国家
アカイア公国
Crusader principality in southern Greece
- この境界の期間
- 1205–1430年
- 成立
- 1205年
- 終焉
- 1430年
- 首都
- アンドラヴィダ
- 言語
- フランス語
- 宗教
- カトリック教会, ギリシャ正教
概要
アカイア公国(アカイアこうこく、 仏: Principauté d'Achaïe: 希: Πριγκιπάτο της Αχαΐας)は、第4回十字軍参加のフランス騎士ギヨーム・ド・シャンリットによって南ギリシア・ペロポニソス半島に建国された封建国家(1205年 - 1432年)。形式上ラテン帝国、テッサロニキ王国の臣下であり、また自らの臣下として12の男爵を従えていた。正式な君主号はラテン語で「全アカイア公」(princeps totius Achaiae)。
初期は建国者の一人であるジョフロワ1世・ド・ヴィルアルドゥアンの一族が統治したが、その男系が断絶すると、フランス・アンジュー家の統治下に入り、以後、複雑なフランス流血族政治の網の目が張り巡らされていく一方、1262年に半島南部を獲得した東ローマ帝国との争いに揺らぎ、様々な冒険家・戦闘集団がこの地域に入り込んでいく。14世紀後半にはナバラ軍団(ナバラ王国出身の傭兵団)やイタリア系のトッコ家などいくつかの勢力に分割された。
1382年にジョヴァンナが暗殺されると、ジャック・デ・ボーがアカイア侯を名乗ったが、翌年に死去した。その後は遺言によって従兄弟のルイ1世・ダンジューに継承されたが、彼もまもなく亡くなった。ルイ2世・ダンジューとその母親マリー・ド・ブロワはアカイア侯位のロドス騎士団への売却を決定し、アヴィニョン教皇クレメンス7世の承認の下で両者は1387年に合意に達したが、ナバラ傭兵団長のペドロ・ボルド・デ・サンスペラーノやヴェネツィア共和国、ネリオ1世・アッチャイオーリらの反発を受けた。彼らはルイ2世・ド・クレルモンを新アカイア侯に擁立し、それをローマ教皇ウルバヌス6世が承認した。対してクレメンス7世は、ロドス騎士団への売却を無効化して、かねてよりアカイア侯を称していたアメデー・ド・サヴォア=アカイエなる人物を新アカイア侯に据えた。
すべての統治者(4)
- カルロ2世1285–1289年
- フィリッポ1世1301–1307年
- Isabelle de Sabran1313–1315年
- Pedro Bordo de San Superano1396–1402年
記録 (13)
- 1258年 — Battle of Karydi戦い
- 1263年 — Battle of Makryplagi戦い
- 1263年 — Battle of Mesiklis戦い
- 1263–1266年 — Achaean–Byzantine War戦争
- 1263年 — Battle of Prinitza戦い · Latin Principality of Achaea ▸ Byzantium
- 1293年 — Battle of Zonglos戦い
- 1294年 — Fall of Nikli戦い
- 1314–1316年 — Conquest of the Principality of Achaia遠征
- 1326年 — Battle of Santameri Plain戦い
- 1359年 — Battle of Megara海戦
- 1375年 — Battle of Gardiki戦い
- 1378年 — Knights Hospitaller invasion of Despotate of Arta侵攻
- 1429年 — Siege of Patras包囲戦
情報源:Wikidata(CC0)、HCED(CC0)、Cliopatria(CC BY 4.0)。概要はWikipedia(CC BY-SA 4.0)からの抜粋です。