ Persia
- 1818年 — Battle of Multan戦い · Punjab ▸ Afghanistan
- 1819年 — Battle of Shupiyan戦い · Punjab ▸ Afghanistan
情報源:Wikidata(CC0)、HCED(CC0)、Cliopatria(CC BY 4.0)。概要はWikipedia(CC BY-SA 4.0)からの抜粋です。